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猪野学の“坂バカ”奮闘記<51>肉離れの“悶絶帯同”で見たモビスターチームの聖域<番外編>

by 猪野学/Manabu INO
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 前回で『チャリダー★』のスペインロケの話題は完結したとお思いの読者も多いだろう。しかし今年はコロナのせいでいかんせんコラムのネタがない。といいつつ、色々と盛りだくさんだったスペインロケについてはまだ書き足りない部分もあるので、今回はアレハンドロ・バルベルデから少し離れ、取材の裏側を書かせていただく。

「ブエルタ・ア・ムルシア」出走前のアレハンドロ・バルベルデと

 アレハンドロとの伝説のライドを終えた我々は、チーム・モビスターの広報、トムの計らいで「ブエルタ・ア・ムルシア」というレースを取材させてもらうことになった。開催場所はムルシアのリゾート温泉地。到着するとガウン姿のスペイン人が街をウロウロしていた。日本でいう熱海のような場所なのだろうか。

レーススタート前、記者に囲まれるアレハンドロ

 熱海と違うのは皆がガウン姿というだけでなく、2019年の世界選手権2位のマッテオ・トレンティン(イタリア、現CCCチーム)やエンリク・マス(スペイン、モビスター・チーム)などのテレビで観る有名選手がたくさんいて、とても華やかなことだ。

アレハンドロに付き添う、広報トム

 現場で落ち合った広報トムはチームのスタッフやメカニックを紹介してくれた。そしてチームのボトルやヘルメットを「持ってけ!持ってけ!」と気前良くくれた。しかし事あるごとに「視聴率はどれぐらいなんだい?」と番組の視聴率を気にする癖があった。当然だ、広報とはそういう仕事なのだ。

 取材を終えると夕食の時間になっていた。トムは「せっかくだから食ってよ!」と言って我々をチームの食事に招いてくれた。

チームとの食事に緊張が隠せない筆者

 やがて選手たちもやってきた。彼らは席に着くと修行僧のようにパスタだけを黙々と食べ始めた。これは彼等にとっては日常の食事なのだろう。私も選手たちと同じようにパスタのみの食事に挑戦したが、パスタそのものの味がしっかりしていて意外と旨かった。

 メカやマッサーも遅れてやって来た。彼等は選手とは真逆で肉やワインを貪り食べる。体力勝負なのだろう。マッサーの1人が「スペインに来てワインを呑まないなんて野暮だぜ!」と私にワインを勧めてくれた。お世辞抜きにとても美味しいワインだった。取材じゃなければガブ飲みしていただろう。

スペインでまさかの肉離れ

 翌朝、私は激痛で目が覚めた。前日のライドで痛めた肉離れによる炎症が本格化したのだ。コーディネーターM女子に相談すると、彼女はすぐに薬局へと走ってくれた。

M女史が買ってきてくれた薬

 すぐに彼女は、「これはとても効くらしいです!」と笑顔で帰って来た。仕事が早く、優秀だ。何とも頼もしいではないか!

 この薬は日本でいう「バンテリン」や「ボルタレン」的なものだろう。有難い! これできっと大丈夫だ! 私はトイレに駆け込み、早速患部に塗ってみた。

 しかし、しかしだ…いつまで経っても待望の冷んやり感が来ないではないか!うんともすんともいわない。これは本当に薬なのだろうか? 日本の薬は本当に優秀だ。中国人観光客が爆買いするのも良く分かる─と、独りスペインの僻地のトイレで痛感するのであった。

チームカーの激しい動きに悶絶!

 トイレから出るとレースのスタート時間がすでに間近に迫っていた! 私は広報トムの視聴率狙い…もとい、ご好意で第1チームカーに乗せてもらえることになった。第1チームカーは選手に一番近く、監督が乗る車だ。恐らく日本のメディアでは初めてのことだろうが、申し訳ないがそんなことより私はとにかく脚が痛い!

 レースがスタートすると監督は猛烈な勢いで車を飛ばす。他のチームカーに接触しそうになる度に急ブレーキ! 踏ん張る私の脚に激痛が走る。激痛に耐え忍んでいると、山岳地帯が現れた。

 やはり山岳は実力の差が出る。集団のペースに付いて行けないマイナーチームの選手たちは、どんどん降ってくる。追い抜きざまに彼等の顔を見ると、顔を真っ赤にして鬼の形相でペダルを踏んでいた。何かを打開しようと頑張る人の姿というものは美しいものだ。

 彼等はいつの日かワールドチームに入れるのだろうか─。私は大して俳優として売れていない己の姿を彼等に重ねてみた。このまま人生“グルペット”で終わるのだろうか…。いつの日か芸能の最前線のトッププロトンに入る事はできるのだろうか。

 と感慨にふけっていたら、再び脚に激痛が走り始めた。そう、下りだ!地獄の“激痛悶絶ダウンヒル”のスタートだ!ジェットコースターのように下るチームカー! 踏ん張る脚に激痛祭り!

悶絶する筆者をよそに、ゴールへ向かうチームカーの車内

 すると先程まで遅れていた選手たちが集団に復帰しようとものすごい勢いで車を追い抜いて行く。ビュンビュン、まるでハレー彗星だ! 中にはコーナーを曲がり切れずに荒野に消えた選手もいた。命懸けのダウンヒルの代償として、彼等は下りが終わる頃には見事に集団に復帰していた。夢を掴むのは命懸けだ。

 レースが本格的に動き出す前の補給地点で、私は監督に礼を言ってチームカーを下りた。別のチームカーに乗り換え、ゴール地点へと向かった。

チームにとって選手は「宝物」

 ゴール地点は古いお城だ。城門へと向かう激坂を上るとゴール! 私はあと数分後に、初めて海外レースのフィニッシュを目の当たりにすることができるのだ。

ゴールへと向かう最後の激坂

 すると突然、「Kawasaki!」(※)と声をかけられた。なんと前日一緒にムルシアを走った仲間たちではないか! 「昨日は楽しかったな」としばしの談笑。自転車という乗り物は、一瞬で人との距離を縮めてくれるものだとつくづく感じた。

(※スペインロケで筆者に付けられた呼称)

前日、一緒にムルシアを走ったアレハンドロとその仲間たち

 ゴールには大型ビジョンがあり、皆でレースの模様を観戦する。今日はアレハンドロの日ではないようで、6人くらいの逃げ集団で勝負が決まりそうな情勢だった。

 その時、お城の下方から歓声が上がった。逃げ集団が最後の激坂に差し掛かかったのだろう。これだ!この興奮だ!ツール・ド・フランスなどで観る海外レースのゴールの瞬間だ! 私は大型ビジョンを食い入るように見つめた。激坂を駆け抜ける選手達! 興奮は最高潮だ!

 すると目の前に1人の選手が現れた。走り終え、ダラダラとよだれを垂らし、苦しそうな表情を浮かべている。ビジョンに目を戻すと目の前にいる選手がビジョンの中でもがいている。

 「ん?何が起こっているのだ?」─「時」という概念が一瞬壊れる。そうか!タイムラグだ!! テレビの中継は若干遅れて放送していたのだ! 何て事だ!私は初の海外レースのゴールの瞬間を見逃してしまったのだ!

ゴール地点、ビジョンの放送はリアルタイムではなかった…

 私の失意とは関係なく、ぞくぞくと選手たちがゴールして来る。世界のトッププロが最大心拍数で飛び込んで来るのは迫力がある。

 その中にヘタり込むモビスターの選手がいた。不甲斐ない結果だったのか、顔を手で覆い嘆いている。その横で広報トムが必死で励ましていた。選手を励ますのも彼の仕事なのか…。

 私は少しだけチームに帯同して気付いた。チームスタッフにとって選手は宝物なのだ。ここは彼等の聖域だ。そう易々と部外者が踏み込めない世界。私は何か場違いな気がして来て、別れの挨拶もろくにできず、帰国の途についた。

◇         ◇

 帰国してすぐに新型コロナウイルスが世界中に蔓延してしまった。スペインもかなりの被害を被った。まさかこんな事態になるとは…。目に見えているこの世界は意外と脆いものだと誰もが痛感した。

 奇跡的に開催されたツール・ド・フランスをテレビで観ながらモビスターの面々の姿を探す。私に美味しいワインを勧めてくれたマッサーが元気に選手にボトルを渡していた。そう、彼等は今日も“宝物”を大事に守っているのだ。

 今では懐かしいスペイン旅。私はすっかり治った肉離れの患部を撫でて、改めて思う。日本の薬は優秀なのだと…。

(画像提供:猪野学、テレコムスタッフ)

猪野 学(いの・まなぶ)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:50)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ

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