猪野学の“坂バカ”奮闘記<45>坂バカ歴史的勝利!? 歓声に酔いしれた幻の「バンクリーグ」
プロフェッショナル─それは能力が高く、技に優れ、その仕事が確かであるということ。プロは様々な分野で存在する。私も一応、プロの俳優だと思われる。そしてもちろん、自転車の世界でもプロは存在する。ロードレースではJプロツアー(JPT)がそれに当たる。

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私が初めてプロ選手の華麗な走りを見たのは、愛する「ふじあざみライン」で開催される「富士山国際ヒルクライム」だった。
当時はホビーレースの後にJPTが開催されていて、我々アマチュアはゴールでプロの走りを観戦するのが流れであった。
素人目から見てもプロの走りは美しい。フォーム、ペダリング、全てに於いて無駄がなく完成されている。その道を極めた人はどの世界に於いても独特の存在感を放ち、美しいものだ。
NHK『チャリダー★』で「坂バカ」として生きるようになってから、プロ選手との距離感が徐々に縮まり出した。実はプロとのファーストコンタクトは土井雪広選手だった。
記念すべきチャリダー第1回目のロケで、私は 「伊吹山ドライブウェイヒルクライム」 に挑戦した(伊吹山もアマチュアの後にJPTのレースがある)。その時に滞在したホテルのロビーにいたのが土井選手だった。
真っ黒に日焼けして全日本チャンピオンジャージを纏った土井選手は何ともいえない威圧感を放っていた。とてもじゃないが話しかけられない。映画の『アウトレイジ』そのものだ! しかし4年後にタイ合宿で再会すると、信じられないくらいナイスガイであった。人を見掛けで判断してはいけない。
しかしプロの俳優の世界では、話は違う。怖そうに見えて実際会ってみるともっと怖かったりする。若い頃はよくビビリながら芝居をしたものだ。今はコンプライアンスという名の救世主が現れ、怖い先輩もずいぶんと丸くなった。今の若手はいい環境で芝居ができて羨ましい。
ついに訪れたプロとの対決
もとい。話を元に戻そう。私はありがたいことにこれまで数々のプロライダーと走って来た。最初はトレーニングの邪魔をしてはいけないと思い、随分遠慮して走ったものだが、今では一緒に走ることにも随分慣れて来た。もちろん、それはトレーニングでの話をであって、レースではない。
しかし遂にプロとレースをするというとんでもない話が舞い込んで来た。『チャリダー★』で特集した「バンクリーグ」(2019年10月開催)だ!
バンクリーグとはJPTの選手がトラックを使って競うレース。1チーム4人、4人対4人の2チームで戦う。バンクを11周するうち3・5・7・9・11周目にスプリントポイントがあり、3ポイントを先取した方が勝ちとなる。駆け引きが非常に面白いし、ロードレースでのゴール前のスプリントが周回ごとに見れる。このバンクリーグにチャリダー選抜チームとして出場することになった。
もちろん本戦ではなく、エキシビションでハンデももらう。プロは3ポイント取らなければ勝てないところ、我々は1ポイントでも取れたらたら勝利というルールになった。
読者の方々は、どうせ坂バカは瞬殺されるだろうと思われるだろう。しかし私はとんでもない伝説の“坂バカアタック”を披露することになった。
我がチャリダーチームの監督は宮澤崇史さん。メンバーは五郎さんと宮澤監督の‟秘蔵っ子”で爆発的なスプリントを持つ若手の中川由人選手(リオモ・ベルマーレ)。この中川選手を如何に好位置で爆発させるかが勝負の鍵となる。
宮澤監督の作戦はこうだ。「如何に相手を油断させるか」。そう…私の出番だ! 私は相手を油断させるにはもってこいの存在だ。
プロのアタックが収まったところで私がアタックし、逃げる!プロは油断し、誰も反応しないだろう。私はそのうちに逃げまくる。逃げ切ってしまえば我々の勝ちなので、プロは痺れを切らして追い始める。そこに便乗していた中川選手が最後に爆発するという作戦だ! 頭脳派の宮澤さんらしい見事な作戦だ。
見事に決まった“おとり”作戦
かくして、プロに勝利するという限りなく無謀に近いミッションがスタートした!
エキシビションなのでゆっくりと始まるかと思いきや、いきなり佐野淳哉選手(当時マトリックスパワータグ)が爆弾アタック! 近くで見るととんでもない迫力だ! あっさりと1ポイントを献上してしまった。しかしこれは想定内。我々は落ち着いて「その時」を待つ。
プロが2ポイント目を上げて一瞬緩んだ瞬間に、宮沢監督から「猪野さん、今です!」の掛け声が─。遂にその時が来た。作戦開始だ! “山おろし”を利用して猛烈にアタック!… と行きたいところだが、バンクの上部はプロが占領していてバンクの中腹からの山おろし。何ともキレの悪いアタックだ…。
しかしこのキレの悪さからか?プロは予想通り、誰も反応しない。期せずして見事に作戦通り。後はプロが痺れを切らすまで逃げるのみ!
客席から歓声が湧く。カクテルライトの光線が眩しい。実況のアナウンサーが「坂バカ猪野が動いた!」と叫んでいる…まるで一流のアスリートになったかのようだ。会場の大型スクリーンには逃げる私の勇姿が写し出されている。猛烈にカッコいいではないか! 残り半周。半周逃げ切れば私は英雄!「坂バカ歴史的勝利!」と翌朝のスポーツ紙の一面を飾るだろう。
と妄想が頂点を迎えた瞬間、新幹線の通過待ちの時の様な風圧が私を襲う。瞬殺だ…プロが踏んだら瞬殺だ。ものすごい勢いで集団が駆け抜けていった。
するとそこから中川選手がけ出す姿が見えた! そして中川選手はものすごいスプリント力でそのままゴール。何と私の坂バカアタックの“おとり”により、我らがチャリダーチームが勝利することとなった。
歓声を浴びながらのウイニングラン。こんなに気持ちの良いことはない。エキシビションといいながら、結構本気のレースだったのではないだろうか?
幻と化した勝利
これは放送日が楽しみだ。さぞかしカッコいい編集になっているだろう。美味しいおつまみを用意してわくわくしながら放送を観る。いよいよレースが始まり私のアタックのシーンになった。どれだけカッコ良く写っているのだろうか…思わず1人ニヤけてしまう。
後方の車載カメラが私のアタックしたシーンをとらえていた。いい編集ではないか! しかしその映像をよく観て愕然とした。私がアタックした瞬間、皆んながケイデンスを緩めているではないか!!
なんやこれっ!! めちゃくちゃエキシビションやないかいっ!! 何度も巻き戻して観ても確実にプロの方々は忖度しスローダウンしている。そう!私は完全に手のひらで転がされていたのだ。
よく考えたらそうだ。プロフェッショナルな方々がアマチュアの、しかも俳優相手に本気で走るわけがない。しかし一生の思い出となる貴重の経験をさせて頂いたではないか。ありがたいことだ。
今でも瞼を閉じるとオーロラビジョンに映る、眩しいカクテルライトを浴びてアタックする私の勇姿が思い浮かぶ。沸き立つ歓声、叫ぶ実況。妄想と現実のはざまで…私は今日もペダルを回すのであった。
(写真提供:猪野 学、テレコムスタッフ・NHK)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:25)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ」