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猪野学の“坂バカ”奮闘記<53>史上最悪のデスライド「エベレスティング」<後編> 苦痛を乗り越え、ついに開けた悟りの境地

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 NHKBS『チャリダー★』で猪野学さんが挑んだ「エベレスティング」の舞台裏を描いたリポート<後編>。エベレストの標高である8848m分の坂を上るという壮絶な挑戦を前に、暑さとハンガーノックで窮地に立たされた猪野さん。持ち前の“坂バカ魂”を奮い立たせ、なんとか上り続けますが、そんな猪野さんに“坂の神”はさらなる試練を与え続けます。

暑さと疲労で食べ物を受け付けなくなった身体。スイカには幾度となく助けられた…
◇         ◇

ゆっくり上る坂は、ただの“拷問”

 エベレスティング挑戦中。5本目にハンガーノックになってしまった私は、
中野さんがリュックから取り出した白い粉に助けられた。白い粉、その名は「モルテン」。マラソン選手などがよく使う飲み物で、カロリーを胃ではなく腸で吸収してくれる優れものらしい。水に溶かして飲んでみると不思議と胃が受け付けない感じがなくすんなり飲める。味もほんのり甘くて美味しい。これなら…行けるかも知れない!

戦友2人はハーフを達成した。素晴らしい!応援してくれるのかと思ったら宿に帰ってしまった…

 しかしこのドリンク、わずか300キロカロリーしかない。17kmの柳沢峠を上るには足りないのだ。私は用意してもらったお粥(こちらも300キロカロリー)を何とか流し込んだ。これでもまだ600キロカロリーだ。全然足りないが、仕方ない。

 カロリー不足で6本目へと挑んだ。ドリンクの効果により少しずつ力が湧いてくるのを感じる。でも油断は禁物だ。頑張り過ぎるとまたハンガーノックになってしまう。出力を130Wまで落とす。脚も体力もまだまだある。しかしカロリー不足のため、ゆっくり上らなければならない。これは初めて経験する苦行だった。

 私はよく『チャリダー★』の中で坂が遅い朝比奈彩をバカにして来たが、この場を借りて謝罪したいと思う。坂は速く上るから楽しいのであって、ゆっくり上るとただの拷問だ!

解脱し、仏の境地へ

 6本目は大幅に遅れ、85分の最遅タイムを叩き出してしまった。それでも徐々に回復してきた私は7本目、そして“魔の6000m”もクリアした。しかしここからが本当にキツかった。

 エベレスティングはカウントダウン(残り3本)まで行ければほぼ達成できるといわれている。しかしカウントダウン前の「残り4本」という、この「4」という数字がとてつもなく重い。正直、この7本目から8本目までが一番精神的にキツかった。この頃にはすっかり峠に漆黒の闇が訪れ、制限時間内にゴールできるか微妙な状況になっていた。

 そしてもう一つ、エベレスティングで過酷なのが、「寝てはいけない」というルールだ。寝ないために心拍数を上げたいが、エネルギーを消費してしまうから上げられない。まさしく八方塞がりとなった。

悟りを開く直前。必死に己と戦う

 「もう駄目だ!どうにでもなれ!」と想ったその時だ─。全身の力が抜けた。そう、私は限界に達したのだ。力が抜けると不思議と冷静になれる。苦しいと思うから苦しいのだ! 冷静になった私は解脱し、仏の境地に達した。

 目をひん剥くのをやめ、仏様の様に半眼にし、目の前の白線に集中した。白線を辿れば頂上に着くのだ!これが世に言う「奈良の大仏半眼大作戦」だ! 別に奈良の大仏でなくても良いのだが…。

 私は流れに身を委ね、白線をぼんやり見つめる“座禅走方”で最大の難所、8本目をクリアすることに成功した。 9本目まで来れば後は待望のカウントダウンだ! やっと先が見えた。これは行けるかも知れないぞ! ここで初めて「完走」の二文字が頭をよぎった。

サイコン充電で痛恨のロスタイム

 しかしまた神は試練を与えた。何とサイコンのバッテリーが底を尽きそうなのだ! もちろんエベレスティング挑戦のために、スタッフは30時間もつサイコンを用意してくれた。しかし、しかしだ! 30時間もつのは「バックライト消灯時」らしい。私は昼間でもバックライトを付けっぱなしにしていた。

エベレスティングは8848m上ればそこで終わりではなく。坂を最後まで上らないといけないルール

 これは痛恨のミスだ!ログが取れないということは、8848mを上った証拠が無いことを意味する。ここでサイコンを充電するため、足止めを食らうことになった。充電している間、中野さんのマッサージを受ける。これがまた気持ち良過ぎて寝てしまう。これは危険だ!やること全て裏目に出る! 中野さんのマッサージを丁重にお断りし、ひたすら充電を待った。

 1時間くらい経っただろうか。充電もそこそこに9本目をスタートした。もちろんバックライトは消して、だ! サイコンが見えるのは、ぼんやりと明かりが灯る、お化けが出そうなトンネルだけだ。

 トンネルで獲得標高を確認する。しかしいくら走っても数字が上がらないではない!やはり充電が不十分なのか? 私は狼狽し、バイクカメラのスタッフKに「獲得標高が上がらない!」と泣き叫んだ。すると「トンネルの中だからです」と極めて冷静な声が返って来た。当たり前だ。トンネル内にGPSは届かない。人間というのは限界に達すると当たり前のことが判断ができなくなる。

相次ぐ試練

 サイコンは正常に作動し、9本目をクリアした。いよいよ残り2本だ!ここまで来ると下りもキツくなって来る。判断を謝れば今までの苦労が無駄になる。上りより集中力を高めて下る。

 下山して再びドリンクを飲む。いざ10本目!ここを上ればラスト1本だ! 私の予想では、ラスト1本はゴールに向かう悦びで上れるはずだ。この10本目さえ頑張れば! と自分を鼓舞し、スタートした。

 しかし、またしても試練が訪れた。スタートして間もなくギヤをインナーに入れた瞬間、チェーンが落ち、クランクとチェーンリングの間に噛んでしまったのだ! 私は慌ててバイクを降りて道の駅まで走って戻った。工具を取り出し、噛んだチェーンを外そうとするが、複雑に噛んでいて取れない。

 「これはクランクを外してチェーンリングを一度外さないと無理ですね…」とスタッフが言った。そんな時間はない! 私はここまできてメカトラで断念しなければならないのか!

相次ぐ試練に、失意に暮れる筆者

 その時“スタッフK”が何やら熊手を小さくしたような、見たこともない工具でガチャガチャとやり出した。するとパキッという音と共に「取れました」と一言。歓喜が響く深夜の道の駅。私はスタッフKのお陰で10本目をスタートすることができた。このスタッフKは番組には欠かせない名物スタッフで、幾度の困難を救ってくれた強者なのだ。戦場に行っても確実に生還するタイプだ。

今まで経験したことのない喜び

 10本目は「あとこれを上ればラスト1本だ!」という想いだけで不思議と難なく上れた。やはり人間先が見えないのが1番苦痛なのだ。

 10本目を終えると嬉しいことに最後の下りだ。この長い坂を10本もダウンヒルしたのかと、最後の下りを慎重に噛み締めながら下る。

 下り終えるともう深夜3時になっていた。中野さんは寝ずに付き合ってくれている。中野さんのサポートがなければ私はここまで辿り着けなかった。スタッフKも同じくだ。私はたくさんの人達に支えられ、最後の1本を上る事が出来る! 感謝のヒルクライム! 11本目のスタートだ!

 正直最後の1本が最も調子が良かった。身体は疲れ切っているはずなのに、身体の奥底から今まで経験したことのない喜びが込み上げて来た。私は漆黒に紛れ、涙した。力がペダルに伝わり、自転車が進む。この当たり前のことが嬉しくて仕方がなかった。

最後の残る力を振り絞る

 コーナーを曲がるごとに、「これで最後」だとコーナーに別れを告げる。すると私を祝福するかのように辺りが明るくなり始めた。終わる。終わるのだ。エベレスティング達成という事実より、この苦痛が終わるということの方が嬉しかった。

 そして待ちに待った瞬間が訪れる。私はこのゴールの瞬間を何度もイメージしながら一日中坂を上って来た。フルダンシングで加速し、ガッツポーズでフィニッシュを迎えようと。そして私はイメージ通りに加速し、全ての力を出し切って待望の瞬間を迎えた。

朝まで付き合ってくれた皆様。感謝に尽きる

エベレスティングが心に残した“何か”

 ゴール後、一通りの撮影を終えて宿に戻り、シャワーを浴びた。不思議と悦びや達成感、そして眠気がやって来ない。もうゴールする前に一通り味わってしまったのだろうか…。都内までの帰りの車内でも私は一睡もできなかった。人間、疲れ過ぎると眠れないものだ。

 ようやく帰宅し、冷やしとろろ蕎麦を食べ正午過ぎに布団に潜り込んだ。次の朝まで起きないかと思われたが、夕方には目が覚めた。不思議ととんでもない挑戦をやり遂げたという実感が湧いて来ない。仏の境地に達したせいだろうか?

 しかしエベレスティングは確実に私の心に何らかの痕跡を残している。何かが…私の中で変わっている。それほどの出来事だった。

 2020年は世界中で厳しい一年になった。しかしこの年だったからできた挑戦かも知れない。エベレスティングにより、苦しさの中に何かを見出すことの大切さを私は学んだ。そんな2020年であった。

 来年は、少しは穏やかさを取り戻せることを祈りつつ。

 皆様 良いお年を。

(画像提供:猪野学、テレコムスタッフ)

猪野 学(いの・まなぶ)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:50)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ

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