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連載第15回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 15話「決意」

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 雄一が帰京したのは仕事始めの直前だった。元々桜子とは頻繁に連絡をとる感じではなかったため、休み中はおめでとうの連絡と、いつ頃帰ってくるのかを尋ねる連絡しか送らなかった。しかし両方とも返事がなかったため、最寄り駅に着いてすぐに音声通話を入れたが、コール音しかなかった。だが、まだ不安を感じてはいなかった。会社に行けば会える、そう考えていた。

■あらすじ

佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

柏木恋:桜子の親友。雄一とは同じ部署。桜子のお下がりのクロスバイクを使っている。

サイクルフォルゴーレの店長:雄一のサイクルライフを手助けするプロフェッショナル。「アウター×トップ」から引き続き登場。


 しかし会社に着くと彼は自分が楽観していたことを覚った。普通、社内恋愛をするのならば関係を隠そうとするものだが、今までが単なるお友だちだっただけに、始業前、何を憚ることもなく彼女の職場のフロアに赴いた。そして雄一は彼女の机の上がきれいになっていることを知った。それは整理整頓というレベルではなく、新人を迎えるような感じで、些細な文房具が置かれているだけの状態だった。雄一が誰かに彼女のことを訊けるとすれば同僚の柏木しかいなかった。平静を装いつつ人事部フロアに戻り、柏木の姿を見つけると、彼女は複雑そうな表情をした後、小さく頭を下げた。雄一が動転していることを予め知っていたようだった。彼女はお昼休みに喫茶ブースで、とだけ小さな声で言った。

 時間はおそろしいほどゆっくり流れ、やっと昼休みになると柏木と時間差を設けて上の階の喫茶ブースに向かった。自販機でパンとコーヒーを買い、眺めのいい窓際カウンターで柏木を待つ。彼女は飲み物だけ買って隣に座った。

 神楽坂が一望できた。

 柏木と雄一は目を合わせず、外を眺めたまま口を開いた。

「――これは佐野倉さんの仕事に関係があるので先に言っておきますが、桜子はアパートを年末いっぱいで引き払っています。家賃補助の関係で分かるでしょう」

「なんだ……それ」

 青天の霹靂とはこういうことを言うのだろうと雄一は思い知った。

「彼女は1月から休職に入りました。とりあえず半年。長引けば……分かりません」

「どうして? 僕にはそんなこと、何も……」

 しかし思い返せば兆候はあった。12月に入ってから残業ばかりしていたのは休職前に仕事を終わらせるか引き継ぎするかの必要性があったからだったのだろう。

「私はその辺の業務担当ですし、彼女から相談も受けていましたから、知っています。知っていますけど、言えません。言えないのは職務上であること以上に彼女と約束したからです。だから言わないんじゃなくって言えない、なんです」

「返事はないし、電話も繋がらないってのは……」

「それは分かりません。ただ、今は連絡を取りたくないんじゃないでしょうか。もし彼女の立場なら、私でもそうするかもしれないと思います……」

「意味が分からないよ」

 雄一は唇を真一文字にした。彼は実家に帰った際、来年には彼女を連れてこられるかもしれない、なんて気が早い話をしたばかりだった。本気だったし、彼女も気持ちを受け止めてくれた。そう思っていた。なのに、彼女は突然自分の前から姿を消した。分からなかった。

「――話せない私の気持ちも分かって下さい。私だって……佐野倉さんと桜子のことを応援していたんですから。私、ちょっと佐野倉さんのこと気になってたって、知ってました? 新人の頃、よく仕事を教えてくれましたよね。口数少なくてクールで仕事も真面目で、佐野倉さんは自分が思っているより、周りに悪く思われてませんよ。でもとっかかりはなくって……けど、桜子はああだから、佐野倉さんとどんどん仲良くなって、まあ、こういうことなのかな、なんて考えて、それからは私なりに応援していたつもりだったんですけどね……」

 雄一は目を見開いて柏木を見た。彼女の告白は心底意外だった。

「ごめん……いろんな意味で、全然、分からなくて……」

「恋愛感情を持っていたとかそんなんじゃないですよ。誤解しないでください」

 柏木は苦笑した。思い返せば雄一は桜子からそんな話を聞かされていた。ダメな自分をまた見つけ、気持ちが落ち込んだ。

「――半年か」

「それで済めば、問題は少ないと思うんですけどね……」

 意味深に柏木が答えた。

「でも僕は彼女に相談されなかった」

 信頼されていなかったのかと思うと更に気持ちが沈んだ。

「しなかったんじゃなくて、できなかったんです。桜子のことが本当に好きなら彼女を信じてあげて下さい。必ず分かる時が来ますから。それが私が言える最大限です」

「ありがとう」

 沈んだ気持ちが少し戻った気がした。自分は桜子が本当に好きだ。それだけは自信を持っていられる。彼女が突然自分の前から姿を消し、連絡を絶った理由を知っている柏木がそう言うのだ。今はそれにすがるしかないと思われた。パンの袋を破ろうとしてもなかなか破れなかった。気持ちは完全にここになかった。

「じゃ、行きますね……そんなに落ち込まないで下さい」

 柏木は席を立ち、雄一は小さく手を振った。そしてその後は手元のパンと缶コーヒーを見つめ、ボーッと外を眺めるしかなかった。

 雄一は落胆を覚えながら帰路についた。彼女が側にいる生活がもう当たり前になってしまっていたから、心に大きな穴が空いたような感覚を覚えていた。今までそれは単なる比喩表現に過ぎないと思っていたが、途方もない喪失感を味わうと身体の感覚に反映するのだと分かった。彼は力なくクランクを回し、フォルゴーレに辿り着いた。そして店頭のバイクスタンドに桜子のXCバイクを見つけ、淡い期待を抱いたがすぐに失望に変わった。店内に彼女はおらず、店長が雄一を見つけると声を掛け、手紙を手渡した。それは桜子からの手紙だった。

〝私はもう乗れないので佐野倉さんがこの子に乗ってください。今までありがとうございました。王滝がんばってください。〟

 そう、きれいな小さな字で認められていた。

「やっぱり意味が分からないよ……」

 目頭が熱くなり、雄一は薄暗い軒下の椅子に腰を掛けて項垂れた。やっと思いが通じたのに、一緒になれたのに、お別れだなんて、思い出を作ろうと言っていた意味がこんなことだったなんて、思いも寄らなかった。

「これじゃ彼女に何にもプレゼントしてないことになっちゃうじゃないか」

 スタンドに掛かっているフルサスXCバイクに目を向けると、自分がプレゼントしたホイールが光っていた。どうりでホイールがプレゼントだと知った時、彼女が複雑な表情をした訳だ。こんなことなら何かもっと別な、彼女の手元に残るプレゼントが良かった。そう悔やんだ。自分だけが、もう己が1人きりではなく、2人になったと思い込んでいたのだろうか。だとすると情けない。自分にバイクを渡すのだって、休職と関係があるのか。少なくとももう自分と一緒には走らないということだ。そもそも休職の理由も柏木は知っていて、自分は蚊帳の外。休職が半年以上になるかもしれないというのも理由が想像がつかない。もう何が何だか分からず、涙が滲んだ。

 ふと彼女の妹、祥子の顔が思い浮かんだ。彼女の連絡先は知っている。本人がダメでも柏木が口止めされていても、彼女ならどうだろう。最後の頼みの綱は彼女のように思われた。そして携帯端末を取り出たが、涙でにじんで液晶画面がよく見えず、できなかった。

 その後、雄一は何をする気力も生じず、自分のXCバイクを押しながら帰宅した。何もしたくなかったし、何も考えたくなかった。ただただ、悲しい感情に支配されていた。眠れるとは到底思えなかったが、着替えもせずにベッドに横になり、布団だけ被って、暗い部屋の中で沈んだ。

 そして彼女と出会ってからのことを思い出し続けた。自転車雑誌を読んでいたら話しかけてくれた。バイクを買おうと思ったら店に先回りされていた。自転車に乗り始めてからは、ずっと引っ張ってくれた。恋を期待しまいと自分に言い聞かせても、恋をしてしまった。

 真夏のあの日、眩しい日差しの中、水道の水を被った彼女の肢体が思い出された。缶ビールで酔っ払い、眠ってしまった彼女の寝顔が思い出された。自分の腕の中にあった彼女の感覚が蘇ってくる。それをもう失ってしまうのかと、考えるだけで恐ろしくなり、自分が虚ろになっていくのが感じられた。暗い中、震える指で連絡が欲しい旨、桜子に送り、布団の中で丸くなった。

 いつの間にか寝付いていたらしく、気づいた時には窓の外から朝日が差し込んできていた。桜子からの返事はなく、起き上がる気力もなかったが、それ以上に身体の異常を感じていた。身体が熱く、関節が痛かった。これはまずそうだな、と体温を測ると38℃を超えていた。精神的なストレスか風邪か分からないが、新年2日目から休めるはずがない。無理矢理起きだして地下鉄で出社した。始業時間になってPCに向かっても、あまり仕事は進まなかったが、体調が悪い方が考え込まなくて、楽に思えた。

 昼休み、机にうつ伏せて寝ていると柏木が心配して声を掛けてくれた。体調が悪いのは誰から見ても明らかだったようで、上司からも医者に行けと言われ、午後は休んだ。

 会社の近くの診療所で診察をボーッと待っていると、時間はすぐに過ぎていった。そして薬を貰い、寮に帰り、寝た。料理をする気力はなかった。

 桜子がいてくれたなら部屋に来て看病してくれたのかな、と脳天気なことを考えてしまい、自嘲し、更に落ち込み、再び寝入った。そしてたった1日で、桜子がまるでフィクションの存在かのように感じていることに気づき、涙が溢れた。

 もう自転車になんか乗るものかとまで脳裏で言葉にした。平々凡々な、ただ少しずつ心をすり減らすような日常だけでよかったのだ。ならば彼女と話すこともなく、行動を共にすることもなく、恋をすることも、こんなにも悲しい思いをすることもなかったはずだ。どうすればこの悲しみが消えるのか、時間だけが悲しみを癒やしてくれるのかと、それはどれくらいかかるものなのだろうかと、幾度も考え、悩みつつ、雄一は微睡んだ。

 薬のお陰か、翌朝は微熱になったが、関節痛は残っていた。上司からも無理をするなと言われていたこともあって会社を休んだ。桜子のことは考えないようにしようと自分に言い聞かせつつ、午前中は眠り、昼過ぎに起き出し、昼食を作ろうとして冷蔵庫の中が空であることを思い出し、デイパックを背負って近くのスーパーに買い出しに出た。フォルゴーレまではほど近かったが自転車で出かけ、乗るものかと考えていたくせに結局乗っているな、と自分を笑った。そして買い物を済ませた後、桜子のXCバイクを店に起きっぱなしにしていることを思い出し、立ち寄ることにした。

 彼女のフルサスXCバイクは店頭のスタンドに掛かったままになっていた。そして自分のバイクもスタンドに掛け、店長に挨拶をした。平日なのにどうしたのと訊かれ、雄一が風邪を引いて休んだと説明すると、彼はそんなこともあると労ってくれた。

 目を向けたことに気づいたのだろう、店長はしんみりと、雄一を気遣うように言った。

「桜子ちゃん、オレにお願いしていったんだよ。もう、この子には乗れないから佐野倉さんに渡して欲しい……ってさ。何か訳ありなんだろうけど……彼女の望みがこのバイクに乗って欲しいってことなら、乗って上げようよ」

「もう、乗れない……?」

 店長の言葉に雄一はハッとした。そしてデイパックに入れっぱなしだった彼女からの手紙を慌てて取り出し、注意深く読み返すと認められた言葉がようやく頭に入っていった。

「乗らない、じゃない。乗れない、なんだ……」

 その違いに気がつくと、救われた思いがした。あんなに自転車が好きだった彼女が乗れなくなる。それには必ずや理由があるに違いなく、そしてそれは自分と連絡をとらない理由と同じ理由かもしれないと考えられた。

「――そういえば王滝の申し込み、まだしてなかったっけ」

 手紙には王滝がんばって、ともあった。仮に自分のことを嫌いになって姿を消したのなら、そんな言葉を残すはずがない。

「店長……僕、彼女のバイクで100キロにエントリーしますよ。彼女と約束したんです」

 それは約束をしたからというだけの理由ではない。王滝に挑戦すれば彼女が何を見たのか、何を求めて100キロに挑戦しようと考えたのか、感じられるはずだと思えた。

「きっと桜子ちゃんも喜ぶと思うよ。彼女は女の子にしては背が高かったから、佐野倉さんでもセッティングすれば普通に乗れるよ」

 店長は頷いた。

「初心者の佐野倉さんがやらなくっちゃいけないことはいっぱいある。ショップとしてできる限りの応援はするよ」

 店長は微かに笑み、雄一もそれに続いた。

 今は連絡を絶たれていても永遠の別れであるはずがない。休職から明けても同じ状態だったらと考えると怖いが、そんなはずがないと、イブの夜を思い返す。思い出を作ろうと言っていた彼女が、理由もなく自分を拒絶するはずがない。ただ今は、何か理由があって、気持ちの整理がつかなくて連絡していないだけなのだ。だからもし王滝を完走したのなら、彼女に報告をしよう。きっとそれならば応えを返してくれるに違いない。そうあって欲しい。そして柏木の言うとおり、彼女の方も自分を掛け替えのない人間だと思っているのだと信じよう。そう雄一は自分に誓う。

 君が好きだとまだ言葉にしてもいなかった。もしあの時、彼女に遮られても好きだと伝えていたら彼女も理由を話してくれたのだろうか。自分を抑えられなくなる、という言葉の意味が今さら考えられて悔やまれた。しかし時が戻るはずがない。答えは王滝に行ってからでいい。自分と戦い、自分を見つけ、帰ってこよう。ここが人生の岐路だと思え。ここで逃げたらこの先、一生後悔して生きることになる。だからここで踏ん張るんだ。そう思える勇気が自分の中にあることを知り、雄一は胸を熱くする。もし平々凡々に会社生活を過ごしていただけなら、こんなことは思いも寄らなかったに違いなかった。

 そして雄一はサイクルスタンドに掛かる2台のXCバイクを見つめ、奥歯と両の拳に力を込めた。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

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神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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