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猪野学の“坂バカ”奮闘記<52>史上最悪のデスライド「エベレスティング」 未知なる挑戦の舞台裏<前編>

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 新型コロナウイルスの「緊急事態宣言」がそろそろ解除されようとしていた7月下旬、私は坂バカとしてあることに挑戦することになった。「エベレスティング」。それはエベレストの標高8848m分坂を上るというとてもシンプルな挑戦だ。コロナ渦でレースがことごとく中止になる中、世界中で流行っている過酷な挑戦だ。私は過去に「PEAKS」というイベントで1日に5000m上ったことがあるが、これにあとプラス3850m。 自粛生活でエネルギーがあり余っていた私は迷いなく挑戦を決断してしまった。己史上、最悪のデスライドになるとは知らずに…。

牧野ステテコ氏とふるやいなや氏も一緒に挑戦した。しかし一緒に走る事はほぼなかった

マッサー中野さん「筋肉が高野豆腐」

 挑戦の前に世界中の超耐久ライドを走破しているMTB・プロライダーの池田祐樹氏(TOPEAK-ERGONレーシングチームUSA)と、世界最高のUCIワールドツアーチームのマッサーを務めたことがある中野喜文氏(エンネスポーツマッサージ治療院代表)に教えを乞うことになった。中野さんには「見届け人」として挑戦当日も来ていただくという。なんとも豪華なゲストだ。これは番組もかなり力を入れている。今年1番の大企画だ!

挑戦前日 翌日に地獄が訪れる事をまだ知らない筆者

 早速、世界の中野さんに私の身体を見ていただくと、「そんなに身体に強張りはないが、筋肉が高野豆腐のようですね」とのこと。世界の一流選手の筋肉は絹ごし豆腐のようにプリンプリンらしいが、初老の私が絹ごしなわけがない! 高野豆腐が充分だ。味が染みて良いではないか! 初老は味で勝負だ。

 私が何より懸念しているのは腰痛だ。中野氏によると、どこかが炎症し出だしたら完走は困難となるらしい。なるべく軽いギヤで負荷をかけずに走る作戦で行くことにした。

 お二人にはローラーで身体の使い方もチェックしていただいた。世界で活躍するお二人にペダリングを見ていただけるとはありがたい!これを機に一気に速くなってしまったらどうしよう! そんなアドバイスを期待していたら、お二人は「これは深刻ですね…」と怪訝な表情を浮かべた。

 どうやら私のペダリングは左右の動きが別物で、すぐに直せるレベルではないらしい。意識して直せるものではなく、直せたとしてもかなりの時間を要すると。たしかに、過去にヘルニアを経験した私は右脚と左脚がまるで違う生き物の様に感じる時がある。一体私の腰の中はどんな状態になっているのだろうか?

 しかし長年悩んでいた症状を一目で見極めるなんて、やはりプロは流石だ。 私はむしろ何だか晴れ晴れとした気持ちになった。悩んでいても仕方ない! 直らないもは直らない! 現状を受け入れるしかないのだ。

目標は19時間でゴール

 挑戦のステージとなる坂は東京と山梨との県境にある柳沢峠だ。この柳沢峠がなかなかの強敵だった。距離は17km、獲得標高は830m、これを11本往復する(分かり安く例えると榛名山ヒルクライムを11本といったところだろうか)。勾配が緩く、交通量も少なく、安全で蚊やブヨなどの虫もいない。撮影にはもってこいの坂だ。

 しかし…しかしだ。この坂、安全なだけに変化がなく、とにかく単調なのだ。
おまけに幽霊が出そうな長いトンネルが3つもある。そして勾配が緩い分、下りに時間がかかる。

 そしてさらに私を苦しめたのが気候だ。当初は梅雨が明ける前の涼しい時期に行う予定だった。しかし私のドラマのスケジュールと悪天候が続いたせいで、7月下旬の暑い時期での挑戦になってしまった。

挑戦当日の夜。まだ月が高い時間から準備が始まった

 私の目標は19時間でゴールすること。一本75分ぐらいで上り、30分で下り、休憩を10分で済ませば可能なタイムである。出力も160Wそこそこで済む。160Wなんて鼻歌気分の出力だ。楽勝ではないか! しかし後にこの160Wが出せなくなる。そして下りも30分では下れないことが判明するのだ。

襲いかかる「飽き」と「ハンガーノック」

 想定がことごとく外れる事を知らずに朝の5時にスタート!初めの一本は坂との“初顔合わせ”だ。路面状況をチェックしながら難なく上る。涼しい内に標高を稼ぎたいのですぐに2本目、3本目と続ける。

 しかし3番目の途中で早くもそれはやって来た。「飽き」だ。これはマズい!そこで思いついた作戦が半分の6本までは「無きもの」とする。そう! 下北半島310kmを完走した時に大活躍した、「私は貝になりたい」大作戦だ! 意識と心を一切閉じて無の境地となり、前半は無きものとするセコイ作戦だ。

 しかしエベレスティングではこの作戦は全く通用しなかった。「飽き」が自我という名の貝の蓋をパカっと開いてしまう。その理由は、同じ坂を何度も上るため、景色が変わらない。そして1人で走るため、話し相手がいない。変化が無く、退屈で孤独。これは人生においても最も恐ろしいこと。地味だけど確実に苦痛なのだ。

 さらに追い討ちをかけるように陽が登り始め、猛烈な暑さが襲って来た。そこに突然、恐れていた事態が起こった。猛烈な吐き気と共に全身の力が抜けて意識が遠のいて行く…そう…ハンガーノックだ。

 私は事態が呑み込めなかった。ウルトラエンデュランスにおいてハンガーノックは1番気を付けなければいけないことだ。おかしい…補給は怠っていなかったはずだ! しかし私の補給は全然足りていなかった。

前夜の食事。カツカレーに蕎麦も付けたが全然足りなかった…

 おまけに前々日まで撮影していたドラマの役作り(命を吸い取られ死亡する役)で減量をしていた。そう、グリコローディングが出来ていなかったのだ。何とか吐き気を堪えながら5本目を終えて下山した。

中野さんが取り出した“白い粉”

 すがるように中野さんに相談すると、暑さで胃がやられた可能性があるという。私は暑さのためにドリンクに氷を入れてしまっていた。これにより胃腸が疲れて栄養を吸収しなくなってしまったというのか…。体力はまだ有り余っているが、食事が喉を通らない。食べられないということは、すなわち上れないということを意味する。

明るくなると猛烈な暑さに。エベレスティングはどの季節にやるかで内容が大きく変わる

 「これはもう無理かも知れない」─この時私はリタイアを悟った。私はこんな初歩的なミスで挑戦を終えなければならないのか! 大勢のスタッフがこんな山奥に来て私を支えてくれている。予算もかなりかかってるぞ! それに何よりこれまで上った5000mを返してくれ!

 やってしまった…。私の挑戦は終わった…と思ったその時、中野さんが「いいものが有りますよ」とリュックの中をごそごそと探り出した。すると中から何やら白い粉を取り出した…。

 白い粉…まさか!中野さん!?

 ここから“世界の中野”が降臨するのであった。

<後編に続く>

(画像提供:猪野学)

猪野 学(いの・まなぶ)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:50)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ

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