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連載第17回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第17話「王滝②」

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 スタートから1時間以上経過してもまだ最初の峠に辿り着いていなかった。先行する参戦者たちのペースが落ち始めており、雄一は何人も抜かした。中には写真を撮りつつ、チェックポイント(CP)1まで行ければいいや、などと安穏と観光めいたことを言っている参戦者がおり、心の底からげんなりした。本気の発言かどうか知らないが、真面目に走っている人間のやる気を削がないで欲しい。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

 SDA王滝の場合、CP1が第一の関門だ。30キロ地点を4時間以内に通過しなければならない。しかしレース全体の設定時間が10時間だから、4時間かかったら完走は難しい。雄一は3時間を切りたいと考えている。6.5キロを上った後は少し上り下りしつつ標高差200メートルを下り、また350メートルを上らなければならない。レース中、最大の上り区間で、初心者にとっては最大の難所となる。

 また、平地と違って常に最大負荷で脚を回しているため、小まめにエネルギー補給しなければならないのだが、雄一は林道で走ったまま補給ができるほどの器用さを持ち合わせておらず、食べるためにはバイクから降りなければならない。脚を止めるのが怖かったが、ハンガーノックと呼ばれるエネルギー切れの状態に陥るのは絶対に避けなければならない。そのため、峠を越す前に小休止をとることにした。

 左に曲がるコーナーの外側、すぐ下がもう切り立った斜面という場所に休めそうな場所を見つけ、巨大な岩塊にバイクを立てかける。ガードレールはない。下を見ると緑濃い深い森が谷間に広がっている。すごいところまで来てしまったなあ、と実感する。高所恐怖症の人はこのレースに参加できないだろう。山の端に薄い雲が掛かっているのは見えており、同じように眼下に薄く靄が広がっていた。確かにここは山の上なんだと自分が自転車で山登りをやっていることに呆れた。

 一歩歩こうとすると太ももとふくらはぎがピクピクしていることに気がついた。負荷に慣れさせたつもりだったが、王滝の上りに耐えられるほどではなかった。準備不足を反省したが、まだ痙攣し、攣っていないだけマシだ。だが、この様子ならいつかは攣るだろう。乳酸が溜まりに溜まっているのも分かる。しかし乳酸に関しては下りになれば少し楽になるだろうと考えられた。

 そしてサドルバッグからミニ小倉パンとチューブのアミノ酸系ゼリー飲料を取り出そうとしたが、指切りグローブをはいているにもかかわらず、指が思うように動いてくれず、ジッパーを開けるのに苦労した。ずっとエンドバーを握っていたため、固まってしまったのだ。どうにかパンとゼリーを取り出し、よく噛んでパンを食べ、ゼリーで押し流す。そして粉末のアミノ酸を口に含み、ハイドレーションパックの飲み口に口を付けて飲み込む。少し咳き込んだが、大丈夫だった。

 それにしても痛くない場所を数えた方が早いくらい、全身が痛い。首が痛く、腕が痛く、腰が痛い。くるぶしから下もビンディングシューズのバックルで締め付けられたからか痛く、少しの間だけでも血液を循環させようと緩めた。するとすぐにスッと楽になるのが分かった。

 幸い、パッド付きのインナーとすれ防止のクリームを塗ったお陰で股ずれはない。クリームは店長のアドバイスで買ったものだったが感謝だった。この小休止の間にウィンドブレーカーとアームウォーマーを折畳み、バックパックのフロントパネルに押し込んだ。

 ここまで来て考えるのもなんだが、何故自分がこんな苦しい思いを好んでしているのか雄一には分からなかった。走れば桜子の気持ちが分かるに違いない、と考えたのはどうもその一部に過ぎないようだった。しかし理由は分からなくても、前に進まなければならないことだけは、はっきりしている。今も休んでいる彼の脇を続々と参戦者たちが坂を上ってきていた。負けられない。そんな強い気持ちが雄一の中に生まれていた。自転車乗りは負けず嫌いが多いと聞く。今まで何かで戦ったことのない自分の中にそんな気持ちがあることを見つけ、雄一は心身が燃え始めたのが分かった。

 休んでいる間によくよく見ると、ダブルトラックは急な斜面を無理矢理切り開いて作られたもので、地盤を構成する岩の性質があるのか、尖った礫が多かった。そのためなのだろう、この上りだけでもパンク修理をしているMTBを何台も見かけた。下りになればスピードが上がり、不用意に尖った礫を踏んでしまう可能性が高くなるだろうから、もっとパンクする率が高くなるはずだ。気をつけなければと心の内で言葉にし、ゴミを片付け、後続の参戦者が途切れたタイミングで再乗車した。坂は急だったが、インナー×ローにしていたこともあり、無事ふらつくことなく再スタートを切った。

 次のコーナーを抜けると急に下りのダブルトラックが眼下に広がった。右手に広く斜面の緑が広がり、左手の切り立った崖は頂きまで10メートルもない。今、正しく峠を越えた。心の中でガッツポーズをとり、路面のラインを確認する。今まで時速10キロ前後で上っていたのに急にハイスピードになる。目が追い付いていかないに違いなかった。だから視線は先へ先へと置く。そして視界の端に移った情報も見逃すまいと視点を“点”ではなく“面”にするよう心がける。

 雄一はレバーを捻って固定していたフロントサスのサスを開放、リアサスも最大限動くようレバーを倒し、前後のサスペンションを利かせるようにする。上りではパワーが逃げないよう、前後サスペンションの動きを抑える必要がある。ことマラソンレースに於いて、サスペンションは下りで本領を発揮する。そして次にシフトレバーを押し、インナーからアウターにギアをチェンジする。踏む局面があるかもしれないこと以上に、チェーンが暴れて落ちた時でも、下のギアに引っかかってくれるのを期待してのシフトだ。

 そして新兵器のドロッパーシートポストでサドルを下げる。レバーを押してサドルに体重をかけるだけでシートポストが短くなってくれる。下りでは重心を下げた方が走りやすい。便利至極だ。これからは手放せなくなるだろう。

 雄一はペダルを踏み込み、下りに突入する。サドルからお尻を上げると血が通うようになって気持ちよかったが、そんな感覚を覚えていられるのはほんの数秒だ。大小の礫で荒れた路面をタイヤが掴み、バイクそのものが大きく上下する。路面は完全に乾いており、タイヤが奔ると砂煙が舞うほどだった。サスペンションのお陰で大暴れこそしていないが、すぐにコントロールするので手いっぱいになった。文字通り息をするのも忘れるほど緊迫するが、まだ身体は酸素を求めているため、呼吸のリズムが乱れた。速度が上がり、風を切ることで火照った身体が急速に冷えていく。

 意識的にハンドルを握り、腕と脚と腰で衝撃を吸収し、無理なコントロールは避ける。『手足は人間が本来持っているしなやかなサスペンション』と書かれていた著名な元MTBプロレーサー檀拓磨の本を思い出す。そういえば本にダブルトラックのコーナーではインを走れと書いてあったことを思いだし、ラインをインに移した。コーナーで曲がるのに失敗してもアウト側のラインに移ってリカバリーできる。要するに安全マージンをとるのだ。後続との距離が詰まっていたら危ないが、車間距離は十分空いている。手信号で注意を促すこともできるだろう。

 重力に逆らって上るのと重力に従って下るのとでは全く違う運動になる。上っていないからといって休めるわけではない。緊張の連続だ。ラインを間違えて岩塊に乗り上げたらどこかへ吹っ飛んでしまうだろう。右手はガードレールのない切り立った斜面だ。落ちたらリタイアするだけでなく、間違いなく病院行きだろう。

 初心者の雄一にサイクルコンピュータの速度を確認する余裕はない。ただ仮想王滝の練習時の感覚から言えば時速40キロ前後ではないかと感じられる。アイウェアのお陰か凹凸がよく見え、目がついてき始めていた。砂塵が目に入らないのもありがたい。コーナーに入る前に減速し、半ばクリアーしたところでブレーキレバーを離して再加速する。単に雄一が怖いもの知らずなのかもしれないが、一人、コーナーを過ぎたところで声を掛け、抜かした。

 激しくバイクが振動する下りはすぐに終わり、また上り返す。下りで腕や腰が疲れが出ても、ふくらはぎや太ももは若干休めた。クランクを回す力が湧いてくるのが分かった。高低図を見るとここからまた100メートル登ってまた200メートル下るようになっていた。最初の登り450メートルと比べたら気力でなんとでもなる標高差だ。息を整え、上を向いて、ギアをインナー×ローに戻す。ドロッパーシートポストのレバーを押してサドルから体重を抜き、サドルを上げる。サドルの高さは上りに合わせてある。

 そしてまた坂との根比べが始まる。乱れた呼吸はそう簡単に戻ってくれない。意識的に大きく息を吸わないとすぐに酸素不足になりそうだ。最初の上りと違い、だいぶばらけてきていたが、周囲にいるのはだいたい同じ顔ぶれだ。それぞれ下り上りで得意不得意があるらしく、前後しても結局抜きつ抜かれつというところだ。ハイドレーションパックで水分を小まめに補給し、コーナーの先を見る。標高差100メートルならすぐに下りになるだろうと期待するが、そうはならない。いい加減諦めろ、自分、と雄一は己に言い聞かせる。脚が重い、握力がなくなってきた、荷物が重い。補給した後だから腹の中もおかしな様子だ。先ほどと比べて進まないような気がしてならない。苦しい、苦しい、苦しい。それでもただ上り続けることしかできない。

 なんのためにこんなところに来ているのか、これが現実なのかとまた自分に問う。まだ始まったばかりだ。2時間しか経っていない。あと8時間は苦しまなければならない。彼女が何を求めていたのか、全く理解できない。そして完走したところで、やはり理解できないのではないかと恐れる。しかし走りきることでしか理解可能か不可能か分からないのだ。だったら走るしかない。王滝から帰ってきた時の疲れ切った、だが、満足げな彼女の笑顔が思い出される。

 こんちくしょう。

 何に対してか分からないが、雄一は心の中で悪態をつく。それでも微妙に勾配が緩いところはギアを上げて、少しでも前に進もうとする。最善を尽くすだけだ。それが人間の正しい生き様だ、などと大したことをしている訳でもないのに思う。いや、さっき負けられないとか、彼女を理解する以外の理由があるらしいとか考えていなかったか、と思い返す。雄一は同じことを何度も何度も考えて、別の答えを見つけては忘れていた。それが肉体を限界近くまで酷使し続けるということの一面らしかった。

 コーナーを幾つか抜け、またV字に削られた峠を抜けて下りに入る。サスペンションを開放しないとと考えたところで、前後ともリリースしたままだったことに気づく。パワーをサスから逃がしたまま上っていたのだ。道理で進まない訳だ。どれほど体力を無駄にしたのかと雄一は悔やまれてならない。完走率が7割ならば上々という、自分がミスができるようなレースではないのだ。こうして下っている最中も衝撃を和らげるために腕や脚の筋肉を使っており、それも疲労として肉体に刻み込まれている。しかし今、考えなければならないのはCP1を3時間以内に通過することだ。雄一は気持ちを切り替えて緩い連続する下りカーブをクリアし、標高200メートルを下りきる。この先は再び350メートルの上りとなり、最初の上りとさほど変わらないヒルクライムになる。しかし最初のように元気が余っているはずがない。長い辛抱を強いられることになるだろう。

 今後は前後サスをロックして上りに対応する。先ほどよりは力が逃げていないが、後輪のグリップ力が下がったような気がする。あくまで気のせいだと思いつつ、腹に力を込めて、背中やお尻の力を使うよう、フォームを意識しながら上る。普段からやっている人間には苦にならないのだろうが、雄一は意識しないとできなくなっている。フォームが身体に染みつくほどのトレーニングは積んでいないのだ。疲労困憊すればフォームは完全に崩れ、更に苦境に陥るに違いなかった。

 大きく右に曲がるところで正面の山の斜面が一望でき、その斜面を削って無理矢理通した林道がくっきり見えた。遠目だと斜度が分かるというのもあるが、それ以上にあそこまで行かなければならないのか、と思いやられた。しかし最初の上りで見た山の端の黒点に今、自分はもうなっているのだ。行って行けないことはなく、やってやれないことはないのだと己を奮起させる。そして2時間が経過し、少し道幅が広いところで小休止を入れ、エネルギー補給をする。痙攣しかかっている大腿からふくらはぎをくるぶしの辺りまでマッサージすると、少し楽になった気がした。血液が筋肉に送られていくのを実感し、立ち上がろうとするとモロにふらついた。長時間の負荷に身体が悲鳴を上げているのだ。

 しかしまだ上りは続いている。休み続けていると心が折れて再搭乗できなくなくなるのではと恐れを抱き、雄一は早々に再出発した。するとほどなく上りを終えて安堵した。そこがこのレースの最高標高地点のはずで、1600メートル強もあった。この後はしばらく小さな上り下りを繰り返せばCP1にたどり着ける。

 次の下りはすぐに終わり、再び上り始める。礫を見てラインが切れていないか判断しつつ、早くCP1が見えないだろうかとそれだけを考えている。周囲に他の参戦者がいるのが救いだ。特に前を走っている参戦者は同じくらいの速度で走っており、ペースメーカーになってくれていた。独りで上るより、前に誰かがいた方が断然上りやすい。サイクルコンピュータの距離表示を見ると25キロを示している。事前にリセットしていなかった自分が悪いが、正確な距離ではないのが恨めしい。おそらくあと3キロ程度だろうかと見当をつけ、同時に速度表示を見て絶望してしまう。時速6キロ前後と歩きと大差ない速度しか出せていない。しかしこれが現実だ。今、五感で得られているもの全てが現実だ。雄々しく神々しい山々と広い青空、濃い緑と荒れた路面とこの坂も。苦しさも痛みも悲しみも。

 峠を上り詰め、また下り、そして上る。がまん、がまんだと自分に言い聞かせ、エンドバーを握る手に力を込める。また上り切り、また下る。

 そして猛スピードで下っている最中、色が異なる路面が数メートル広がっているのが目に入ってきて激しく動揺した。その周囲は比較的大きな礫と少し赤みが入った白い細かい砂地なのに、そこだけ真っ白な細かい砂利地になっている。それが小瀬木が言っていた浮き砂利だと気がつくまでコンマ数秒を要した。恐らく大きな水たまりとなってしまった区間を埋めたのだろうが、砂利と路面が一体化しているようには到底思われない。レースに備えて埋めたのかもしれないが、ありがた迷惑だ。滑る。滑って転ぶに違いない、と雄一の思考を恐怖が支配した。砂利は一面に撒かれており、逃げるラインはない。反射的に急制動を掛けると車体はバランスを失った。違う。そうじゃない。冷静な自分が恐れている自分に語りかけてきた。小瀬木のアドバイスを思い出せ、と。

「ざけんなああ!」

 腹の底から声を出して恐怖を追い出し、彼のアドバイス通り無理に減速せず、勢いを保ったままバランスすることだけを考えて砂利地に入る。前後輪とも滑ったが、結局スピードが勝り、転倒することなく砂利地を抜けた。荒れた路面に突入すると雄一はタイヤが地面を掴んでいることを実感した。

「うおっしゃああ!」

 雄一は雄叫びを上げ、小瀬木に感謝しつつ下り続け、また上り始めた。

 サイクルコンピュータの距離表示が28キロを表示した。そろそろ30キロ、CP1かと期待しつつ上る。思ったよりリセットするまで走っていなかったのだろうと考えながら峠を越えたが、CP1は見えなかった。それどころか林道の右端に30キロ地点と書かれた看板を見つけ、一体何事かと理解不能に陥った。マップには30キロ地点がCP1とあった。昨日のミーティングでも変更があったと言っていなかった。それとも自分が聞き漏らしたのだろうか。マップではなく、説明書きには正確な距離が書いてあったのだろうか。それとも道を間違えたのだろうか。いや、間違えそうなところにはカラーコーンで車止めがしてあったし、先行している参戦者の姿もある。

 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせていると、右手に下りている谷の向こう側にイベントテントや参戦者たちが群れているのが見え、ハッとした。間違いなくCP1だ。あともう少しだと己を奮い立たせるが、出発してから2時間45分ほども過ぎている。谷の向こう側まで斜面に沿ってぐるっと続く林道は全体を見通せていても、どれほど時間が掛かるのかまでは経験が少ない雄一には見当がつかなかった。

 それでも急がねばという気持ちが湧いてきて、緩い下りでは必死に漕ぎを入れて加速し、CP1に至った。ゼッケンについているタイム計測用チップの電波を拾う、ゴムシートで養生された区間を抜け、第一関門をクリアする。タイムは3時間ジャスト。サイクルコンピュータの距離表示では32キロ地点。約4キロ余計に進んでいるのだとすれば上々のタイムだ。水を補給するタンクや仮設トイレに長い列ができており、自分の判断が間違っていなかったことが確かめられて少し満足感を覚えた。周囲では多くの参戦者が休憩していたが、雄一は食料補給だけ済ませるとすぐにまた走り始めた。60キロ地点のCP2の脚切りタイムはスタート後7時間。まだ余裕がある。しかし73キロ地点のCP3は8時間制限。1時間で13キロを進むのはこのペースでは不可能だ。時間的余裕は多ければ多いほどいい。

 それよりも何よりも、心が折れるのがただただ怖かった。折れてしまえばレースを捨てるだけでなく、彼女への思いも折れてしまう気がして、怖かった。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

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神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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