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連載第20回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第20話「もう独りでは走れない」

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 病院に見舞いに行くのは小学生の時、担任の先生が入院して以来ではなかったかと思い返しながら、雄一は赤茶色の大きな建物を見上げた。土曜日の病院は午前中の診察が終わったばかりで、まだ人が多かった。エントランスホールで受付を済ませてから彼は彼女の病室を探した。診察棟を出て、西棟に向かい、エレベーターに乗る。そして大きく息を吸い込み、自分を落ち着かせ、エレベーター内の鏡を見てネクタイを直した。頷き、自分の気持ちが変わらないことを確認する。彼女がどんなに変わっていたとしても、変わらない。変わらないんだ。そう脳裏で幾度も言葉にする。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。


 エレベーターの扉が開き、5階で下り、彼女のベッドがある4人部屋を探した。入口の脇に彼女の名前が書かれた札を見つけ、これが現実なのだと改めて感じ入った。女性部屋である。注意して声を掛けてから入室したが、彼女のベッドは空になっていた。祥子も一緒に病室にいる予定だったのだが、2人とも姿はなかった。室内にいた看護師に尋ねると、検査は入っていないから喫茶コーナーだろうと教えてくれた。雄一は礼を言い、上の階の喫茶コーナーへ行った。

 6階の喫茶コーナーは見晴らしがいい場所にあった。窓は大きく、他に高い建物がないので京葉コンビナートが遠くに望めた。テーブルが5、6台とその周りに椅子が数脚。あとは自動販売機と給茶機しかない殺風景な中、彼女は独り外を眺めつつ、パジャマ姿で缶コーヒーを飲んでいた。髪は少し乱れ、薄くなっているように思われた。横顔の頬は、本当に彼女なのかと目を疑ってしまうほど、痩けていた。怖かった。自分の知らない彼女になっていたらと思うと、恐怖を覚えた。それでも間違いなく、桜子がそこにいた。半年の間、恋い焦がれた彼女がいた。

 彼女は雄一の視線に気がつくと、ハッとしたように目を向けた後、笑みを作った。

「今日辺り来てくれるんじゃないかって、期待してた」

 薄くメイクをして、正面から見ると髪も整っていた。その言葉は本当なのだと思われた。今日は王滝の翌週末だ。確かに、自分が来ると彼女が考えても不思議はなかった。

「教えてさえくれれば、相談さえしてくれていれば、すぐにでも来た」

 抑えたつもりでも、言葉には怒気が混ざってしまった。

「いろいろ聞きたい?」

「祥子ちゃんからだいたい聞いたよ」

 王滝からの帰りの車中で雄一は祥子にメールをし、祥子は本当は口止めされているんだけどと前置きしつつ、現在、桜子が置かれている境遇を教えてくれた。最初は動揺した。次に怒りと悲しみが湧いてきて、もう会いに行かずにはいられなくなっていた。

「そっか……だよねえ。祥子とは面識あったもんね。ごめんね。あのね、実はもう、片方のおっぱいなくなっちゃったんだ。佐野倉さんには1回しか触らせて上げられなかったね。もっと触らせて上げられればよかったね……それとも、もっと早くそういう関係になってたら、早くガンを発見できてたかなあ、そしたら転移してなかったかなあ、なんて考えちゃったりして。本当にごめんね」

 桜子は苦笑した。本当に苦々しそうで雄一は顔を背け、自販機で缶コーヒーを買って、彼女に向かいに座った。

「来年とか再来年とか再建手術する予定なんだけどさ、元々そんなに大きくないから、大きめにしてもらえばいいかなってさ……そしたらもう一方も合わせなきゃなんないか」

 桜子が無理矢理笑顔を作るのが辛くて、雄一は瞼をきつく閉じた。

「そんなの、今はどうでもいい」

「女の子だもん。どうでもよくなんかない」

「後でいいって言ってるだけさ。どうして、どうして僕には相談してくれなかったんだ。今さら言っても仕方ないけど、君に信頼されていなかったのかもしれないし、男の僕に言うべきことではないと思っていたのかもしれないけど……だけど、ガンなんだ。若年性なら命に関わることの方が多いっていうじゃないか。なら、僕も知りたかった。君と一緒にいたかった。一緒に悩みたかった」

 そして雄一は目を開けた。正面の桜子は瞳に涙をいっぱいに溜め、自分を見つめていた。

「そうだよ。命に関わるんだよ。乳がんだけじゃない。転移もしてる。5年生存率は50%だって言われてる。ここはがんセンターだから入院しているのはそんな人ばっかりだけど、それでもやっぱり、自分は生きられないんじゃないかって思う。いい人過ぎる佐野倉さんがそんな女に入れ込んだら不幸にしかならない。そう思うから、何も相談しなかったんでしょう?」

 そして涙を零し、パジャマの裾で拭った。

「僕が不幸になるなんて、君が勝手に決めるな」

「なるに決まってるじゃない」

「僕じゃダメかい?」

「1回やっただけで彼氏面しないでよ!」

「して悪いか。それとも僕以外の誰かがいるってのかい」

「それはもう言ったじゃない! いないよ。いるわけないでしょ。だけど、佐野倉さんはれんちゃんみたいな健康な女の子と一緒になった方がいいに決まってるよ。私、お医者さんからも5年は結婚するなって言われてる。すぐ死んじゃうかもしれないし、佐野倉さんの子どもを産んで上げられないかもしれない。私じゃ、佐野倉さんに普通の人の幸せを上げられない」

 桜子は泣きじゃくるが、雄一には心の準備ができている。だから冷静でいられる。

「子どもがいなくたって幸せな夫婦はいるし、できないと決まったわけじゃない。死ぬと決まったわけでもない。まだまだこれからだ。だって桜子ちゃん、病気と戦ってるだろ? レースは終わってないのにそんなこと言うなよ。君と一緒に走りたいんだ」

「――何を……走るの?」

 桜子は涙を拭うのをやめて、真っ赤な目で雄一を見た。

「王滝を走っていて、ずっと考えていたんだ。どうしてこんなに苦しい思いをして走らなくっちゃいけないんだろう、って。そうしたらもう怒りしか湧かなくなって……でもズタボロになってゴールして、走りきったって実感が湧いたら、また走りたくなっていた。すごく不思議だった。でも今なら分かる」

「どうして……?」

「普段の生活だとさ……達成感ってそんなに感じられなくって、1日1日漫然と過ごしてしまうんだけど、本当は人生はこんな風に山あり谷ありで、いろんな事件があって、選択しなければならない時があって……王滝では自分で自分の肉体的を追い詰めるよね。バカみたいだけど、今の日本だとそうやってでも追い詰めないとそんな当たり前のことすらも実感できない。生きることは苦労することだってよく言うけど、だからこそ生きている喜びを感じられる。王滝を走っている時に君の言葉を思い出したんだ。『戦わずして得るもの無し! 苦労しなくて努力しなくて、楽しいことなんか何もない』ってね。本当にそうだと思う。あの苦しさを乗り越えた今だから、楽しかったって思える。僕は君と一緒にああ、楽しかったって言いたいんだ」

 雄一は缶コーヒーを一気に飲み干した。

「まさか、私と一緒に本当に王滝を走りたいってこと?」

 桜子はきょとんとした顔で雄一を見た。

「ま、それもあるかな」

 そしてバッグから携帯端末を取り出し、桜子に見せた。

「学校の先輩の実家が宝飾屋でさ、安くしてくれるっていうから、電子カタログ落として貰ったんだ。あと、指輪のサイズを教えてよ」

「え、何言っているの?」

 桜子は明らかに動揺していた。

「ほら、僕は君にクリスマスプレゼントを上げてないことになっちゃっただろ? だから何がいいか考えていたんだけど、まあ他にもいろいろ考えて、そうだな、えーっと、断られたらものすごく格好悪いんだけど、まあ祥子ちゃんから情報仕入れてて、大丈夫かな、なんて思ったりして……幸い、僕の手はハサミじゃないから、君と同じ指輪をはめられる」

「だから……何を言っているのさ?」

 桜子はまっすぐに雄一を見た。雄一は目を逸らさず、はっきり言葉にした。

「君が苦しんでいる時に何もしてあげられないのは嫌だ。本当に君の病気がものすごく大変だってことも分かっているつもりだ。軽々しく言えないことも分かっている。この1週間ずいぶん悩んだよ。だけどさ、結局のところ他人のままだったら、何もできないだろう? 側にいてあげることだってできやしないんだ。だから、せめて婚約者にはなっておきたい」

「……! なんでいきなり、そんな……」

 桜子は心底意外そうに大きく目を見開いた。雄一は予め用意していた台詞を続けた。

「まだ好きだって言えてなかったね。言っていたら、きっと僕に相談してくれてたよね。すごく後悔した。でもまだ遅くない。僕は君が大好きだよ。たぶん僕の人生の中でもう君みたいな人は現れない。だから誰にでも分かる特別な人にしたいんだ」

 そう言い切ると胸の内がすっきりしたのが分かった。

「本当にいきなり過ぎるでしょう。こういうのは順番もシチュエーションもあって……」

「だけど彼氏面はする。今は待ったなしの状況なんだから」

「結婚したいほど私が佐野倉さんのことを好きだと思ってるの?」

「そうじゃなきゃ、自分から結婚や子どもの話はしないんじゃないの?」

 桜子は図星を指されたのか、露骨に赤面した。

「あ、あれは自分の状況を説明しただけで……」

「実は待っててくれたんじゃないのかな……だからメイクして今日辺り来るかもなんて思っていたんじゃないのか……な?」

「そ、それは……そうだけど……でも、ご両親にどうやって説明するつもり? 反対されるに決まってる!」

「常識人だからごねるとは思うけど、最終的には折れる。僕は絶対に結婚しないと思われていたからね」

「どんなご両親よ! 呆れた。それに、ダメでしょ……やっぱりこんな私じゃ……ウチの両親だって、きっと反対するに決まってる……」

 桜子はしおれた花のような表情をした。だからこそ雄一は自信を持ちつつ、共感して貰えるように祈りつつ、静かに答えた。

「僕はもう独りじゃ走れない。君がいないとダメなんだ。半年君に会えなくて本当に苦しかった。一緒に残りの人生を走ろうよ。病気のことだけじゃなくて、たぶん大変なんだろうな。問題は山積みなんだろうな。だけどやろうと思わなかったら王滝を走りきれなかった。戦おうと考えることすらなかった。だからこそ一緒に走ろうって思うんだ。一緒に考えて頑張って、2人で諦めずに戦えば、どんな結果であれ、人生を2人で走り抜けられるんじゃないかな」

 桜子からの返事はなかった。その代わり彼女は雄一の携帯端末を手にした。そしてしばらくの間、画面を展開させ、唸りつつ、拡大し、雄一の鼻先に突きつけた。

「これがいい!」

 ちょっと彫金されだけのシンプルなプラチナリングだった。値段の方もMTBのホイールと大差ない。

「サイズは9号だから。比較的安目な理由は、ほら、これから私、お金掛かっちゃうし、あなたの負担になりたくないからで……あと、今はちょっと痩せちゃってるけど、たぶん9号に戻るから。ううん、絶対に戻すから!」

「それってOKってこと?」

「どうして分かりきったことをまた訊くかなあ……私、あと5年生きられないかもしれないよ。今、転移したのを取り終わっても、再発したら更に苦労するよ。そうしたら2度と一緒に暮らせないかもしれないよ。もちろん、その時はあなたの子どもを産んで上げられないよ。それでもいいんだよね?」

 また桜子が瞳に涙を溜めた。

「レースが終わるまで諦めない、って君が言ってくれるだけで十分だ」

 雄一はハンカチを取り出し、彼女の涙を拭った。

「付け睫毛、とれちゃう」

「気にするなよ」

「気にするよ……でも、諦めないって約束するから。絶対だから」

 雄一はテーブル越しに桜子と唇を重ねた。乾いたそれは半年前に重ねたそれと同じとは到底思われず、目頭が熱くなるのが分かった。彼女は病気と闘い、苦労を重ねた。自分が王滝100キロを走ったのより、ずっとずっと辛い思いを、しかも独りで耐え忍んできた。そう思うと涙が堪えられず、唇を離してから彼も自身の涙を拭った。

「佐野倉さんまで泣いちゃって……」

 雄一は立ち上がり、感極まって桜子を抱きしめた。喫茶スペースの入口で人の気配がしたが、無視した。無視するとその内、気配は消えた。

「自分の人生で、こんな人に会えるなんて思ってなかったよ。もう、絶対に会えない」

 涙が落ち着いてから桜子が言った。

「僕の場合はこれまでの確率的にそう言えるけど、君はそうじゃなかったかもよ」

 桜子は首を横に振った。

「前に恩人だって言ったよね……あれね、男性不信を直してくれた恩人って意味だったんだ。大学の時に憧れていた先輩に二叉掛けられて……今にして思えばよくある話なんだろうけど、その時はどうしても許せなくて……私みたいないい女を放っておくなんて、みたいなプライドもあって……でもそんなのどうでもよくなった。佐野倉さんのお陰だよ」

「でもお友だちから始めたから治ったんじゃないの、それ」

「もちろん。他意は全くなかったのよ」

 桜子はスパッとそう言い切った。雄一の方は最初から期待があっただけに少々思うところはあったが、結果オーライなのでここは突っ込むべきところではない。

「でも、大切な人になった。不思議だね……すごく不思議だね。自分がこんな状態になっても、未来を信じてくれる人に出会えた。自転車に感謝だ」

 彼女は満面の笑みを浮かべ、雄一は訊きたかったことを口にした。

「ねえ、1つ訊いていい? どうして僕に王滝出走をしつこいほど勧めてたの? やっぱり僕には苦労して実感して欲しかった? そしてこんな展開を考えてた?」

「仕組まれていた気がする? バイクを置いていったし?」

 雄一は頷いた。今まで全く考えていなかったが、ここまでの一連のことは桜子の計画通りだったような気がしなくもない。

「でも、プロポーズされるなんて全くの予想外だし、王滝参戦を勧めていたのは自分だけ苦しい思いをするなんて悔しかっただけなわけだし、同じように大きな達成感を味わって欲しかったってのもあるし……バイクは単にもったいないって考えていたからだし、もういいじゃない、そんなの」

 それを聞いて雄一は不思議と笑えてきた。

「え、私、何かおかしいこと言った?」

「ううん、確かに君なんだ。やっぱり僕の側に君がいるんだって……思った。君には敵わないんだ。何1つね」

「今頃分かったか……でも本当はね、あなたに側にいて欲しかったの。病気かもって分かった時からずっと不安だった。ガンだって分かって、もう私、ダメなのかなって、なのにあなたに会えないなんて嫌だった。寂しかった。来て欲しかった。本当だよ」

「信じるよ。僕も寂しかったから」

 そして雄一はポンポンと彼女の頭を軽く叩いた。今度は桜子も怒ったりはせず、ポンポンされるに任せた。

 雄一は王滝が終わって帰京した直後、祥子に連絡をとり、桜子の状況を知った。そして激しく動揺した。彼女の話では、桜子は昨年末に乳がんでがんセンターに入院し、乳房温存手術を行ったということだった。これだけでも女性としてはショックが大きいのに、自宅療養している間に転移が判明し、今月初め、ここに再入院したとのことだった。

 その事実を知って、連絡を取りたらがず、また、柏木を口止めした理由を理解しつつも、今も闘病を続けている桜子を自分が支えられるのか、ずっと好きでいられるのかと自信を失いかけた。しかしそれらの不安は全て王滝での経験が埋めてくれた。やってやれないことはない。やらなければ、言葉にしなければ伝えられない。そう決心し、見舞いに来た。プロポーズしたのも決して格好をつけたわけでも背水の陣を敷いたわけでもない。シンプルに正直な気持ちだった。苦労するなら一緒にしたい、ただそれだけの思いだった。

 確かに彼女が心配するとおり、この先の道のりは険しいだろう。王滝なんて目じゃないくらい、大変だろう。それでも、いや、だからこそ彼女と一緒に走っていきたいのだと雄一は自分に言い聞かせる。雄一は桜子の手を取る。その手は痩せて、肌も荒れていた。しかしそれは病魔と闘っていることへの勲章だ。決してこの手を離したくない、そう思えた。そして彼女が側にいてくれることに、辛苦を共にするとをお互いに心を決めたことに、雄一は大きな幸せを感じる。

「まだ言葉にしてなかったね」

 桜子が雄一と瞳を合わせた。

「私も大好きだよ」

 分かっていたつもりでもそう直に耳にすると感慨もひとしおだ。背筋が震えて、胸が温かくなるのが、実感できた。

 2人で喫茶コーナーを後にし、病室に戻った。病室には祥子と彼女らの母親の姿もあった。これからが大変だ。雄一は桜子の横顔を見つめ、頷く。すると視線に気づいた彼女が横を向き、言った。

「大丈夫、自信持って」

 彼女の励ましの言葉に、彼は大きく口を開いた。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

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神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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