■あらすじ
佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。
関宿博物館でしばしの休憩の後、外に出る。すると当たり前だが、夏の暑さを感じる。館内は冷房が効いていたからというだけではない。更に気温が上がっており、例年の夏のような厳しい暑さだ。そして感じたのは暑さだけではない。
■あらすじ
佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。
■登場人物
佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。
山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。
サイクルフォルゴーレの店長:雄一のサイクルライフを手助けするプロフェッショナル。「アウター×トップ」から引き続き登場。
「――本当に風が強いな」
雄一は南側に視線を向けて風を感じた。今まで背中を押していてくれた風は、今度は正面から吹いてきている。自転車乗りにとって風向きはいつでも気になるものだが、ここまで強い向かい風だと気が滅入る。
「水を被っていこうよ。涼しくなるし、乾いたらまた途中で被ればいいんだし」
桜子が水飲み場の方を指さした。
「うん、身体が楽になるよね」
水を被ると熱中症の予防になる。彼女が言うとおり、走っているとその内に乾いてしまうから、荷物を濡らしさえしなければいい。水飲み場の水道で空のペットボトルに水を詰め、二人してそれを頭から被る。背中に水が入ると急に身体が冷え、気持ちが良かった。風を受けて水が気化し、熱が奪われるのが分かった。
「うわー。気持ちいいよねえ」
桜子も雄一と同じように頭から被り、サイクルウエアがぴったりと張りついて、身体の線が露わになり、下着の形状がくっきりと浮き上がった。雄一が想像していたよりも胸の膨らみが大きいことに気づいてドギマギしたが、近くの東屋で休憩をしていたローディの目に気がつき、正気に戻った。
「早く行こう」
「え、なんで?」
「いいから!」
彼女が見世物になってしまったみたいでいい気分ではない。雄一は戸惑っている桜子の腕を乱暴に掴み、XCバイクを停めてある休憩所まで戻った。
「離して!」
桜子は雄一の手をふりほどき、露骨に眉をつり上げた。
「――ごめん」
雄一は、彼女の言葉を聞き、怒っている顔を見て、我に返り、自分の行動を心底意外だと思ってしまった。
「説明してください。そうでないと、私……」
「だって、濡れたら身体の線が透けて見えてて、注目を集めていたから……」
桜子は自分の身体を見た後、ハッとしたようにウェアの裾を伸ばした。
「そのくらい見えたってどうってことないですよ」
「そんなはずない」
「私自身のことです。どうして佐野倉さんが気にするんですか」
「僕が君のことを心配して悪いかい?」
雄一は真顔で彼女を見詰めた。それが彼女には意外だったようで、露骨に目を逸らし、俯いた。
「――それでも、さっきの佐野倉さんは怖かったです」
失敗した、という思いが雄一の頭の中を支配した。彼女が口調をフレンドリーに変えてくれた直後にこれだ。元の口調に戻っている。怖いと感じさせてしまったのは良くなかった。掌の中にはまだ彼女の腕の柔らかさが残っており、その感覚は甘美な痺れを伴っていた。これではまるで童貞だった頃のようだと自嘲し、同時に学生時代に初めてつきあった異性を思い出した。あの時も何かがきっかけになって気まずくなって別れたのだ。その感覚も思い出されて鬱になった。こんな些細なことで彼女と終わりたくなかった。自分で恋をしているのだと認めてすらいないのに。
「怖い、か」
「今は、そうでもないですけど……」
桜子は自分のフルサスXCバイクの鍵を外し、出発の準備を始めた。これで話を終わりにしようというのだろう。気まずいままだが、仕方がないと雄一は諦め、彼も鍵を外し、ヘルメットを被った。
強い向かい風の中、こうして二人は復路に入った。
残り60キロ。距離を半分こなしても条件は往路よりずっと厳しい。走った分だけ体力を消耗しているし、朝よりも気温が上がっている。そしてこの風だ。往路では時速30キロで巡航できていたのに、今は20キロがやっとだ。風と強い日差しが濡らした身体を乾かし、体温が急上昇しているのが分かる。行きは軽くクランクを回していたのに、今はフロントギアをインナーに入れていても重く感じる。汗が噴き出し、心臓が暴れ、大腿に乳酸が蓄積していく。先をいく桜子は黙々とペダルを踏んでいる。気を抜くとよろけて倒れてしまいそうなほど強い向かい風だが、彼女は好んで風に立ち向かっているかのように見えた。
復路の最初の10キロを走破した頃、ようやくスーパーマーケットの赤い屋根が見えてきた。往路で休憩した場所だ。桜子はサイクリングロードを降りず、江戸川に架かる橋を横切る横断歩道で停まった。歩行者用信号は赤だった。雄一は彼女のバイクの横まで出て、彼女の横顔を見た。苦しそうに息を整えていた。
「今回は休まないの?」
「王滝では上りが1時間以上続くんです。この向かい風は練習になります。佐野倉さんが辛ければ休みますが」
桜子は前を向いたまま答えた。雄一は先ほどの失態を挽回したく思った。
「僕はまだ大丈夫だけど、ずっと風避けになってたら辛いだろう。少しくらい僕が牽くよ」
「一人でも走りに来るつもりだったんです。先頭を走ります」
こんな頑固な彼女を見るのは初めてだ。王滝を真剣に取り組んでいるというより、意地を張っているだけに見えた。女の子扱いされたのがイヤだったのか、間が持たないとでも思っているのだろう。歩行者用信号が青に変わり、桜子はサドルに腰を掛けたまま、ゆっくりと横断歩道を渡り始めた。雄一は何も言わずに、背中を追ってクランクを回す。
空を見上げると、行きと同じように雲は早く流れていたが、陰に入るまでまだ距離があった。陽光が容赦なく降り注ぎ、皮膚を焼く。ようやく雲の陰に入っても、すぐにまた陽の部分に出てしまう。サイクルコンピュータに目を向けると、時速15キロ前後まで速度が落ちていた。関宿城を折り返して15キロ地点、東武野田線の鉄道橋手前。出発してから1時間以上経っている。鉄道橋の下のサイクリングロードは狭く、また、橋桁を迂回しているので見通しが悪い。速度を落として坂を下り、左側キープで橋桁の脇を通って上り返す。その僅かな登坂でも今の彼女には辛い様子だった。いつの間にか二人組のローディが後ろを走っていて、苦しそうな桜子を見かねたのか、追い抜き様に、頑張って、と声を掛けていった。彼女はベテランの乗り手ではない。辛くて当たり前だろうし、自分の限界を見極められず、無理をしていると考えられた。一人で走っているんじゃないのに、そう強く思った。
雄一は決断し、桜子の後ろから出るといきなり強い向かい風が襲ってきた。誰かの後ろにいるのとそうでないのとでは差は大きく、ギア2枚分は重くなったようだ。それでもクランクを回し、無言で桜子の前に出る。ミラーの中の桜子は黙って彼の後ろについていた。雄一はバーエンドの先を握り、頭を低くして風を少しでもやり過ごそうとする。胸は空気を求めて激しく上下し、ただでさえ上がっている体温が更に上昇する。正直、辛い。しかし先頭交代したばかりで弱音を吐くわけにはいかない。綺麗にクランクを回す余裕はすぐになくなり、時速15キロ前後をキープするだけで体力が削れていく。経験不足を痛感するが、ここは根性しかない。
桜子と代わったのが河口から44キロ地点の表示を過ぎたばかりの場所だった。今、次の表示が見えてきたが、やっと43.5キロ地点だった。たった500メートルを果てしなく遠く感じている。野球少年たちを横目に見ながらグラウンドがある流域を抜け、左手に広々とした新興住宅地が現れ、しばらくして雑草ばかりが生えている区画に囲まれた、だだっ広い公園が視界の先に現れた。そこに40.5キロ地点の表示があった。自分としては頑張った方だと思う。
「ここで休もう!」
振り返って桜子の表情を窺うと彼女も苦しそうで、小さく頷いた。少し頭痛を感じている。どうやら軽い熱中症になってしまったようだ。サイクリングロードを降りて公園の水場へと急いだ。そして水を空のペットボトルに入れて、頭から被る。インナーまで水が滴っていっても構わない。強い風が吹いているから気化熱でどんどん身体が冷えていく。
「うひゃあ、気持ちいい!」
しかし桜子は水を被るのを躊躇っている様子だった。雄一はまたペットボトルに水を詰め、ヘルメットを被ったままの彼女の頭から掛けた。
「わ! 急に何するんですか」
「せっかく水があるんだし、被ろうよ」
「さっき、私が被ったら怒っていたくせに!」
当然だが、またインナーの線が露わになっていた。
「や、それは……他の人の目があったからで……」
「――この程度であんな風になってたら、プールに一緒に行ったりして、私が水着になったら、どうなっちゃうんですか?」
目を細め、ジッと雄一を見る。水が滴っている彼女はやっぱりいい女だ。雄一は彼女の言葉を無視して、再びペットボトルに水を詰めて頭から被る。
「うはああ。生き返る」
桜子も同じように頭から水を被り、ヘルメットを脱ぎ去る。
「もう、髪がぐしゃぐしゃ」
ヘルメットに押さえつけられ、水で濡れ、強い風に吹かれて、普段の彼女からは考えられないような爆発頭が現れた。笑わないようにしようと思いつつも、雄一はつい口元を緩めてしまう。
「あ~~、私のこと笑った?」
「いやいや。恩人を笑ったりしないよ」
「恩人……?」
意外そうな顔をして桜子はぽかんと口を小さく開けた。
「自転車って楽しみを教えてくれた。続けさせてくれた。だから、恩人」
そして恋も思い出させてくれた。自分が彼女を大切に思う気持ちは、恋そのものだった。もう認めざるを得ない。ずぶ濡れになった彼女も、都心のオフィスでOLをやっている彼女も、同じ彼女だ。明るく、愛らしい女の子だ。
まだ身体は火照っており、雄一はまた水を被る。シューズの中まで水浸しになって歩くと音がするようになっても、再度被る。桜子も続いて水を被る。彼女が頭から水を掛けると、水しぶきと濡れた髪が陽の光に輝いた。額にまとわりついた前髪を分け、彼女は口を開いた。
「私はきっかけを作っただけ。全部、佐野倉さんの中で眠っていたんだと思うよ」
そう言う彼女はどことなく得意げに見えた。雄一は答えず、またペットボトルに水を詰め、頭から被った。
暑い時間帯に走るのは止めて、昼寝をしてやり過ごすことにした。彼女も体調を崩しており、無理をすれば熱中症が悪化することは間違いなかった。それに今日は土曜日で休みはもう1日ある。復路を急ぐ理由はない。木陰を探して自転車に鍵を掛け、芝生に腰を掛ける。そして補給食を軽く食べた後、その場に横になった。
全身に疲労が溜まっており、瞼を閉じるとすぐに睡魔が襲ってきたが、すぐ近くから寝息が聞こえてきて、重い瞼を開けて彼女の方を見た。穏やかな寝顔に木漏れ日が落ちていた。眠りについたばかりの今なら、キスしても目覚めないように思われた。しかし雄一は瞼を閉じた。ここでキスをしなかったことをずっと後悔するのだろう。自分がそんなことをするなんて彼女は露ほども思っていないに違いない。桜子の信頼は裏切れない。
幸い長く悩むことはなく、すぐに眠りの帳は降りてきてくれた。太陽が動いて木陰の場所も動いて暑くなり、一旦目を覚ましたが、また木陰に戻って昼寝を再開した。2度目に目が覚めた時には頭痛が引き、身体が楽になっていた。先に桜子が目を覚ましており、彼女は携帯端末をいじりながらハイドレーションパックで水分補給をしていた。腕時計を見るともう午後3時を過ぎていたが、まだまだ暑い。それでも空の大半を雲が覆って、陽が陰っていたし、若干だが風も弱くなっているように思われた。
「もうひと頑張りできる?」
桜子の問いに雄一は頷いた。二人は再び走り出し、適宜先頭交代を繰り返しながら、松戸まで下った。そして街中に入り、天ぷら屋に立ち寄ったが、3時で閉店していた。昼寝しなければ間に合ったのにね、と話しながら市川橋まで下り、濃厚な野菜スープのラーメンを二人で食べた。市川橋まで戻ってくれば帰ってきたも同然だったが、ラーメン屋を出た頃には周囲は暗くなり始めていた。LEDライトを点灯し、サイクリングロードでジョギングする人や犬の散歩をする人に注意しながらゆっくり進んだ。腰と股間が痛かった。特に股間は専用のインナーを着用していても酷く痛んだ。
徒歩だったのならば、とぼとぼといった様子で、一之江まで戻ってこられた。もうフォルゴーレの閉店間際の時間だった。
「風が強かったでしょう」
店長が笑顔で出迎え、雄一は苦笑を返し、桜子は満面の笑みで答えた。
「はい。自信がつきました」
「佐野倉さんは2度とやりたくないって顔をしてるね」
「そうでもないです」
辛いことばかりでイヤな場面すらあったが、今日1日で桜子との距離がだいぶ縮まった。だからそう答えた。
「彼が一緒に来てくれて、本当に助かったんですよ」
「ほとんど役に立ってないけど」
「そんなこと、ないよ」
桜子は雄一を見上げた。
「さて、片付けるか」
店長は店の奥に引っ込み、雄一は缶コーヒーを買い、桜子はカフェオレを買って、外の椅子に腰を掛ける。椅子に腰を掛けても腰とお尻が痛んだ。
「あー楽しかった」
桜子はそう言ってプルトップを開ける。
「本物のマゾだ」
雄一は苦笑しながら缶コーヒーに口を付ける。
「違うよ。苦しい中に身を置くと自分を見つけられるの。当たり前の生活じゃ分からなかった自分の感情が見えてくるっていうのかな……分からない?」
「いいや。それはすんなり分かるよ」
そして頷いた。辛い120キロだった。だからこそ分かった感情があった。この先もずっと、彼女と一緒に時を過ごしていたい。今の彼女は疲れ切った顔をしているが、同時に満足げな笑みを浮かべてもいる。だからこの瞬間に水を差すようなことはしない。だが、いつか、そう遠くない時に、この想いを伝えてしまうだろう。彼女と一緒にいるようになって3ヶ月余り。普通の生活では得られない経験を共にしたことで彼女を理解した気がしたし、より惹かれている自分を見つけてもいた。これまでは彼女に引っ張って貰っていたが、今日のツーリングでは違った。関係は少しずつ変わり始めている。桜子は小さく首を傾げた。
「懲りずにまた一緒に走ってくれる?」
「ああ。懲りたけど、君が望むなら一緒に行くよ」
雄一は正直に今の気持ちを言葉にした。しかしこれ以上は言えないし、言いたくない。
「私が寝てる時、何もしなかった?」
「できなかった」
「そっか」
桜子は悪戯げな笑みを浮かべた後、缶のカフェオレに目を戻した。缶コーヒーを飲み干した頃、閉店時間になり、店頭の明かりが消えた。二人は各々のXCバイクにまたがり、家路についた。寮に戻り、シャワーを浴びて着替え終わった頃、携帯端末に連絡が入った。内容は一行だけだった。
〝今日は本当にありがとう〟
雄一は少しだけ考えて、こう返信した。
〝僕の方こそ、本当にありがとう〟
そしてすぐに返信があった。
〝分からないと思うけど、私もあなたのこと、恩人だと思っているんだよ〟
彼女がそう書いた意図は分からなかったが、雄一は一人頷き、また返した。
〝そうだったとしても、やっぱり僕も、きっかけを作っただけだと思う〟
しばらく待っても彼女からの返信はなかったが、今はそれでいいと思えた。
昼寝をしたにもかかわらず、もう眠くて仕方がなかった。だが、寝入る前に腹を満たさないと明日に響く。アミノ酸を補給し、疲労困憊した筋肉に復讐の機会を与えねばならない。雄一は冷蔵庫を開け、夕食の準備を始めた。
<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません
監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)
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