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猪野学の“坂バカ”奮闘記<50>バルベルデのヒラメ筋が目の前に‼ 伝説の「ムルシアライド」がついに実現<後編>

by 猪野学/Manabu INO
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 アレハンドロ・バルベルデ氏の兄の出現により、伝説の「ムルシアライド」が敢行されることになった。ようやく夢が叶うのだ。“兄デルデ”(バルベルデのお兄さん)とコーディネーターのM女史は地図を広げて入念に打ち合わせをし出した。コースの確認だ。基本的には平坦のコースで、もしかすると山岳まで行くかも知れないとのこと。要は、行ってみないと分からないわけだ。

バルベルデ(左奥)率いるライドに千切れまいと必死についていく筆者(右奥)

 さっそく出発しようと自転車に跨ると、兄デルデのバイクに何やら黒い物体が付いている。よくスーパーの駐輪場で見かける奥様達の強い味方…バッテリー!なんとロードバイク型のe-BIKEではないか!!

地図でコースを確認するコーディネイターと“兄デルデ”(写真右)、と筆者

  聞くとこのe-BIKEは、時速60キロで選手達を引き摺り回すらしい…。「最後まで残れるのはアレハンドロだけだけどね」と優しい笑顔で兄は言う。まさかアレハンドロ以上の強敵が現れるとは…。私は全身から血の気が引いたが、ここまで来て逃げるわけには行かない。付いて行ける所までは死にもの狂いでしがみ付くのだ!

バルベルデを前に緊張の面持ちの筆者

バルベルデ「やるじゃないか、KAWASAKI!」

 さっそくスタートすると小さな丘が現れた。いきなり360Wぐらいまで上がる。私は普段のインターバルトレーニングで2分だけなら340W出せる。坂が短いのでなんとか付いて行くことができた。

一緒に走ったスペインの猛者たち。時速60キロに耐え得るらしい…

 頂上付近でアレハンドロが後輪をバンプさせ、キュッキュッとタイヤを鳴らしてアタックした。初めて見る芸当だ! そしてそこから下りの加速が半端なかった!一瞬で離される!これが世界レベルのアタックか!

 兄デルデが「付いて来い!」と私をアシストしてくれる。猛烈なスピードで丘を下る。いきなり世界レベルのダウンヒルで手荒い歓迎だ。丘を下って市街地の信号で止まった時にアレハンドロが、「あのダウンヒルに付いて来るとはやるじゃないか、KAWASAKI!(※日本人ということで私に付けられた呼び名)」と言ってくれた。

 世界チャンピョンが褒めてくれた。お世辞でも嬉しいとはこのことだ。

ムルシアは「自転車選手が育つ街」

 市街地を走っていると次々に地元ローディーが現れ、気がつくと20人ぐらいの集団になっていた。先頭はアレハンドロと、同じくムルシア州出身のルイス・レオン・サンチェス(アスタナ・プロチーム)が引いていた。何とも豪華な集団だ! 私はいつ千切れても良いように後方に陣取った。しかしいつまで経っても強度が上がらない…。時速40キロくらいで軽く流す感じだ。

スペインの道は路肩が広く、とにかく走りやすい。そして乾燥しているのですぐ喉が渇く

 しばらくすると長くて緩い坂が現れた。さすがに坂は300W近くまで強度が上がる。ムルシアの地元ライダー達も呼吸が乱れ出す。私もだんだんと辛くなってきた。

 先頭を見ると猛者達は談笑しながら上っている。何て強さだ!!さすがに付いて行けるのはここまでか…と思った時に登坂が終わり、アレハンドロ達が後ろに下がって来た。どうやら頂上で先頭交代するのが習わしのようだ。

 後ろに下がって来たアレハンドロが私を見て、一瞬驚いた顔をした。どうやらとっくに千切れたと思っていたらしい。

 すると後ろから「KAWASAKIーッ!!」と呼ばれ、ゲラゲラと笑い声がした。どうやら東洋から来た水玉眼鏡を歓迎してくれているようだ。そして黄色と赤のスペインチャンピョンジャージを着たライダーが「一緒に逃げようぜ!」と言ってきた。

 断る理由もないので「バレッ!」(OK)と返して2人で逃げることに。「俺はスペインチャンピョンなんだせ!」と加速するが、せいぜい時速45キロ。チャンピョンらしからぬ巡航速度だ。私は騙されない。スペインチャンピョンはバルベルデだっ!! 何処にでもこういうオヤジはいるものだ。

デーモンと呼ばれるルイス・レオン・サンチェス。今年のスペインチャンピオンだ

 やがて“偽チャンピョン”と私の逃げは吸収された。再びルイス・レオン・サンチェスが前に出る。近くで見る彼の体幹はとんでもなく厚く、お尻とハムストリングスはまるで競走馬のようだ。すると偽チャンピョンが「奴はデーモン(悪魔)だ!気を付けろ!」と叫ぶ。恐らく日頃から引きずり回されているのだろう。

 ここムルシアではプロとアマチュアの垣根が全くない。何とも羨ましい話だ。おまけに1年の320日ほどは晴天らしい道は広いし、車からのクラクションは敵意ではなくリスペクト、応援のクラクションだという。バルベルデやサンチェスがシーズンオフにわざわざムルシアまで帰るのが分かる気がする。ここは、自転車選手が育つ街なのだ。

実はレース前日の「軽めのライド」?!

 集団は一軒のカフェに止まった。どうやらランチ休憩のようだ。

 するとここに来て急に彼等が打ち解け始めてくれた。皆、次々に私に話し掛けてくる。アレハンドロも先程とは別人のように親しくしてくれる。先程の登坂で私を一人前のサイクリストと認めてくれたのだろうか? 一緒に走ると心が打ち解ける。このサイクリスト現象は世界共通のようだ。

カフェにて、緊張のあまり脚しか撮れない筆者。奥の黄色、赤ジャージが偽スペインチャンピオン

 昼食が終わると、遂に兄デルデのバッテリーが本領を発揮し出した。今までとは打って変わって強度が一気に上がった! メーターを見ると370W。ウルトラマンなら3分、私は2分しか持たない強度だ!

 時速は60キロ、しかし地元ライダー達はこのスピードに付いて行く。さすがは自転車大国スペイン。一般ライダーのレベルが高い。しかしこの高強度巡航も5分くらいで終わり、また集団は緩んだ。

 後で聞いた話だが、翌日が「ブエルタ・ア・ムルシア」というレースのため、この日は本当に軽く流す程度だったらしい。そう!ディレクターの到着が1日遅れたおかげで、私はレース前日の緩いライドに参加できたのだ! 物事には必ず良い側面もある。あの暇なバレンシア空港での時間は無駄ではなかったのだ!

たくさんの縁がつながり、実現したスペインロケ

 集団はまたムルシア市内に戻り、1人1人と離脱し、またバルベルデ兄弟と私だけになった。300Wくらいでバルベルデ邸宅へと続く最後の長い坂を越える。無事にライドが終わる安堵感と永遠に続いて欲しいという想いが交錯する。

 今、自分の目の前でペダリングするヒラメ筋はアレハンドロ・バルベルデのものなのだ。こんなこと、もう2度と起こらないだろう。

 ゴールしてアレハンドロの顔を見て驚いた。一滴も汗をかいていない…涼しい顔をしている。そう、世界チャンピョンは300Wそこらじゃ汗をかくほど代謝しないのだ。「今日は本当に軽く流しただけさ」と彼は微笑んだ。そして「明日はレースだから、そろそろホテルに移動するよ」と言って、アレハンドロ兄弟と別れた。

 何とも夢のようなひと時であった。市内へ戻る車内でディレクターが言った。「実はこのスペインロケは色々な人との『縁』で実現しているのだよ」と。

 一人一人の縁が繋がり、私はアレハンドロへと繋がったのだ。こんな奇跡のようなことが当たり前のように起こってしまうのが、人の縁の力というものだ。自分の存在意義を問い、無力感に襲われる夜がある。しかし人はただ存在しているだけで誰かの役に立っている。生きているだけで意味があるのだ。旅はかけがえのない財産を与えてくれる。

ライドを終えて快心の笑み。この後肉離れに苦しむことになるとは知らずに…

 と想いに耽っていたその時、左脚がジンジンと痛み始めた…。どうやら肉離れを起こしたようだ。兄デルデのアタックの時だろうか…。旅は肉離れという、ちょっと痛いお土産もくれた。

 ムチャス   グラシアス!!エスパーニャ!

(画像提供:猪野学、テレコムスタッフ)

猪野 学(いの・まなぶ)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:50)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ

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