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連載第18回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第18話「王滝③」

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 CP(チェックポイント)1を出発してすぐの坂は、これまでにない急斜面の上、路面が著しく悪かった。まるで河原のようで、勾配15%ほどもある。サイクルコンピュータはパーセントで表記しているが、雄一的には『もう道ではない』と言いたい。それは河川敷から見る堤防のような角度だ。実際にはそこまではないのだろうが。疲れている今、とても上れる気がしない。しかし下りる気すら起きない。ペダルを回すことしか考えられない。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。


 安全を優先してか、斜面の先にはバイクを押して上げる参戦者が何人も見受けられる。危ないのも確かだ。

 雄一は慎重にペダリングし、引き足を意識して、くいっと靴底を摺るように、トルクが抜けないよう注意して体重を掛ける。

 しかしその急勾配と大きな礫にやられ、すぐにバランスを崩す。とっさにビンディングを外そうとしたが、間に合わなかった。

 立ちゴケはビンディングペダルを使い始めた時に幾度も経験している。手を出して支えようとすると、最悪、骨折する恐れがあるので、ハンドルバーを握ったまま左に倒れる。するとバーエンドが手をガードしてくれ、肩から肘、そして腰から脚全体に掛けて体重が分散され、痛いは痛いが重大な怪我を負わずに済む。倒れた瞬間に鋭利な礫が肘に当たったのがひどく痛んだ。

 落ち着いてビンディングを外し、倒れたバイクごと半身を起こす。左肘を見ると少々擦りむいていた。この程度でよかったと思いつつ立ち上がり、バイクを押し、多少緩い勾配の場所で再搭乗を試みる。

 少し重いギアに変更し、倒れないようバランスを取りながらトルクを掛け、またインナー×ローに戻す。まだ押し続けている参戦者を抜かし、前を目指す。理由は分からないが押したら負けだと思う気持ちを雄一は自分の中に見つけた。自転車に乗るレースだからなのか、時間が惜しいのか。おそらくどちらもだろう。

 左肘がズキズキと痛んだが、気にしていられない。幸いしばらくするとアドレナリンのお陰か、あまり痛みを感じなくなった。8%ほど、標高100メートル差の上りはもはやいつまでも続く苦行の一部としか感じなくなっていた。錯覚と分かるのだが、先ほどと比べると大した坂に見えない。1メートルでも前に進むことでしかこの苦行は終わらない。そう考えるようにした。

 気がつくとフォームが崩れており、意識して丹田に力を入れる。が、もはや疲れ切って長続きしない。背筋から膝裏まで大きく使うことができなくなり、XCバイクに乗り始めた頃の太ももだけでクランクを回している感覚が戻ってくる。

 これこそ苦行だと自分に言い聞かせ、どうにかこうにか峠に至り、ダウンヒルに移行する。この先は上ったり下ったりが連続するが、基本的には標高300メートルを下るようになっている。少なくともマップ上では。そしてマップと実際の感覚では大きな違いがあることを思い知らされた。

 下りはすぐに終わり、上りがひたすら長く続く。下り基調であっても苦しい時間の方が記憶に残るからだ。もうただひたすら辛い。それだけだ。

 道を横切る大きな溝を跳び越え、そこだけコンクリート舗装の橋を渡り、本当にダブルトラックかと思われる細くてうねった林道を抜けて峠に至り、フラットダートをひたすら下ると三浦貯水池が見えてきた。水位が低いため、泥の中から埋没した枯れ木の林が突き出して見えていた。

 標高1300メートル付近のこの辺は比較的平坦な場所でスピードが乗り、休める区間だと前情報にあった。気力を振り絞り、橋を渡り、小屋や倉庫など人間が活動している気配がある貯水池沿いの林道を駆け抜ける。しかし疲れ切っているためにスタート直後のように30キロ巡航はできず、せいぜいが25キロを超す程度で、後ろからくる参戦者に抜かされる始末だった。情けないが、持久力不足を痛感した。

 スタートから4時間以上が経過している。そろそろこれまでの連続走行経験を越すことになる、そんな時、異変が生じた。

 スタート後、幾度か脚が痙攣したものの、軽微で済んだ。だが、今度は痙攣直後についにこむら返りを起こしてしまい、クランクを回せなくなってしまった。ごく緩い上り調子で荒れてはいるが一部アスファルト舗装すらあり、くるくる回して疲労を抜くためのような路面だった。なのに左の脚のふくらはぎと土踏まずが同時に攣った。痛みが左脚を貫いて動かせなくなり、バイクの速度はすぐに落ちた。後続の邪魔となるのを避けるため、雄一は草むらの中にバイクを突っ込ませる。

 そして右のビンディングを外してどうにか停車した。即座にシューズを脱ぎ、つま先を抱え込んでこむら返りを戻そうとしたが、なかなか元に戻らない。それでも1分ほどで痛みが弱まり、動かせるようになった。しかし大きなタイムロスをした。それに何人にも抜かれてしまった。それに1度攣れば、また攣るに違いないし、かばう右脚もその内攣ってしまうかもしれない。そう考えると鬱になったが、考えても仕方ない。少しでも前に進もうと心に決め、少し水分と栄養を補給してから再スタートした。

 左脚をかばいながら平坦な道を走る。攣ったのは高負荷トレーニングが足りなかったからだろう。もっと身体を苦痛に慣らさなければならなかったのだ。しかしこのまま悪化しなければ完走はできる。そう思うしかない。痛みを堪えても涙が滲んだ。

 痛くてたまらないが、不思議にリタイアの考えは浮かばない。この程度でくじけていたらこの先、何もできなくなる、そう思えた。この苦しみも自ら望んで得たモノだ。教訓になるのかどうか知らないが、この痛みでも何かを得たかった。でなければこんな苦行に耐えられそうにない。

 力を振り絞りつつ前に進むと路肩に50キロ地点の看板を見つけ、目を見張った。半分来た。桜子が挑んだ42キロのレースより遥かに先に来た。

 正確には100キロ弱のコースなので、もう残り50キロを切っている。どんなに苦しい思いをしても諦めなければ前に進む。そんな当たり前のことを彼はまざまざと思い知らされた気がした。

 この先で再び登坂が始まる。最初に長く上り、3つの峠を越えなければならない。後半の始まりの鐘だ。すぐに上りが始まるが、まだ山中という感じではなく、左右の緑もなだらかだ。しかしそれもじきに消え、切り立った斜面になるだろう。長く、荒れ果てたヒルクライムが始まった。

 次第に彼の思考は純化され、恐怖や後悔の念は消え去り、最後に怒りの感情だけが残った。それも、激情だ。

 最初意識していたフォームやペダリングなどする力は残っていない。ただひたすら怒りの力でクランクを回し、エンドバーを引き、耐えるだけだ。しかし何かに怒っているのではない。言い換えれば自分の人生の全てに怒りを覚えていた。ラインといえるラインがないほど荒れてごろごろ岩が転がるこの坂に、安穏と時間を費やしていた自分に、彼女の事情を話して貰えなかった不甲斐ない自分に。この坂に負けそうな自分に。しかしそれが脳裏ですら言葉になることはない。シンプルに怒りだけが彼の身体を突き動かしていた。

 玉の汗が額から流れ落ち、グローブで拭う。全身が熱く、肺が悲鳴を上げる。酸素が欲しく、乳酸を処理したく、休みたく、前に進みたく、そんな邪念を抱く自分に怒りを覚える。サイクルコンピュータの距離表示を見るとまだ51キロを表示していた。2キロの誤差を考えても信じられないほど進んでいない。壊れているのではないかとまで思い、サイクルコンピュータに怒りを覚える。しかしそう都合よく壊れるはずがない。自分が進んでいないのだ。だからまた、弱い自分に怒りを覚える。

 林道がV字に削られた山に吸い込まれていき、峠かと期待し、裏切られ、また上る。そんなことを幾度か繰り返し、本物の峠に至る。下るにしてももうバイクにしがみつくしか能が無い。

 スピードを落として安全マージンをとりながら下る。タイムロスになるが、無理をして転ぶよりマシ、そう言い聞かせる。それでも下りはあっという間に終わる。再び上り。こむら返りを起こしそうな両脚を騙しつつ、坂に挑むしかない。

 セルフディスカバリーとはこういうことかと思う。

 己の中に残った何かが、人生を動かすエネルギーなのだ。激しい怒り。それは周囲の状況や自分の人生を変えようとするエネルギーでもあるのだろう。こんな苦行を耐える力なのだろう。これまでの人生で、こんなにも感情を突き動かされることはなかった。見たことのない自然の中で、決して優しくはない山々や力溢れる緑の中で、己とバイクだけを頼りに前に進む。

 く、く、く。

 酸素を求め続ける口から、余計なものが出て来た。それは笑いに思えた。苦しすぎて可笑しい、怒りすぎて、可笑しかった。

 3度坂を上り、マップの上ではCP2までもう大きな坂はない。事実、この辺りは割と平坦で、左から右へに森の中のなだらかな斜面を切り開いて林道が作られていた。フラットダートで、自然と速度が上がる。少しでも先に行き、時間的余裕を稼ぎたい。空を見上げるとどんよりした雲が覆っていた。天気予報通りだ。朝は晴れていたのに雨雲が近づいてきているようだ。いつまで天気が保つのか分からないが、自分のゴールまでは待ってくれそうにない。恨めしく思いつつ、天を仰ぐ。引き足を意識しつつクランクを回していると正面に青いテントとセンサー区間が見えてきた。

 60キロ地点、CP2に到着だ。センサー区間を抜けるとピッと電子音がして、記録されたのが分かった。

 脚を回しながらハイドレーションをすするとまだ水は残っている様子だった。余分な重量にしたくなくて補給せず、休むこともせず、そのまま進むことにした。時計表示を見ると6時間を少し切ったくらいだ。途中で脚が攣ったにしては上々だ、と自分を褒めつつ、雄一は先を急いだ。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

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神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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