title banner

連載第8回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第8話「ロングライド①」

  • 一覧

  梅雨が明け、入道雲が蒼い空に浮かぶ、7月のことだった。

「お願いがあるのですが、今度のお休みで一緒に関宿まで行きませんか?」

 出社直前の、朝のコンビニのイートインで桜子が改まった表情で言った。

「関宿?」

 その誘いがデートのそれだとは雄一は露とも思わない。彼女はすぐに説明を返した。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

「千葉県の北西の端です。利根川と江戸川が分かれるところですよ」

「何となく分かった。で、何キロあるの?」

 桜子は言いにくそうに俯き、小さな声で答えた。

「……往復で120キロ。片道じゃありませんよ」

「それでも未体験ゾーンだ」

 彼女の案内で2度ほどロングライドをしたが、それは荒川サイクリングロードの話で、彩湖を周るだけの5、60キロのコースだ。普段40キロ程度しか走っていない雄一にとって、それ以上の距離は負担を感じる。

「実は私もなのですよ」

「なんで突然、行く気になったの?」

 雄一はカップのカフェオレをストローで吸い上げた。

「王滝が近いので。勾配がある林道を3~4時間走りきることを考えたら、長距離を体験しておかないといけないと思いまして。男の人が一緒にいてくれればマシン以外のトラブルがあった時に安心ですから」

「構わないけど、僕じゃ足手まといにならないかな。確実に僕の方が先にへたれるよ」

「その時は都合良く休憩することにします。それに佐野倉さんは自分で思っているよりも強くなっていますよ」

「そうなら嬉しいんだけど」

 桜子はプロテイン補給用の豆乳の紙パックを握り、最後まですすった。

「では、決まりってことで」

 いつもと同じ、彼女のペースだ。雄一は悪い気がしないどころか心地好さすら感じる。好きだの嫌いだのを言う前に、この、たった2カ月の間で桜子は彼の心の大きな部分を占めている。だからこそ、この時間が当たり前だとと思わないようにしようと雄一は自分に言い聞かせた。

 週末は絵に描いたような夏日だった。

 真っ青な空と強い風。例年の酷暑ではなく、今年は冷夏の予想で、実際これまで涼しかったのだが、運悪く今日の予想最高気温は34℃。朝方のニュースでは熱中症に注意するようアナウンサーが繰り返し呼びかけていた。いつもの夏のようにこんな暑さが続くようなら、もう少ししたら昼間は走れなくなるだろう。

 新装備のハイドレーションには氷とスポーツドリンクを2リットル入れた。補給食は定番の一口羊羹と大豆バーを用意した。ネットで仕入れた知識だが、走る前にタンパク質を補給すれば疲労軽減になり、走り終わった30分以内ならタンパク質の吸収がよくなり、回復が見込まれるらしかった。

 また、XCバイクにも2つの新装備を施した。1つは強化ゴム製のエンドバーだ。握りにバリエーションをつけられるようになる。もう1つはサイドミラー。2人でツーリングする時に後方確認に便利だし、夜間は車のヘッドライトが映るので後方警戒に役に立つ。

 桜子は待ち合わせの5時半きっかりにコンビニ前に現れた。今日の彼女はミニスカートの下にレーパンをはき、両腕にUVカットのカバーをつけていた。

「紫外線対策してきましたか?」

「日焼け止めはたっぷり塗ってきた。言われたとおり、首の後ろもしっかりと」

「よかった。一応、持ってきてありますけどね」

 彼女は背中のハイドレーションパックを叩いた。普通のデイパックのように荷物を多少入れられる造りになっている。

「予備のチューブとタイヤレバー、携帯用の空気入れも持ってきた」

「では出発しましょうか」

 XCバイクに向き直ると彼女の髪が揺れた。

 最初は桜子の先導で出発した。江戸川区というだけあって、江戸川まではほど近い。荒川と江戸川の2つのサイクリングロードに挟まれた一之江は、自転車乗りには絶好の環境にある。橋を越えて一之江から千葉県側に周り、江戸川に沿って北上する。強い風は南から吹いており、追い風になって背中を押してくれているから、苦も無く時速30キロを維持できる。千葉側で北上し続け、製紙工場を右手に見た後は国府台下へ。10キロほど走っても疲れを感じていないが、気温が上がってきたので汗でウェアが濡れている。それにあと110キロもあるかと思うと気が重くなるので考えるのを止めた。

 市川を抜け、演歌で有名な「矢切の渡し」を横目に松戸へ。松戸の河川敷には野球のグラウンドやゴルフ場があり、この辺は荒川と変わらないと思いつつ眺める。そして松戸から流山まで走り、武蔵野線の手前で最初の休憩をとることにした。サイクリングロードを降り、エアコンの効いたコンビニで熱を帯びた身体を冷やす。そして身体に悪そうだが即座に氷菓を買い求め、すぐに店頭で食べ始めた。

「美味い。アイスバーがこんなに美味いとは」

「身体が求めているんですねえ」

 桜子もお行儀関係なく、ガリガリと囓って食べている。

「まだ30キロくらいしか走ってない?」

「ですねえ……あと90キロですか……」

 携帯端末の温度計機能を見るとまだ7時だというのに28℃を示していた。

「今年はマシとは言っても暑いなあ……」

「無理はしないようにしましょう。熱中症の兆しが見えたら、休むってことで。こんな暑い日に走るなんて私、バカですかね」

 桜子は自嘲気味に笑い、雄一も笑う。

「そのバカに付き合う僕はもっとバカなわけだ」

「来るんじゃなかったって思ってます?」

「いや……それは分からない。意外と走っているローディがいるし、君の言うとおり、休む時は休もうよ。それでいいじゃないか。しかし分かってはいたけど、ロードに追い抜かれてすぐに小さくなられると心が折れる」

「マイペースで行きましょうよ」

 桜子はアイスを持っていない方の手でドンと雄一の背中を叩いた。氷菓を食べ終え、再びコンビニに入ってスポーツドリンクを購入し、また店頭で飲み干してしまった。身体が水分を求めていた。桜子がXCバイクにまたがって、雄一も続き、サイクリングロードに戻る。

「お昼はどうする予定?」

 先を行く桜子に声を掛ける。

「松戸まで戻ってこられれば、知り合いに教えて貰った美味しい天ぷらの店に行くつもりだったんですが……無理しないことにしましょう」

「分かったー」

 そう答えて、雄一はくるくると軽いギアを回す。

 流山から先は右手に広がっていた市街地が消え、田園風景となる。

「遠くまで来たなあ」

 空を見上げると白い雲が流れ、田畑や河川敷にくっきりと影が落ちている。この一帯が広々と拓けているからこそ雲のカタチがはっきり分かるのだが、同時に日差しが強く注いでいるということでもある。

 ヘルメットは蒸すし、日焼け止めを塗ってあっても太陽が剥き出しの腕を焼く。桜子のようにUVカットと言わないまでも長袖の方が良かったかとちらりと考える。

「脚は大丈夫?」

 桜子が振り返って声を掛けてくれた。

「ああ、まだ何ともない」

 急激に運動すると負担が掛かった部分の筋肉が痙攣することがある。毎日40キロ弱走っている雄一にとってここまでは安全圏だが、それを越えると身体に負担が表れてくる。しかしテンションは上がっているし、大丈夫だと思われた。ちょっとした旅行気分だ。目の前には見たことのない光景が広がっている。まっすぐ伸びていくサイクリングロード。右手には青い稲穂が広がり、左手には流れが遅い大きな河がある。走っても走っても同じ光景が続く。空を見上げれば今も入道雲が浮かび、大地に影を落としている。

 確か、最初に自転車を買おうと思った理由は、風を切る感覚が気持ちよかったから、だったはずだ。今は追い風で楽をしているとはいえ、颯爽と自分の力で前に進んでいる感覚は無条件に気持ちがいい。新装備のバーエンドのお陰で前傾姿勢をとれるのもいい。

 姿勢を気にしながら頭を上げて前を向くと、レーパン越しの桜子のお尻がちょうど目に入った。通勤に使っているトレーニングウエアと違い、レーパンでは身体の線がくっきりと見える。ミニスカートで隠しても風や脚の動きで見えてしまう。自転車で鍛えた彼女の脚は引き締まっていて、良い意味で見ていて気持ちがいい。追い抜いていくローディも視線を向けてくる。美人でスタイルのいい女の子と一緒にいることに少し優越感を覚えたが、今のところ恋人でもなんでもないことを考えると逆に悩んだ。

 その後は順調に距離を伸ばし、野田の醤油工場を通り過ぎ、東武野田線の鉄道橋の下をくぐった。しばらく走り続けると今度は右手に牧草地が現れ、2頭の乳牛が放牧されているのが目に入った。暑いからだろう。2頭とも木陰で休んでいた。

「うわあ、遠くまで来た感じがする」

 思わず声を上げると桜子が返事をしてくれた。

「のどかだよねー。この先でもまた驚くと思うよ」

「なんか驚くようなものがあるんだ?」

「もう見えてるよー」

 桜子が空を見上げたタイミングで、2台の自転車が大きな影に覆われた。遠くからエンジン音が聞こえて来ている。

「飛行機?」

「この先にグライダーの飛行場があるから」

 太陽の中に、小型の飛行機とそれに引っ張られるグライダーの黒い影を発見した。その2つの影が太陽から出ると、雄一と桜子はまた強い陽光の下に出た。

 グライダーの行き先をチラチラ目で追いつつ、前に気をつけながら進むと、正面の河川敷に飛行場が見えてきた。滑走路は綺麗に刈られた草地で、何機ものグライダーが待機し、端には翼を折りたたまれたグライダーも何機かあった。また1機の小型飛行機がプロペラで風切り音を発しながら離陸し、グライダーを引っ張って飛び立っていった。

「優雅な趣味だよ……こんな近くにこんな飛行場があったなんて」

「でももう東京から50キロ弱離れているし、そこそこ田舎でしょう」

「いつの間にか50キロか……自分の力にびっくりだね。小旅行じゃないか」

「ちょっと見学していきますか。日陰はないけど」

 桜子が右手を下にかざして止まれの合図をし、雄一は彼女のスピードに合わせて止まった。XCバイクを堤防の斜面に向けて横に倒し、ヘルメットをとり、ちょうどあった看板の影の中に、2人寄り添うようにして座った。今度は小型飛行機が着陸態勢に入ったのか、上空で旋回を始めている。雄一はその勇姿から目を離さず、じっと見詰め続ける。

「目の輝きが違うね。男の子だね」

 桜子が何故か得意げに言い、雄一は彼女に目を向けた。

「乗り物大好きな子どもだったらしいから。今でも心躍るよね。ところでさ、今日はなんか、口調がいつもより砕けてる気がするけど……」

「一応、意識してやってるんですけど……まだあまりうまくできないんですよね」

 桜子は笑って見せ、雄一は頷いた。

「気疲れしないんだったら、そのままでいてよ」

「佐野倉さんの気に障らなければこのまま続けます」

 彼女は雄一の顔を覗き込み、小さく首を傾げた。

「どうぞ、どうぞ……おお、ランディングだ」

 小型飛行機が滑空飛行に入り、徐々に高度を下げ始めた。そして速度調整しつつ滑走路の方角に機首を向け、2人に迫ってくるように一気に高度を下げる。あっという間に前を通り過ぎ、草地にランディングギアを接触させた。1度、2度と跳ね、速度を落として着陸を完了させ、最後に滑走路の端でゆっくり方向転換した。

「こんな間近で飛行機の着陸を見るの初めて!」

「僕もだ。来てよかったな」

 彼女は1点の曇りもない笑顔を浮かべていた。肩までかかる黒髪が強い南風になびいていた。白い頬がほんのりと赤みを帯び、瞳と唇が陽光で輝いていた。雄一の目は彼女に釘付けになり、胸は騒いで落ち着くことを知らない。今、自分がどうすればいいのか分からず、雄一は小型飛行機に目を戻す。自分の気持ちを曖昧にしていたからこそ彼女と一緒にいられる。しかし気持ちが意識の表層に浮き上がってくると、惑う。

「どうかした?」

「ちょっと照れただけ」

「変なの」

 桜子はまた笑った。雄一は答えられず、ただ俯いた。激しい陽光の下で長い時間休んでいられるはずもなく、往路を急ぐことにした。しかし再出発してすぐに右手に郊外型のスーパーマーケットが現れ、また休憩をとる。入店するとエアコンが快適で火照った身体が冷えていった。そしてすぐに冷たい飲み物を買い、店頭で一気に飲み干した。

「関宿城まであと9キロ。頑張ろう。ここから先、私も未体験ゾーンなのよね」

 桜子がガッツポーズをとって見せた。たった9キロか、と雄一は拍子抜けした。順調に走ってこられたし、出発してからまだ4時間しか経っていない。休憩しつつだから、結構な巡航速度だ。しかし南風は強く、帰りは向かい風になる。向かい風の辛さは朝夕の通勤でよく知っているが、今回は距離が違う。行きが向かい風で帰りが追い風だったら良かったのにと思いながら、サイクリングロードに戻り、終点の関宿城を目指し始める。そして次の橋まで至った頃、遠くに天守閣が見えてきた。

「あれが関宿城?」

「そう。県立の博物館だから休憩がてら入館しようよ」

「そうか。君も行くのは初めてなんだよね。是非行こう」

 雄一は少しずつ大きくなる鉄筋コンクリート製の天守閣を見ながら応じた。折り返し地点が近くなったからという訳でもないだろうが、すれ違うローディの数が増えてきたように思われた。車止めを幾つか通り過ぎ、関宿城の近くまできて、サイクリングロードを降りて博物館のロータリー前に至る。売店兼休憩所もあって、自転車を建物の壁に寄りかからせて鍵を掛け、再び冷房の効いた室内に入った。

「でもさ、こんなに休んでいていいのかな」

「熱中症が怖いし、いいと思うけど」

 桜子がアイスの自動販売機に手をのばした。

「食べてばっかりだ」

「何よう……」

 振り返ってふくれつつ桜子は自販機のボタンを押し、雄一もポケットから小銭を取り出した。アイスを食べながら中を眺めると、地元の野菜と特産品、歴史資料の書籍が置いてあった。汗が引いてから博物館に入館し、かつて関宿には実際に城があったことを知り、感心した。そして利根川の治水・水運の歴史を記した展示をざっと眺め、自転車を始めなかったら一生知ることはなかっただろうな、と思いつつ、天守閣に上る。

 天守閣からは関東平野が一望でき、意外と近くに筑波山が見えた。地元から見るのとは違い、霞んでいないし、大きい。随分遠くまで来たな、と改めて実感する。桜子は筑波山を背に立つと携帯端末を手にし、雄一を呼んだ。

「一緒に撮ろ?」

 雄一は無言で桜子のすぐ隣に立つ。そして、桜子はピースサインをして、写真を撮る。

 電子音がした後、雄一は目を伏せて小さく頷いた。

「なあに?」

 桜子は不思議そうな顔をして雄一を見上げる。

「いや、なんでもない」

 なんでもないはずがない。すぐ隣に立った時、桜子の身体から体温が伝わってきて、この夏の日差しよりよりも熱いと感じられた。そんな、距離だった。この温度を忘れまいと、雄一は頷いたのだ。だが彼が、それを口に出せるはずがなかった。口に出せば、その感覚がぼやけてしまう、そう思えたから。

「変なの」

 桜子は少し笑った後、一足先に下への階段を下る。

 ――そう、変だな。

 雄一は自嘲し、桜子を追って階段を下り、博物館を後にした。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

この記事のコメント

この記事のタグ

神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

  • 一覧

新着ニュース

もっと見る

ピックアップ

e-BIKE最新特集

スペシャル

自転車協会バナー

ソーシャルランキング

サイクリストTV

インプレッション

インプレッション一覧へ

連載