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連載第16回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第16話「王滝①」

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 季節は変わった。厳しかった冬は終わり、春を過ぎて、新緑眩しい季節を迎えていた。来週はもうSDA王滝になる。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

柏木恋:桜子の親友。雄一とは同じ部署。桜子のお下がりのクロスバイクを使っている。

サイクルフォルゴーレの店長:雄一のサイクルライフを手助けするプロフェッショナル。「アウター×トップ」から引き続き登場。


 季節が変わる間、雄一が無為に過ごしたはずがなかった。会社で仕事をしている時間以外のほとんどを自転車に費やし、5月に開催される王滝の準備を進めた。自転車の通勤距離を伸ばし、休日には100キロ以上のロングライドを自らに課し、時には仮想王滝にも行った。食事にも気を遣い、身体が変わっていくのが分かった。自転車に必要な筋肉がつき、体重が落ち、体脂肪率が改善された。100キロを走っても平気になったし、明らかに巡航速度も上がった。ハードテールとフルサスの違いにも慣れた。フルサスだと荷重をあまり気にしなくてもオフロードでタイヤが地面をグリップしてくれた。また、ビンディングペダルにも慣れた。引き足を使えるのは無条件に楽だったし、疲れてもペダリングが乱れにくいのが良かった。最初は数回立ちゴケをしたが、今ではとっさの時でも反射的にビンディングを外せるようになった。王滝の荒れた林道でも対応できるはずだ。強くなった実感があった。

 勉強もした。パンクが当たり前というから、チューブ交換の練習をした。チェーンが切れた時に対応できるよう、チェーンカッターの使い方を店長に教えて貰った。エアサスの調整も自分でやるようになった。特集されている雑誌を購入し、ネットで情報収集もした。装備や食事などについて研究を重ねた。ウェアだって揃えた。店長に誘われてロードバイクの筑波8耐にも出た。不慣れな借り物のロードバイクでも普通の参戦者よりは速く走れ、体力も保った。自転車のことばかり考え続けた。

 だが、急に彼が自転車バカになったはずがない。自転車のことを考えていれば、少しでも桜子のことを忘れていられるから──ただそれだけの理由だ。それでもふっと彼女を思い出してしまうことはあったが、100キロを走りきった後に考えようと思えた。簡単にいえば心の整理ができた、心に棚を作れたのだと自分では考えていた。

 関宿から帰る途中、松戸の手前で大きくうねっている江戸川を見つつ、ドリンクボトルに口を付ける。枯れた茶と暗い川面しかなかった江戸川の河川敷はいつの間にか緑が萌え、空も青さを増していた。風にすら新しい力を感じた。

 昨年、桜子と出会ったのがこの季節だった。5月に出会い、12月に想いを重ね、彼女を失った。半年間。それは彼女と過ごした時間であり、失ってから研鑽を積んだ時間でもあった。長かったような、短かったような気がした。少なくとも就職してからのここ数年で、1番眩しい時間だった。彼女と過ごした季節は今も彼の中に宝石のように輝いている。本当の意味で彼女を失ってしまいたくはなかった。

 ボトルをホルダーに戻し、再び走り始める。風は弱い。湿度も温度も高くない。絶好のサイクリング日和だ。しかし自分がしているのはサイクリングではなく、己と戦う準備である。準備は整った。そう彼は信じる。まだ自転車を始めて1年の初心者だ。リタイアしたとしても誰も不思議に思わないだろうが、自分は必ずや完走しなければならなかった。

 今はパスケースに入れている写真を脳裏に思い浮かべつつ、雄一は江戸川サイクリングロードを走りきった。

 1週間は瞬く間に過ぎ、ついに5月最後の週末になった。フォルゴーレでは今回のSDA王滝に参戦する常連客は雄一の他にはおらず、足がない彼のために小瀬木が車を出してくれた。彼は長野の富士見にあるダウンヒルコースに行くついでだから、と言ってくれたが、同じ長野県でも富士見と王滝は山2つ隔てており、かなり離れている。しかも王滝の方が関東からは奥にあるため、彼は雄一を送り届けた後、富士見に戻ることになる。その上更に帰りも迎えに来てくれるとのことで、大変申し訳なく思った。

 早朝にフォルゴーレで待ち合わせ、バイクを車載すると2人は長野に向かった。彼は42キロの参戦経験があり、車中でアドバイスを貰った。下りでは無理に抜かないこと、新しく砂利を敷いたところはタイヤがグリップしないので避けること、などだ。雄一は桜子が休職し、自分との連絡を絶ってしまったことを淡々と語り、その上で王滝へ挑む決意を述べた。

 小瀬木と雄一は友人と呼べる間柄ではない。せいぜい顔なじみといったところだ。柏木は別として、今まで彼は桜子と過ごした時間のことを誰かに話したことはなかった。そして何故、どんな思いを抱いて王滝を目指したかも誰かに話したことはなかった。なのに今、彼に聞いて貰ったのは、長距離ドライブで間が持たなかったからではなく、レースを直前に控えて、思いを言葉に変えて誰かに伝えなければ、心が潰れてしまいそうだったからだった。小瀬木は小さく頷きながら話を聞き終え、小さく、王滝で佐野倉さんの答えが見つかるといいけどな、とだけ言った。

 渋滞はなく、伊那で中央道を降り、権兵衛峠を経由して中山道を南下。中山道を外れてからは狭い2車線道路を通り、人造湖を見ながら奥へ進み、御嶽山を仰ぎつつ王滝村についた。民宿のチェックインの時間には早すぎたため、会場となっている松原スポーツ公園で下ろして貰った。雄一は礼を言い、小瀬木はエールを送って去った。

 まだ前日受付は始まっていなかったが、駐車場にはもう多くの車が停まっており、木造の大きなドームの下には主催者以外の、メーカー、インポーター、物販のテントが並び、各々準備をしていた。雄一はベンチで昼寝をして時間を潰し、昼は王滝食堂でいのぶた丼を食し、スーパーっぽい店で補給食を物色し、職場への土産にどんぐりの米粉焼きを買った。先に買っておかないとレース後では疲労のあまり買いそびれると考えたから。あとは夕方の競技説明とウェルカムパーティを待つばかりとなった。その頃には各テントの準備も終わっており、受付を済ませ、試乗したり買い物をしたり、それでもあまった時間でストレッチをして過ごした。夕方になるとレースの参加者が大挙して公園に押し寄せ、木造ドームは人でいっぱいになった。入口付近のサイクルスタンドには様々なMTBが何十台と掛けられ、見ているだけでも飽きなかった。そして競技説明とパーティの後、民宿にチェックインして早々に布団に入った。

 しかし明日の天候が気になり、雄一は携帯端末で今日何度目かの天気予報チェックをした。それによると明日の午前中いっぱいは保つが、午後から下り坂ということだった。山の天気は変わりやすい。レインウェアを持っていくのは当然としても雨が降ると難易度が上がる。自分が走っている間は雨が降り出さないことを祈るしかなかった。

 幸いすぐに寝つけ、3時半に起床。朝食はカップ麺タイプの生パスタとバナナを2本食し、トイレに籠もった。レース中はチェックポイントに仮設トイレがあるが、混んでいると考えられる。その時はタイムロスになるし、また、催した時にまだトイレまで距離があるかもしれない。

 トイレから出ると4時半過ぎになっていた。泣いても笑っても12時間後には全て終わっている。携帯端末でまたまた気象サイトを見ると午後2時辺りから雨が降る予報になっていた。スタートは6時。制限時間は10時間。今の自分の力では完走するのがやっとだろうから、最後の最後で雨に降られるらしい。覚悟を決めるしかなかった。正直、現実感が伴っていない。レースについては散々調べ、何の罰ゲームかとしか思えない過酷なものだと分かっているだけに、そこに自分が挑むということが嘘のように思われた。しかしそのために、その先にあるもののために努力してきた。それを無駄にする気はさらさらない。雄一は出発の準備を始め、ハイドレーションパックに水を容量の3分の2ほど入れ、アミノ酸系のサプリを投入する。少なくして軽くした分、途中のチェックポイントや天然エイドステーション(飲料に適した水が流れている滝)で補給するつもりだ。補給食をサドルバッグやトップチューブの上にとりつけたトライバッグに入れる。一口羊羹、ゼリー系サプリ、ミニ小倉に梅干。パンクした時用の予備チューブは工具ボトルにタイヤレバー等の工具類と一緒に入れておく。ボトルはケージに入れておくと振動で落ちるかもしれないと聞いたので、もう一本の予備のチューブを外側に巻いて固定するつもりだ。コースマップと高低図はステムに取り付け済み。ポンプはトップチューブに常備してある。念のため携帯端末も持っていく。トラブル時には役に立つだろう。

 荷物のチェックが終わるとサイクルウェアに着替える。半袖のジャージに7分丈のレーサーパンツの組み合わせで、上はアームウェアにウィンドブレーカーを重ね着する。5月末でも朝は冷え込んでいる。走り出せば暑くなるだろうが、それまでは必要だし、雨が降り出せば寒くなる。そして、ああ、そうだったと雄一はハイドレーションパックのフロントパネルにレインウェアを詰め込む。お守り程度のつもりで持ってきたが、役に立ちそうだ。桜子の心遣いに感謝だ。

 民宿に荷物を預け、外に出たのは5時過ぎだった。外はもう白み、明るかった。ヘルメットを被り、アイウェアを掛け、ジェルパッド入りのグローブを手にはめる。そしてスタンドに掛けられている桜子のフルサスXCバイクを見つけ、宜しく頼むと心の中で語りかけ、またがった。民宿から会場の松原スポーツ公園までは10分ほどで着いたが、スタート地点を先頭にして、既にバイクが何百台と横に倒して置かれていた。今回は600人ほども参加者がいるのだから当然かと思いつつ、バイクを最後尾に置き、出発を待つ。その間にも続々とバイクは後ろに続き、ついには列の半ば辺りに位置していた。公園のトイレには長蛇の列ができており、自分の判断が正しかったことを確認し、安堵した。

 タイヤの空気圧を2気圧に再調整し、ストレッチをした後、腕時計を見るとスタートまで15分ほどになっていた。じたばたしても仕方がないので少し湿ったグラウンドにあぐらをかき、深呼吸する。もう心拍数が上昇していた。緊張しているのが自分でも分かる。レースではない。自分との戦いだと言い聞かせ、目を瞑り、気持ちを落ち着かせる。少し落ち着くと周囲の会話が聞こえてくる。仲間と共に参戦している人が多いようだ。もし何もなかったのなら、自分の隣にも彼女の姿があったのかもしれない。そう考えると寂しくなったが、寂しがってはいられない。完走し、彼女に連絡をとる。自分と彼女の事情を考えるのはその先でいい。そう己に言い聞かせる。周囲が俄に騒がしくなり、雄一が目を開けると参戦者は各々トップチューブをまたいでいた。雄一もそれに倣って出発の準備をする。もう5分前で、スピーカーから流れるカウントダウンが遠くから聞こえていた。

 1分前。雄一は右のビンディングペダルをはめる。そして秒単位のカウントダウンが始まり、ついにスタート時刻が訪れる。MTBの長蛇の列はゆっくりと動きだし、雄一も前のMTBの後をついて会場を後にした。スタート地点には幾つもの幟が並び、応援客もいて、ちょっとしたお祭り気分だ。

 会場からオフロードに入るまではいわゆるパレードスタートだ。混雑するスタート時に事故が起きないように追い越しを禁止する安全処置である。しかしアスファルトの舗装上を1キロほども走っているとペースがまちまちなため、追い越しが始まったが、最初の脚ならしからペースを上げるわけにいかないと雄一は軽いギアを早く回し、時速30キロ弱で中盤を維持する。そしてサイクルコンピュータの距離をリセットしていなかったことに今さら気づき、慌ててリセットした。1キロから2キロか。正確な距離が分からなくてもどうということはないが、苛つく原因にはなりそうだ。

 そして5キロほど離れた氷ヶ瀬で橋を渡って林道に突入する。かつては森林鉄道の停車場があった場所だとネットで見た知識をチラと思い出した。林道は車が通れる、いわゆるオフロードのダブルトラックで、幅は広くても、通れるラインは轍がある場所の2本だけだ。しばらくの間は勾配がなく、その内、前との距離が詰まってきた。いよいよ上りが始まるらしい。オフロードを走り始めて身体が熱くなり、アームウォーマーとウィンドブレーカーの袖をまくり上げた。少し息が上がり始めている。コーナーを曲がると坂になっており、渋滞が始まっていた。何事かと思ったが、路面が悪くてラインが1本しかない上に、前が詰まって早々に押しに入っている参戦者がいたためだった。こんなところで押せないし渋滞にはまっているわけにもいかない。雄一は怒りを覚えつつ、他の参戦者に続いて路肩の雑草混じりのラインを走り始める。左手の切り立った斜面から地下水が迸っており、飛沫を受けながら渋滞をやりすごす。路面が悪く、グリップするのが難しく、途中で脚をつく参戦者が多く見受けられたが、それでも雄一はリアサスの助けで難を逃れ、渋滞を抜けた。

 見上げると坂は遠くに見えるコーナーまでずっと続いていた。頭では分かっていたつもりでも、実際に目にするとガツンとくる。そのコーナーまで参戦者とMTBで埋まっているのだから、もう感嘆するほかない。ここから先は6.5キロ、勾配約7%もある上りだ。一気に標高差450メートルを駆け上らなければならない。それでもまた周囲の参戦者には会話している余裕がある。雄一はぐっと奥歯を噛みしめるしかない。もう身体中が熱く、筋肉が疲れを訴えている。同行者がいても口を利く体力がもったいないと思っただろう。

 がまん、がまん、がまん、がまんだ。

 頭の中でリズムをとりながら、そう言葉にする。

 疲労を溜めないように軽いギアを回し、エンドバーを握り、引き、腰を落ち着け、丹田に力を込めて身体にアーチを作り、全身のパワーをクランクに伝える。しかし長い間同じ姿勢なので、背筋が痛み始めていた。もちろんお尻も痛い。また、握力がいつまで保つだろうかと不安にもなる。しかしこんなところで不安がっていても、まだレースは始まったばかりだ。比較的勾配が緩いところでダンシングをして身体をリフレッシュさせたが、フルサスでもリアが滑った。注意が必要だった。

 勾配に合わせて無理なく、頻繁にギアを変え、延々とクランクを回し続けると森の中を抜け、視界が広くなった。右手の険しい斜面の下に今しがた上ってきた林道が垣間見え、左手にごつごつした岩肌があった。崩落があったのか、大きな石がごろごろ転がっている。雄一が上っているラインは取りあえず塞がれておらず、大きく息を吐いて酸素を肺に取り入れた。しかしいつまで経っても上りだ。ウンザリする。ふくらはぎと太ももの筋肉が溜まった乳酸を処理できず、悲鳴を上げ始めていた。とっくの昔から肺が燃えるように熱かった。

 いつ峠を越して下りになるのか、そればかりを考える。見上げても目に入るのは山の稜線だけ。その緑の稜線の上に動く黒点を幾つも見つけ、心が折れそうになった。それは先にいる参戦者たちだった。雄一はハンドルステムに取り付けたコースマップと高低図を睨みつけて嘆息する。正確には嘆息する間すら惜しいくらい息が上がって肺が熱くなっていたため、そうした気になってみただけだったが。

 まだ10キロしか走っていない。ゴールまであと90キロ。この先、どうなるか分からない。だけど完走すれば王滝を走りきった時の桜子の気持ちが分かるはずだ、100キロに挑戦しようと思った決意が分かるはずだ、と自分に言い聞かせ、ペダルを踏む脚に再び力を込める。そして脳裏に彼女の笑顔が浮かぶ。今はもうはっきりとは思い出せないそれは、彼女と一緒に撮った写真の中の笑顔だ。

 しかし、もし彼女に完走したとメールをしても返事がなかったらどうすればいいのか。ふと頭に不安が過ぎる。いいや、今、そんなことを考えても仕方ない。この半年の間にため込んだ力が今、この凄まじく状態が悪いダブルトラックの上りで生きているのだ。それ以外、この瞬間を示す事実はない。

 楽しい、と今、心から思える。身体を虐めて手に入れた力で更に身体を虐め、標高1600メートルの高見へ、ガソリンエンジンの力を借りず、己のパワーだけで上ろうとしている。1年前、自分がこんなことに挑戦しているなんて、思うはずがなかった。MTBと出会わなかったら、こんなにも苦しい思いをすることも、強くなったという実感を得ることも、桜子への強い想いが生じることもなかった。自転車と出会えて、桜子と出会えて本当に良かったと全身で感じられた。

 更に登坂を続けると、右手が大きく開け、空が見えた。その下にはまだ雪が残る霊峰御嶽山が望めた。澄んだ空気の向こう側に輪郭もはっきり見えていた。

 うおっしゃ! 

 腹の底から声を出し、雄一は力強くビンディングペダルを踏み込んだ。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

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神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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