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連載第21回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 最終話「エピローグ」

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 7年ぶりの王滝は更に荒れていた。元々ひどく荒れた林道だったが、ガレに磨きが掛かっている。ラインを探るだけでも神経を使う。前には幾人もの乗り手がクランクを回しているからペースメーカーになってくれるのでまだ良いが、独りで走る王滝は辛いものになる。雄一は後続に抜かれまくった7年前のレースを思い出して感慨に耽るが、今の自分の身体は軽い。なんと言っても今回は12キロしか走らずに下りになった。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

 今日の雄一はSDA王滝前日のイベント、ファンツーリングに参加している。レース当日は子どもらの面倒をみなければならない。疲れないで下る林道は心地好く、いい汗をかいたと思いつつ、彼は松原スポーツ公園に戻った。

 木造の大ドーム下では桜子と2人の子どもらが待っていた。男と女の二卵性双生児で名前は明と琴音。体外受精で授かった子どもだ。まだ2歳になっていない。桜子がガン治療を終えてから子どもを作ったので、結婚してから少々時間が経ってしまったし、双子で子育ては大変だったが、ちょうど男と女だしバランスがとれてよかったと雄一は考えている。

「久方ぶりの王滝はどうだった?」

「正に王滝だった。いや、もっとひどくなってた」

 桜子の問いに雄一はげんなりしつつ答えた。

「そうかー。100キロエントリーしなくてよかったなあ」

「まだ無理しない方がいい」

 今回レースにエントリーしたのは桜子で、独身の時に参戦したのと同じ42キロだ。彼女は子どもを産んでから再び走り始めたが、トレーニング時間がどうしても限られているため、念願の100キロ参戦を今回は断念した。

「おとーさん、おとーさん」

 明が手を上げてだっこをせがんできたので、XCバイクをスタンドに掛け、抱きかかえる。もうかなり言葉が出て来ており、日々、話すのが楽しい時期になっている。

「おとーさん、おとーさん」

 琴音も同じ言葉で手を上げてだっこをせがんできたが、さすがにもう2人を同時に抱きかかえることはできない。それでも明には首にしがみつかせ、どうにかこうにか琴音を抱き上げる。しかし雄一の顔はすぐに真っ赤になり、桜子が明を引き取った。

「二人ともおとうさんに無理させないの」

 しかし明は雄一に手をのばし、ずるいずるいとわめき始めた。

「ずるくない。だっておかあさんにだっこして貰ってるじゃないか」

 雄一は明を宥め、琴音を下ろし、バイクを押しながら駐車場に停めている車に戻った。そしてバイクをサイクルキャリアに固定し、子ども2人をチャイルドシートに収め、ハンドルを手にし、アクセルを踏んだ。今夜の宿は以前宿泊した民宿よりもかなり標高が高いところにある。申し込みが遅れたため、公園に近い宿は予約できなかった。

 宿に向かう途中の長い坂道を車で上っていると正面に御嶽山が見えた。下から見上げる御嶽山とあのレースの最中に見た御嶽山とでは別の山のように見えたが、そんなはずもない。噴火という大きな試錬もあったが、霊験あらたかな、参戦者をいつでも見守ってくれる御嶽山だ。

 練習だろうか、1人で走っているローディを追い抜き、カーブを抜け、御嶽山は隠れた。パッと追い抜き様に見たところ、彼はインナー×ローでこの急坂に挑んでいた。

 思い返せば王滝を走っている最中、雄一はほとんどの区間でインナー×ローを踏んでいた。それはもうそれ以上軽いギヤがない、最後のギヤだ。余裕を持って踏んでいた時もあれば、もう限界で、それすらも踏めそうにない時だってあった。それでも1つ1つ確かめるようにクランクを回し、前に進み、ゴールした。その感慨は今でも忘れ得ない。

 これまでの自分の人生もそう──インナー×ローだったのではないかと思う。愛する妻と出会い、ゆっくりお互いを知り、愛情を育て、困難を乗り越えてきた。普通の人から見れば、波乱あふれる道のりだったに違いない。しかし王滝と一緒で走ってみれば、それはそれで自分が走る道だった。決意して挑めば、決して不可能ではなかった。だから今、こうして桜子と一緒にいる。

 あれから数年が経ち、レース用のMTBはフロントギヤはシングルが当たり前になって、ロードバイクではともかく、MTBでインナー×ローという言葉は使われなくなった。それでもやっぱり、自分の人生はインナー×ローだと思う。

 助手席のチャイルドシートでは琴音がすやすやと寝入っている。後部座席には桜子とチャイルドシートに収まった明がいる。明は機嫌を悪くしており、桜子があやしていた。バックミラー越しに雄一は微笑む。

「どうしたの?」

 桜子が訊いてきて、雄一は即座に答えた。

「本当に王滝に戻ってこられたなんて感慨深いな、と」

 それも2人の子どもを連れて、だ。もう何も言うことはない。

「そうだね……でもさ、まだやれてないことがあるよ」

「それって100キロ参戦?」

「そう、2人一緒に、ね」

 桜子の言葉に、雄一は苦笑せざるを得なかった。もう1度、王滝に挑むなら今度こそ本格的に身体を作り直さなければならない。あの時のような無様なレースはこりごりだ。そう脳裏で言葉にしていることに気づくと、雄一は自分が本気で王滝に戻ろうと考えているのだと実感した。あの険しくも美しい、雄大な木曽の山々に挑めば、次もやはり生涯忘れ得ないレースになるだろう。

 コーナーを抜けると再び御嶽山が正面に見えるようになった。

「ああ、行こう。いつになるか分からないけどね」

 雄一は御嶽山に思いを馳せつつ、今夜の宿に車を走らせたのだった。

※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

この記事のタグ

神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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