title banner

連載第3回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第3話「ツーキニストデビュー」

  • 一覧

 翌朝、雄一はシャッターが閉まったフォルゴーレの前で桜子を待っていた。腕時計を見るとまだ6時45分。約束の時間まで15分ある。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

柏木恋:桜子の親友。雄一とは同じ部署。桜子のお下がりのクロスバイクを使っている。

サイクルフォルゴーレの店長:雄一のサイクルライフを手助けするプロフェッショナル。「アウター×トップ」から引き続き登場。

加藤:サイクルフォルゴーレの常連

 公園の緑は濃く、空に薄く雲がたなびいている清々しい朝だ。こうして女子を待つのは中学時代以来となる。高校時代に機会がなかったのは自転車通学の距離が長かったためで、最後に異性と縁があった大学の時は時間が合わなかった。それに気づき、時が経つのは早いと愕然とした。気を取り直して自動販売機でアイスコーヒーを買い求め、プルトップを上げる。それを飲み干したその時、ディスクブレーキの摩擦音がして、雄一は道路に目をやった。

「早いですね」

 ヘルメットにトレーニングウェア姿の桜子がフルサスXCバイクのトップチューブを跨ぎながら、雄一を見ていた。

「女の子を待たせるのは主義じゃない。こんな格好でいいのかな?」

 雄一はフットサルをやっていた時に買ったトレーニングウェアの襟元を引っ張った。裾はチェーンで汚れないよう輪ゴムで止めている。みっともないが、昨夜気がつかなかった自分が悪い。

「ええ。その内、インナーが欲しくなるかと思いますが、最初はそのくらいで十分じゃないですか? スーツは?」

 雄一は背負っているボストンバッグを指した。スーツを持ち込めば明日からはデイパックで済むだろう。

「ボディペーパーとか持ってきました? 汗かきますよ」

「そこまで考えてなかったな。途中でコンビニに寄ってよ。買うから」

「タオルの予備は持ってきてあります。今日は初日ですから、ゆっくり行きましょう。今からならコンビニに寄っても十分、間に合いますから」

「宜しく頼みますよ。先輩」

「イヤだなあ。佐野倉さんの方が先輩じゃないですか」

「でも、ツーキニストとしては山下さんの方が先輩だから」

「殊勝な心がけですね。では行きましょうか」」

 桜子は照れ笑いをしつつ、バチッと音をさせてペダルをはめた。

「ビンディングなんだ?」

「慣れると楽ですよ」

 そして桜子のXCバイクが動き始め、雄一もヘルメットを被り、後を追った。まだ数百メートルしか走っていないから前傾姿勢に慣れていない上、ギア操作もあやふやだ。シフターをガチャガチャと操作しながら新大橋通りに差し掛かり、信号で止まった。

「私の場合、信号で止まりそうな時は2枚ほど軽くしますけど、普通はギアを頻繁に変えなくてもいいんですよ」

 桜子が振り返った。

「出だしが軽くなるから?」

「正解」

 そう会話を交わしているウチに、左右の歩行者用信号が点滅を始めた。

「さあ、行きますよ。自転車は車道、左側通行遵守です」

「こんなに交通量が多いのに?」

 雄一にとって自転車は歩道を走るものだが、最近は路肩に自転車マークと矢印があるところも多いから、自転車が左側通行なのは知ってはいた。

「でもそれが交通ルールなのです。路上駐車があると危険なのは間違いないですし、路肩にゴミが多くて危ないのもあります。もっと環境整備が必要ですよね」

 信号が青になると桜子は走り出し、左腕を横に水平に上げ、新大橋通りを左折した。

「手信号とは懐かしい。小学校で習った気がする」

「あと、『止まれ』とか、『注意』とかありますから」

「それもなんとなく覚えている」

 前を走る桜子の声は聞こえにくいが、大通りで並行して走るのは大変危険だ。前を走る彼女にしても滅多なことで正面から目を離せない。2台の自転車のすぐ脇を自動車が追い越していくが、最近は通勤自転車が多いからか淡々と抜かしていく。取り締まりが厳しくなったからか路上駐車も少ない。ただ、車道側に膨らまないように注意が必要だ。それにしても彼女はゆっくりと言っていたものの、久しぶりに自転車に乗る雄一にとってはついていくのがやっとの速度域だ。

 しばらく走っているとまた赤信号になり、桜子は右手をお尻の前に持ってきて『止まれ』の合図をした。そして彼女は左脚の足首を捻ってビンディングペダルを外し、縁石に足を掛けて止まった。雄一の方はフラットペダルだが、ペダルからスパイクが突き出ていて固定感がある。

 サイクルコンピュータを見ると速度のほかに時刻も表示されていた。まだ7時になっていない。8時半の始業には着替え時間を考えても余裕がある。信号が青になり、再スタートする。スピードは徐々に上がっていき、20キロ台半ばまで到達したところで船堀橋前の交差点で赤信号に掴まった。そして桜子が振り返って道順の説明を始めた。

「船堀橋を右岸まで渡ったら、荒川サイクリングロードを京葉道路まで北上します。そして京葉道路で都心まで行く、と」

 雄一は頷いた。職場は飯田橋周辺にある。交差点を渡りきり、船堀橋下の階段通路を押して橋の上に出る。首都高船堀出口を通り過ぎると荒川右岸へ下り、サイクリングロードを北に走る。その間に意外なほど多くの自転車が河川敷を走っていることに気づいた。

「朝から大勢いるなあ」

 言っている側からロードバイクが抜かしていった。時速25キロ前後で走っていても、ロードバイクには抜かされる。興味深く思い、雄一は前後に自転車を探す。ママチャリ以上にスポーツ系自転車が多いのは、ここならではだろう。

「通勤時間をトレーニング時間に変換できるなら、みんなやるでしょう」

 前を行く桜子が大きな声を出して答えた。「佐野倉さんは今まで通勤電車の中で何をしてました?」

「携帯端末でゲーム、が多かったかな」

「何かそれ、意味がありましたか?」

 今、自分は肺が悲鳴を上げながらも、気持ちよく汗をかいている。ゲームで時間を潰すだけの通勤時間とは雲泥の差だ。人間は身体を動かすのが自然だと思える。

「なるほど。ごめん、ちょっと、山下さんはペースが速いかな」

「重いギアを踏んでいるんでしょう。もっと軽くして、早く回すんです。そうしないと疲れるのが早いし、競輪選手みたいに足が太くなってしまいますよ」

「そうなの?」

 確かに、追い抜いていくロードバイクと桜子は足をくるくると早く回していた。雄一は手元のシフトレバーを操作し、リアを2枚軽くして、その分、早く回してみる。すると最初は苦しく感じたが、足から疲労が抜け始めたような気がした。

「重いギアを踏むと筋肉はすぐに疲れるんですよ。踏むのではなくて早く回す方が疲れにくいんですね。脚って人体の中でも大きな部分を占めるので、その重さでペダルを回すんです。足を落とすイメージがいいかな。その分、筋肉を使わなくて済むって訳で」

「なるほど。そう説明されると納得だ」

 一般車で自転車通学をしていた時もペダルを早く回していたから、今でもさほど苦にならない。

「その分、心臓と肺に負担がかかりますけど」

「通りま~す」

 後ろから声を掛けられ、桜子と雄一はサイクリングロードの左端に寄る。すると2台のロードバイクがさっと抜き去り、桜子と片手で挨拶をかわした。

「ああやって声を掛けてくれるといいんですけどね」

「うわ、速い。しかも後ろの子、女の子じゃないか?」

「ちなみにフォルゴーレの常連さんですよ。女の子だってロードバイクに乗れるし、私みたいにMTBもやれるんです。こういうのに男も女も関係ないと思いません?」

「やる、やらないについては、全く関係ないだろうね。考えるのも馬鹿げている」

「そう言って貰えると嬉しいです」

 桜子は後ろを走る雄一には聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。

「少なくともこの1週間くらいは僕も頑張ってみよう」

「ハードルとしては低過ぎません?」

 桜子は爆笑した。

「そんなこと言ったって、未来のことなんだから分からないじゃないか」

「1週間くらいなら、おつきあいしますよ」

「そんな無理しなくても良いよ。女の子には色々都合もあるだろうし、毎日自転車通勤ってわけじゃないでしょう?」

「いえ、実はほぼ毎日自転車通勤なんです。私、いつもならもう3キロほど北に余分に走るんですよ。通勤だけだと距離が足りないので。おつきあいしますって言うのは単に遠回りを休むって意味なんですよ」

「ええ? 昨日調べたら会社まで14キロあったけど?」

「いつの間にか走り足りなくなって……学生の時はこんなに運動してなかったんですが」

 桜子は苦笑して、少しだけ振り返った。

「お仲間になってくれそうな人が現れて、正直、楽しくなりそうだなと感じているんですよ。1人だと挫けそうになる気持ち、今でもありますし」

「僕の方は実績も無いし経験も無いし、先に挫けそうだから力になれないかもしれないけど、しばらくは頑張るよ。10万円を無駄にしたくないし」

「その心意気です!」

 雄一は苦笑した。

 小松川橋に至り、車止めを越えて京葉道路に入り、自転車レーンを通って亀戸へと抜ける。錦糸町からは自転車レーンがない。信号も多くなり、マナーが悪い自転車が目に付くようになるが、桜子は信号を守る。ルールを遵守する彼女は正しいし、信号待ちで息を整えられる。隅田川を越えると国道6号線との合流地点で信号のタイミングが悪くなるが、そこ以外はスムーズに九段下まで来られた。まだ8時前で、着替える時間は十分にあった。コンビニに立ち寄り、雄一はボディシートとスポーツドリンクを買い求め、イートインコーナーでキャップを捻り、一気に飲み干した。

「大丈夫ですか?」

 桜子は余裕がある感じで、カップのカフェオレを飲んでいる。

「かろうじて生きている感じ」

 桜子は嬉しそうに笑う。

「僕、なんか可笑しいこと言った?」

「いいえ。少しも。生きているって思えるのって、いいことですよね?」

「うん。言われてみれば」

「佐野倉さんにいいことがあって、私も嬉しいかな、なんて思ったりして」

 桜子は小さく、愛らしく首を傾げる。

「案内して貰って助かったよ。1人だったらどうなっていたことか。でもさ、親切にして貰えて嬉しいのは確かだけど、僕、特に期待はしていないから安心して欲しいんだ」

 雄一は素直に思っていることを口にし、桜子は不思議そうに眉を下げた。

「期待?」

「上手くやれば君と恋愛関係に発展するかもって期待さ。山下さんは美人だもの。男なら誰でも考えると思うよ。でも、君が僕に親切にしてくれているのは、自転車乗りが増えるのが嬉しいからってことは分かる」

「私、そんなにモテるわけじゃないですけど、お気遣いに感謝です。私が恋愛感情を持っているから親切にしているんだとか思われて困るのも確かだし。今の私、仲間が増えて単純に嬉しいんですよ」

 雄一は苦笑した。微かにでも期待していないと言ったら嘘になるが、それでも気持ちを素直に口にしたことですっきりした。

「じゃあ、1週間は自転車通勤を頑張ろう」

「寂しいこと言わないでくださいよ」

「ははは」

 今度は心から笑えた。こんな前向きな会話ができるだけでも自転車に投資した甲斐がある。

「自転車通勤を続けるなら、ウェアをどうするかが問題だよな。やっぱりサイクルウエアがいいの?」

「当分は量販店のスポーツ系のとかでいいと思いますよ。ただ、インナーは別です。股が擦れて痛くないですか?」

「多少は……」

 このサドルに慣れていないせいか一般車のそれより固いからか、痛みを感じていた。

「専用のインナーだとパッドがついていて、痛みが緩和されるんですよ。私も今、履いていますけどね……見せませんよ」

「どうして反応に困るギャグを言うかな」

「私的には笑ってくださればいいんですけど。痛いと言えば、首と肩が痛くないですか?」

「うん。すごく肩が凝っている」

 言われて見れば首の後ろが痛み始めていた。

「XCバイクだとどうしても前傾姿勢になるので、前に出た分、頭の重さを首で支えないとならないんです。普段は使っていない筋肉だから、どうしても筋肉痛になるんですね。こればかりは筋肉がつくまで耐えて貰わないとならないのです」

「じゃあ筋肉がつくまで頑張るよ」

 雄一は首と肩を揉みながら答えた。

 息が落ち着いた頃、2人はコンビニを後にした。幸い、会社の前には有料の自転車置き場がある。桜子と雄一は並んでそれぞれの自転車を停めた。重いU字ロックの出番が来たと、雄一は汗を拭う間も惜しんでがっちりとロックを掛ける。新車を盗まれたらショックは大きい。2人が通用口から社屋に入ると初老の警備員が珍しい取り合わせだといった風に見た後、挨拶をする。

「おはよう、桜子ちゃん、通勤仲間ができたの?」

「さて、どうでしょう。長続きしてくれますかね?」

 桜子は意地悪そうな笑みを浮かべ、雄一を振り返る。彼はいまだ汗だくだ。

「こうなりゃ意地です」

 雄一は平静を装ってニッと笑って見せた。

「お兄さんも無理しないでね」

 警備員はエレベーターのボタンを押してくれた。更衣室がある階で2人は下り、桜子がタオルを雄一に手渡した。

「はい。持ってきてないんでしょう?」

 ボディペーパーでは髪は拭けない。しかしタオルよりずっと必要なものが、今の彼にはあった。雄一は意を決して口を開いた。

「ありがとう。ところでさ」

 雄一は胸を躍らせながら続けた。「連絡先を交換してくれないかな。知らないともし朝、何かあっても連絡ができないし」

「あ、そういえばそうですね。はいはい」

 交換はすぐに済み、雄一は安堵した。

「帰りの時間はお互い違うでしょうから、また明日の朝、走りましょうね」

 桜子は笑顔でそう言い、更衣室のドアの向こうに消えた。彼女と一緒に走れるのなら、自転車通勤も長続きすると思う。今日以前にこんな充実した気持ちになれたのはどのくらい昔のことだろうか。雄一は男子更衣室で全身の汗をボディペーパーで拭き、スーツに着替える。首と肩の筋肉が張っている。湿布が欲しい。昼休みに買いに行こうと決め、雄一は人事部のフロアに向かう。

 午前中の仕事をてきぱきと終わらせると、いつもより早く昼休みになった。廊下に出ると柏木とお昼を食べるためか桜子が来ていた。彼女は雄一を見て小さく手を上げるだけで会話はかわさなかった。

 雄一は社屋から出て、駐輪場に止まっている自分と彼女のXCバイクを眺めた。

「お前らの方が、距離は近いな」

 メーカーも同じなら作られた目的も同じだ。雄一は2台のXCバイクを羨ましく思いつつ、湿布を買いにドラッグストアに向かった。

 翌朝も桜子と待ち合わせ、自転車で会社に向かった。正直、翌日が休みでなかったら走りきれないと分かるほど、身体の節々が痛かった。それでも彼女が先導してくれたお陰でどうにか会社に辿り着いた。帰りはへろへろになりながら寮に帰り着いた。走り切れたのは自転車通学をしていた時の貯金だと考えられた。ネットで筋肉痛について調べると、ストレッチをしないと筋肉が固くなるし、疲れも抜けにくいとあったので、効くというストレッチを30分ほどした。確かに楽にはなった。

 土曜日は昼過ぎまで寝ていたが、起きてまたストレッチした後、XCバイクにまたがり、午後には店に向かった。店長は雄一が自転車通勤にチャレンジしていると聞くと、嬉しそうに笑った。

「ところで彼女、来てます?」

「もうじき来るんじゃないかな」

 店長は店の外を眺めたが、彼女のバイクが現れる気配はなかった。雄一は自販機で缶コーヒーを買い求め、軒先に用意されている椅子に腰を掛けた。

「来週も一緒に走ってくれるって言っていたしな」

 そう独り言を言いつつ缶に口をつけると、ディスクブレーキの音がした。

「こんにちは、佐野倉さん」

 雄一が面を上げると、愛車に乗った桜子がいた。今日の彼女はサイクルウエアでビシッと決めていた。彼女はバイクスタンドに愛車のサドルを引っかけ、ボトルホルダーに入れてあった赤いボトルに手をやって2、3度振ったが、どうやら空らしかった。

「飲み物くらい奢るよ。それくらい罰は当たらないだろ」

「ごちそうさまです」

 にこにこしている桜子に、自販機で買い求めたスポーツドリンクを投げ、桜子は上手くキャッチする。雄一は再び椅子に腰を掛け、桜子も隣の椅子に座ってキャップを捻った。

「今日はどこまで走ってきたの?」

「岩淵水門です。往復で40キロくらい?」

 桜子はスポーツドリンクを一気に半分くらい飲み干した。

「そりゃタフだ。僕はなんか足がパンパンで、今日は階段を上るのも辛いのに」

「休むと筋肉が超回復しますけど、本当は少し脚を回した方が回復が早いんですよ」

 雄一は感嘆するしかない。

「どうして山下さんは休みの日もこんなに走るの?」

「常連さんからレースに誘われてしまいまして。中途半端だったら恥をかくと思ってやっているんですよ」

「レース? それが王滝とかって奴?」

「それそれ。セルフディスカバリーって言って、レースではないんですけど順位がありますし、レースと言ってもいいんじゃないかなあ、と。9月の連休だから、まだエントリー間に合いますよ。佐野倉さんもどうです? 練習に張りが出ますよ」

「今は全身筋肉痛でまともな返答ができないよ」

「はは。ですよね。私もエントリーしてちょっと後悔してますし」

 雄一が少し安心して笑みを浮かべたところで、店内から店長に声を掛けられた。

「桜子ちゃん、佐野倉さん、来週の日曜日、空いてる?」

「ええ。私は。佐野倉さんは?」

「なんにも用事ないですが」

 それは毎週のことではある。

「じゃあ加藤くんたちが万源山に行くって言っているから、一緒に行ってみない?」

 店長の申し出に桜子は大きな声で答えた。

「行く行く!」

「え、山、ですか、初心者の僕でも大丈夫なんですか?」

「私も行ったことがある山ですけど、危ないところはない、と思いますよ。だから安心して行ってきてください。ただ、全部上りも自走だから、体力は必要だね」

 店長はニヤリと笑った。初心者に洗礼を浴びさせようというのだろう。しかし桜子は自信たっぷりに答えた。

「私は自走、大歓迎です」

「桜子ちゃん、やっぱり頭おかしい」

 笑う店長に、雄一は訊いた。

「自走って、どういう意味ですか?」

「そりゃ山の頂上まで自転車を押して、担いで行くってことさ。車で上げられる山もあるんだけどね」

「――マジっすか」

 それは体力的に厳しいことになりそうだ。下るためだけに、わざわざ自転車を担いで山を登るわけだから、頭おかしいと言うのも分かる。

「佐野倉さんも行きましょうよ!」

 満面の笑みで桜子にそう言われ、断る選択肢が消えた。

「う、うん」

「じゃあ決まりだ。車の手配もしようかね」

 そう満足げに言い、店長は店の中に引っ込んだ。

「やったあ。山、久しぶりだなあ」

 喜んでいる桜子を見ていると自分も行きたいと思えたし、また、紅一点で桜子が行く可能性を考えると是非とも行かねばならないと考えた。

「行く……けど、お手柔らかにお願いします」

「大丈夫ですよ。万源山は初心者の私が初めて行った山ですから」

 そして桜子は自信たっぷりにサムアップした。全くの初心者で本当に山に行けるのか。何事もなく帰ってこられるのか。無事行って帰ってこられたところで彼女に幻滅されないか。そんなことを考えながら、雄一は愛車となったXCバイクに目を向ける。試練は唐突にやってきた。ここは気合いを入れてその日だけでも頑張る他はないと決意を固めた。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

この記事のタグ

神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

新着ニュース

もっと見る

ピックアップ

e-BIKE最新特集

スペシャル

自転車協会バナー

ソーシャルランキング

インプレッション

インプレッション一覧へ

連載