■あらすじ
佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。
桜子が王滝に参戦し、完走したて東京に戻ってきたその夜、成り行きではあったが、疲労困憊した彼女のため、雄一は彼女のアパートにお邪魔することになった。邪念よ去れと、心の中で唱えながら、靴を脱いだ。
■あらすじ
佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。
■登場人物
佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。
山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。
「あ、あ、ちょっと待って!」
桜子は慌ててリビングに行ってしまった。見られたくないものも当然あるだろうからと雄一は言われるまま、待った。数分後、彼女が呼びに来て雄一は部屋に通された。元々荷物が少なく、何か片付けるものがあったのかと思われるようなこぎれいな部屋だった。冷蔵庫を開けるとニンジンとジャガイモが転がっていて、ハムと卵、うどんが2玉と缶ビールが数本あった。桜子が後ろからよろよろと覗き込んできた。
「レトルトも上の棚にあるよ」
「いや、これだけあれば十分。休んでなよ」
「そか。うん。じゃ、任せた」
桜子はリビングに戻ると座卓にうつ伏せた。雄一は思わずクスリと笑い、材料を手早く細かく刻んで電子レンジに放り込み、ガスレンジでうどんをゆで上げて水で洗い、具を卵で綴じて、ポン酢でうどんと和えて皿に盛った。正味10分ほどで完成だ。
「ほら、できたよ。食べな」
皿と箸を座卓の上に置き、雄一は一旦キッチンに戻る。
「え、もうできたの?」
桜子が驚いたように面を上げて、うどんを見つめた。
「美味しそう……」
雄一は缶ビール2本とかつお節とマヨネーズを持ってきて、桜子の向かいに座った。
「私にもビール~」
桜子が手をのばしてきて、雄一は座卓の上に缶ビールを滑らせた。
「はい。乾杯。3位入賞おめでとう」
プルトップを上げて、乾杯し、缶に口を付ける。
「ビール美味しい……うどんもいただきます。って、佐野倉さんの分のうどんはないの?」
「僕は夕ご飯きちんと食べたから。残りは朝ご飯になるように味付けしてないよ」
「女の私が悔しいくらい良くできた男だなあ……」
口をへの字にした後、桜子はうどんに箸をつける。
「おお、超特急で作った割りには、まあまあ美味しい」
「安物のポン酢だからまあまあ止まりなんだよ。かつお節とマヨネーズで調整してよ」
桜子は削り節とマヨネーズで混ぜ合わせる。
「あら不思議。美味しくなったよ」
そして雄一に目を向けた。
「乾き物くらい出そうか? ポテチくらいしかないけど」
ずいぶん砕けた感じだが、これが彼女の地なのだろう。
「まあそれくらいなら。どこにあるの」
桜子に指示され、キッチンからポテチをとってきて袋を開ける。祝杯と言うにはぐうたらだが、彼女を独占していられるのだから良しとする。彼女は疲れた様子を見せながらも、うどんを食べ、嬉しそうに缶ビールに口をつけている。雄一は口元を緩ませ、そしてふと気づく。
「あれ、髪結って、薄くメイクもしてる」
「気がついても言わないでよ……スッピンなんてそうそう見せたくないんだから」
桜子は目を細めて睨んだ。さっき玄関口で待たされたのはそういうことだったらしい。
「ごめん、ごめん。でもさ、君はナチュラルでも美人なんだな。正確には疲れが顔に出ているのをさっ引いた予想だけど」
「はいはい。相変わらずですね、佐野倉さんは」
桜子は最後のうどん1本をつるりとすすった。
「そうだ、悔しいから今度は私が佐野倉さん家で何か作ってあげようか」
「バカ言わないの。君が男子寮に来たら社内中の噂になっちゃうよ」
「そっか、残念……」
「王滝はどうだったの?」
雄一はポテチを食べながらビールを飲む。酒が強い方ではないが、嫌いではない。
「いやもう事前の噂通り、スゴいところだったとしか言いようがないんですよ。スタートから少し平地を走ったらあとはガレガレの林道で、それからこーんな坂になって……」
桜子は手で勾配を示した。
「それじゃ45度くらいあるよ」
「もう気分はそんな感じなの。それでもう最初からインナー×ローでひたすら回して、気を抜いているとリアサスだってのに、後輪が大きな礫に乗り上げてズルッっていっちゃうし、神経使うのよ。男の人たちはどんどん先に行っちゃうんだけど、それでも私、食らいついて、その内、抜かしたりして……抜かすのも大変なの。林道だけど轍に掴まって岩で塞がれてたりしちゃうと降りないとならなくなるし、走れるラインってそんなになくて、いい感じの路面があったら一気に抜かさないとならない。これが辛い」
「へえ。それはレースっぽいね」
「でしょう?」
桜子は実に満足げに満面の笑みを浮かべ、缶ビールを口にし、うどんを食べた。
「それでね、延々上りが続くの。もういい加減にしてよって思って、次のコーナーを曲がれば下りなんじゃないかって期待して上るんだけど、そこまで行ってもやっぱり上りで、チェックポイントまできてやっと安心する感じ。サイコンが壊れたんじゃないかってまで思ってしまうくらい追い詰められるんだから」
今夜の彼女は饒舌だった。レースのことを話したくて仕方がなかったらしい。そして雄一もそんな彼女の話を聞きたかったのだ。だから下世話な欲望を抑えつけ、彼女からの信頼を壊すまいと再び決意する。
「やっぱ僕は遠慮しておくわ」
「なんで? 面白いよ。下りになってからがさあ大変。ゆっくり下っている人をガンガン抜かして最高に爽快。もちろんブラインドコーナーはスピード落とすけど。だって斜面側にガードレールがあるわけじゃないし、道に大穴空いていることもあるし、雨水を流すためのゴムが立って斜めに設置されてて、それにも引っかかりかねないし、もう大変なんだけど、それが面白いのよ」
「フルサスだから面白いで済むんだろ?」
「ハードテールの人も大勢いたってば。ああ、やっぱり次は100キロ完走したいな。またあんな風に自分と戦ってみたい」
「――自分発見じゃなくて、自分と戦うのか」
「戦わずして得るもの無し! 苦労しなくて努力しなくて、楽しいことなんか何もない」
「ああ、それは分かるよ」
自転車でも恋でもそれは同じことだろう。就職も苦労したからこそ満足感があった。
もうアルコールが回ったらしく、彼女の頬はほんのり赤くなっていた。
「お兄さん、もう1本ちょうだい」
「そりゃもう、君のビールだからご自由に」
しかし桜子は動かず、代わりに雄一が立って冷蔵庫からもう1本取り出す。とってきてという意味だったらしい。うどんを食べていた桜子はビールを受け取り、プルトップを空けるとすぐに半分ほど飲み、雄一を見た。
「佐野倉さんも飲んでよ」
「僕はお酒弱いからこのくらいにしておく」
「酔って本音言えばいいのに」
そして桜子は缶ビールを飲み干した。
「酔っ払い相手に本音なんか言えません」
口にすれば今の関係は壊れてしまう。そう思われて怖かった。
「じゃあ、いつ本音を言うのさ」
鋭い質問だった。素面の彼女だったらきっと口にはしないだろう。酔ったふりをしている可能性もあるが、疲れ切っていて正常な判断力が無いと考えられた。
「然るべき時にきちんと言いますよ。僕だって男だから」
たとえ今の関係が壊れたとしても、自分の気持ちを言葉にしたい衝動に駆られる時が来るだろう。その時は少なくとも今ではないと思われた。
「ビールもう1本……」
2本目を空にした彼女の顔はもう真っ赤だった。彼女もさほど酒に強くないらしい。
「疲れているんだし、もうやめておきなよ」
「ケチだなあ……痛たたた……」
桜子は筋肉痛を堪えながら立ち上がり、キッチンに足を運んだ。そして残っていた缶ビールを手にリビングに戻ってきたところでよろけ、雄一に体重を預けるようにしてゆっくり倒れ込んだ。雄一は彼女の身体の柔らかさを感じ、鼻に制汗剤の匂いを覚えた。
「ごめんなさい」
桜子はわざとらしく小さく舌を出した。
「筋肉痛がひどくて……」
雄一は彼女の手をとって立たせ、柔らかな掌の感触を確かめつつ、離した。彼の中に脳裏から無理矢理消していた性的な衝動が走ったが、そこはぐっと堪える。彼女は自分を頼ったからこそ部屋に入れたのだ。恋人としてではない。しかしこの身体と自分の身体を重ねられたらどれほど幸せだろうかと考えてしまうと胸が熱くなった。
桜子はまたプルトップを上げ、言った。
「明日さ、どこかに出かけようか」
「そんな状態なのに走りに行く気なのかい?」
雄一は露骨に呆れたが、桜子は小さな声で続けた。
「違うよ……午前中は死んでると思うけど、午後なら動けそうだなって。近場で、電車でどこかに出かけない?」
驚いたことに、デートのお誘いらしい。文字通り、息が止まりそうになった。
「君が動けるのなら……どこか行きたいところある?」
「リクエストとしてはそんな歩かずに済むところかな」
「明日までに考えておくよ」
彼女にどういう心境の変化があったか分からないが、雄一は頷いた。
「よろしく……」
そう言うと桜子は缶ビールを一気に飲み干し、座卓にうつ伏せた。疲れが一気に出たに違いなかった。しばらくするとそれは寝息に変わったように思われ、雄一は立ち上がった。
「では帰るとしますか」
「――襲わないの?」
うつ伏せたまま桜子が呟いた。まだ寝ていなかったようだ。雄一はドキリとしたが、答えは頭の中で何度も繰り返していた言葉を口にするだけで済んだ。
「君が僕のことを信頼してくれているって分かってるから」
それに加えて、疲れ切って酔いつぶれた女の子に手を出すほど落ちぶれていないと自分では思う。たぶん襲っておけばよかったとまた激しく後悔するのだろう。それでもいい。彼女の信頼の方が大切だ。
「そっか……ありがとね」
それっきり桜子が口を開くことはなかった。熱帯夜ではないにせよ、まだ暑い。雄一はエアコンを控えめ設定にして、彼女の背中にタオルケットを掛けた。財布に鍵が入っているのは先ほど見て知っている。まずは鍵だと、ウェストバッグの中を漁るとパスケースを見つけ、中にポタリングの時の記念写真が入っていることに気づいた。
(知り合って4ヶ月経って、彼女も違った目で僕を見始めてくれているのかもな……)
パスケースは見なかったことにしようと心に決め、雄一は財布から鍵を取り出した。そして座卓の上を片付けて、洗い物を済ませてから部屋を出て、鍵をドアポストに投函する。そしてデート場所はどこにしたものかと考えながら、雄一は寮への帰路を歩いた。
翌朝、携帯端末を見ると桜子から謝罪連絡が来ていた。荷物を持たせたこととビールを飲んでからんだことについてだ。雄一は大したことは無いよ、正午に駅で待ち合わせしよう、とだけ返した。昨夜の彼女は尋常ではなかったから、言動については参考程度にして深く考えないことに決めていた。
雄一は駅前には早めに赴き、桜子を待った。そして彼女は時間通りに、雄一が初めて見るビシッとした格好で現れた。ウェストが締まった、モノトーンのダマスク柄のワンピースを身にまとい、可愛らしいハンドバッグを手にして髪型も決まっている。一方、普段着の雄一は自分の代わり映えしない服を見てしまった。
「今日はすごいきれいで嬉しいけど、疲れてるんじゃないの?」
「感想が直球すぎて返答に困る。まあ、予想の範疇だけど。昨日、あんな醜態を見せただけに挽回しないとね」
桜子は苦笑した。
「醜態だなんて思ってない。どちらかと言えば今日の方が僕の守備範囲外で困る」
「えーそんなあー。全身筋肉痛を堪えて頑張ったのに」
「本音を言えばきれいですごく嬉しいけどね……暑いから早く行こう」
雄一は照れを隠しながら地下鉄の階段を下りようとし、桜子を振り返った。すると彼女は唇を一文字にして俯いていた。
「どしたの?」
「なんでもない。なんでもないったら、なんでもない!」
桜子は面を上げ、早足で追い付いて雄一と目を合わせる。今日の彼女はヒールがある靴を履いているので目線の高さは彼と変わらなかった。
「で、どこに行くの?」
彼女は少し照れたように唇の端を上げた。
「ちょっとだけ歩くところ。ほんのちょっとだよ」
「そんな、ひどい~~まだ全身痛いのに~」
桜子は小さく悲鳴を上げ、雄一は声を上げて笑った。
「じゃ、行こうか」
そして大きく一歩、踏み出した。
「あ、ちょっと待って……」
桜子が雄一のシャツの裾を摘まみ、彼の足を止めさせ、まっすぐ見た。
「久しぶりのヒールだから、ゆっくり歩いてね」
裾を引っ張られているだけなのに、何故か彼女がいつもより愛らしく思えた。
「ああ。了解」
今日が特別な1日になりそうな予感を覚えつつ、雄一は頷いた。
<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません
監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)
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