スポーツライターの山口和幸さんが悼むシマノ元社長・島野喜三氏死去 MTBブームをけん引、グローバル企業に育てる

by 山口和幸 / Kazuyuki YAMAGUCHI
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 シマノの四代目社長、元会長の島野喜三(しまのよしぞう)氏が7月3日、死去した。85歳だった。島野鉄工所(のちに島野工業、現シマノ)の創業者・庄三郎氏の三男で、長兄尚三氏、次兄敬三氏に続いて社長就任。自転車パーツで世界トップレベルのシェアを持つグローバル企業に育て、自転車協会理事長なども務めた。シマノに関する著作も出版し、島野喜三氏とも交流のあったスポーツライターの山口和幸さんに、小説風に故人を振り返ってもらいました。

1999年のジロ・デ・イタリア第1ステージでの表彰式に参加した島野喜三氏 Photo: Yuzuru SUNADA

MTBの発祥地で「壊れないパーツを」

 1981年、喜三は米国西海岸から大阪府堺市にあるシマノ本社に電話をかけた。電話に出たのは当時、企画部長をしていた島野容三(現社長)だ。「サンフランシスコの北にある山で、自転車を改造して駆け下る遊びをしている奴らがいてな。ひょっとして自転車の新しいスタイルになるんやなかろうか」

 この場所に彼らの気まぐれな遊びを見に行った喜三は、MTBの原型となる自転車で勝手にダウンヒルをしていた連中に捕まって、「壊れてばっかりなんだよ。壊れないパーツを作ってくれ」と要求されたのだ。

 日本時間の朝10時に始まった会話は、午後2時まで続いた。喜三の直感は、開発を統括する兄の敬三に伝えられた。敬三はこう言った。「そんなこと、簡単に言うな」

 敬三の意見はこうだった。それは自転車の装備にまったく逆行するものだ。自転車は道路を走るためのもので、泥や水をかぶるようにはできていない。それでも喜三は引き下がらなかった。大きなマーケティングになるという裏づけがあったわけではなく、彼らが楽しそうに乗っているのを目撃して、ただ単に動物的な直感が働いた。

 シマノにとってみても社運をかけたアイデアは、喜三が兄をねじ伏せた。敬三は新技術のために技術者を配置し、すべての準備を整えた。以上、拙著『シマノ 世界を制した自転車パーツ〜堺の町工場が世界標準となるまで』(光文社)より。

2003年の東京サイクルショーでエルネスト・コルナゴ氏(右)と握手する島野喜三氏 Photo: Yuzuru SUNADA

 庄三郎には3人の息子がいた。長男が尚三。その4つ下に敬三、6つ下に喜三。3人とも父親譲りの腕白だったが、庄三郎が声を荒げることはほとんどなかったという。

 敬三は慶應義塾大工学部へ。喜三も同大経済学部へと進んだ。神奈川県鎌倉市にある大船観音の裏手に下宿を借り、そこで2人で学生生活をしていたという。

 「品質・技術・信用」というのが父・庄三郎の信条で、3人は小さいころから頭の中にこびりつくほど聞かされた。それが現在まで脈々と流れるシマノの経営の原点だが、その一方で、心のあたたまるような父親と末っ子の会話を喜三から直接聞いたことがある。

 「おやっさん、ちょっと金が欲しいんや」と喜三。
 「なんに使うんや」と父。
 「酒を飲みに行くんや」
 「それやったら自分で稼いでこい!」

 このときはそう言い放ったが、しばらくして再び喜三が「本を買う」と言うと、「なんぼや」と聞き返した。

 「5万円や」
 「ふーん。えらい高い本やな」
 「原書やから米国から買わなあかんねん」
 「そうか」

 それからしばらくして、父が喜三にたずねた。

 「お前の部屋はもう原書で埋まっているはずやのに、一つもあれへん」
 「みんな友だちに貸してるんや」
 「……。わしもそう思うわ」

経営者としての手腕を発揮

 三代目社長となる敬三がのちにシマノの機能路線をけん引し、ロードパーツとして世界標準となるデュアルコントロールレバーなどの開発に注力したのとは別に、新卒で日産の販売会社に就職した経験を持つ喜三は経営者としての手腕をいかんなく発揮していく。

 1965年7月には米国マンハッタンの36丁目にあるビルの一室に販売会社、シマノ・アメリカン・コーポレーションが設立され、シマノ入りしていた喜三が社長として赴任。以来人生の多くの時期を米国で過ごした。

 だから、常におだやかな会話の中に交えるカタカナはネイティブそのもの。シマノ最高峰のロードコンポーネント「デュラエース」という表記がすっかり定着してからも、「ジュラエース」と言い切った。

 創業者庄三郎の逝去に伴って30歳で長男尚三が会社を引き継いでいたが、当時の日本の自転車業界は閉塞状態に陥り、シマノは経営困難という危機に直面していた。自動車産業の急成長、路線バスの運行開始に加えて、モペッドというエンジンのついた二輪車が流行り、自転車が魅力を失いかけた時期だった。

通訳介さず英語でプレゼン

2007年、ツアー・オブ・ジャパンに駆け付けた島野喜三氏。ネクタイも自転車柄とダンディーな方だった Photo: Kazuyuki YAMAGUCHI

 「日本がダメなら海外しかない」喜三や社員は、革製の大きなボストンバッグの中に新商品やデザイン・スケッチを詰め込んで全米中を走り回った。メーカーの営業や購買担当、技術屋、業販店のオーナーの前にドカンと鞄を置く。「ショー&テル」(Show and Tell)と呼ばれるプレゼンテーションで、しゃべりながら一つひとつ部品を取り出していくのだ。通訳を介さずに英語でプレゼンテーションするだけに、意思の疎通は思い通りだった。

 冒頭の、喜三が西海岸から本社に電話をかけてから10年後。1991年にプロ仕様の超軽量・高性能コンポーネント、「シマノXTRシリーズ」が発売された。MTBの世界が変わったのはいうまでもない。

2021年創業100周年「なんでも上手にできる会社に」

 シマノは2021年に創業100周年を迎える。1921年2月、第一次世界大戦後の不況のなかで26歳の庄三郎が興した鉄工所はいまや世界を席巻している。2001年3月、甥の容三に社長を任せ、会長に就任した喜三は、シマノの持ち味をそのときこう語っている。

 「ナンバー・ワンになろうという気持ちは毛頭ありません。シマノがなりたいのはリーディングカンパニーです。すべてのことに関してうまくできる、なんでも上手にできる。そんな会社を目指しています」

思い出すダンディーで素敵な人となり

 シマノという企業を3冊にわたって小説風に執筆させていただきました。喜三氏にはいずれの取材時もお話をうかがうことができましたが、唐突もない取材者の質問を瞬時に理解し、おだやかな口調で返していただいた記憶があります。これほどの要職者でありながら、その場で無用に緊張したこともなく、雰囲気作りにも長けた人なのだと感じました。ダンディーで素敵な人となりに惚れるばかりでした。ご逝去の報に心からお悔やみ申し上げます。記事中は敬称を略させていただきました。(山口和幸)

山口和幸山口和幸(やまぐち・かずゆき)

ツール・ド・フランスをはじめ、卓球・陸上・ボート競技などを追い続け、日刊スポーツ、東京中日スポーツ、ナンバー、ターザン、YAHOO!などで執筆。国内で行われる自転車の国際大会では広報を担当。著書に「ツール・ド・フランス」(講談社現代新書)、「もっと知りたいツール・ド・フランス」(八重洲出版)など。

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