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連載第2回(全21回)MTBウェブ小説「インナー×ロー」 第2話「出会い」

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 雄一は人事部に所属し、主に給与の支払いを担当している。ソフトウェアに強かったこともあり、仕事には恵まれたと思っていた。午前中の仕事はそれなりにこなし、昼休みに自席で仕出し弁当を食べながら、出社前にコンビニで買った自転車雑誌を眺める。記事のほとんどはロードバイク関連で、MTBは小さい扱いだ。

■あらすじ

 佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。27.5インチハードテール。

山下桜子:部署は違うが雄一の同僚。自転車乗りとしては先輩なので何かと世話を焼く。意味ありげな言動が多い。27.5インチフルサス。

柏木恋:桜子の親友。雄一とは同じ部署。桜子のお下がりのクロスバイクを使っている。

サイクルフォルゴーレの店長:雄一のサイクルライフを手助けするプロフェッショナル。「アウター×トップ」から引き続き登場。

加藤:サイクルフォルゴーレの常連

「MTBに興味あるんですか?」

 耳慣れない女の子の声がして、雄一は振り返った。昼休み時間によくこのフロアに顔を出している部署違いの子が立っていた。整った顔立ちなので彼の記憶にも残っていた。

「昨日、試乗しそこねたんだ。それでも折りたたみとクロスバイクには乗った」

 雄一は彼女を見上げた。黒い髪を結い上げ、ナチュラルメイクだが、顔立ちが整っているのでそれだけで十分魅力的だ。身長は高め。恐らく雄一と拳一個分も変わらないだろう。

「じゃあ、今度はMTBにも乗りませんか。きっと気に入りますよ」

「さくらこ! 何してるの? こっちこっち」

「あれれ、れんちゃん、もう廊下に出てたんだ?」

 雄一の同僚、柏木恋の声が廊下から聞こえて来て、女の子は大慌てで去った。雄一は記憶を遡り、2年前だったか、可愛い子が入社したと彼女が話題になったことを思いだした。そしてPCをスリープから復帰させ、社内メールの名前検索を実行してみた。

(さくらこ……山下桜子、ね)

 雄一は脳裏で名前を言葉にし、再び弁当に手を付けた。

 雄一が九段下から電車に乗り、一之江で下りてフォルゴーレの前に着いたのは夜8時。閉店時間だが、暗い住宅街の中、店だけが煌々と輝いていた。中にはまだ常連客がおり、店頭の一般車も片づけられていない。

「お待ちしていましたよ」

 店長が店から出て来て雄一を出迎えた。

「え、僕を待っていたんですか?」

「この商売しているとだいたい大体分かるんですよ。試乗の準備をしてあります。幸いお客様の身長に合うXC(クロカン)バイクです」

 そして1台のハードテールを持ってきてくれた。

「スポーツバイクだと身長に合ったサイズがあるんですね」

「お勉強されました? サイズは重要ですよ。これはアルミでも軽量化してあるので、ちょっとパーツを替えてそれなりにセッティングをすれば、レースにも出られますよ。この値段で油圧ディスクブレーキですしね。まあ、今はフロントシングルが主流なので、これがフロントダブルなのが後で気になるかもしれませんが……」

 説明の後半は意味が分からなかった。既にMTBにはLEDライトが取り付けられている。準備万端だ。ペダルを踏む。クロスバイクと比べてタイヤが太いために最初は重く感じるが乗り心地はいい。フロント・サスペンションが衝撃を吸収しているのも分かる。一度スピードに乗せてしまえばデメリットは感じない。

「いいじゃないか、これ」

 この乗り心地は雄一の感性に響いた。それに昼間の彼女も勧めていたじゃないか──そう思った時、交差点に差し掛かり、その数秒後、左から来る影に初めて気がついた。

 反射的に右にハンドルを切ったが、雄一はバランスを崩して倒れ込んだ。足が挟まれて痛みを感じると同時に、ガシャン、と車体がアスファルトに叩きつけられるのが分かった。それでもどこか冷静さが残っており、雄一は動く影を目で追った。それは無灯火の一般車で、しかも片手で携帯端末を操作していた。乗り手は彼を一瞥しただけで、そのまま逃げ去った。酷い奴だ、と思いつつ、痛みに耐えてXCバイクを引き起こすと、店長と加藤が走ってくるのが見えた。

「大丈夫ですか?」

「怪我はない、と思います」

「オレ、追いかけて文句言ってきますよ!」

 憤慨する加藤を店長が押しとどめた。

「危ないから止めておけ。それよりお客様に怪我がなくて本当によかった」

 店舗に戻ると、バイクのフレームに細長い傷が入っていることが分かった。暗いところでは分からない程度だが、傷は傷だ。雄一は自責の念に駆られた。

「夜なのに、自転車に不慣れなお客様を乗せた私が悪かったんです」

 店長は雄一の鬱めいた表情を読んだのだろう。

「お客様は気にせず、十分検討してご自分のバイクを選んで下さい。もちろん検討の結果、当店で購入されなくても結構ですよ」

「そんなこと言われても気になります……」

 雄一は露骨に眉をひそめた。嫌な気分になっている時、人間は自然と眉をひそめるものだと自分でもびっくりした。

「でもそれ、乗っていて気に入ったんです。値段はどのくらいで?」

「今シーズンも終わりですし、試乗車ですし、傷ありってことでお安く出しますね。メーカー希望価格ベースで14万円弱。2割引いて、傷ありってことでまた引いて、10万円きっかりで、プラスしてヘルメットとか何かをオマケにつけるって感じですかね……」

「実はもう買う気でいたんですけどね……なんか僕が傷を付けたのにそう言われると逆になんだか申し訳ない気分になってきますよ」

 それは本当だ。予算にも収まるし、どうせ走っている内に傷を付けてしまうものだろう。

「やっぱりもう少し考えましょうよ。そもそも自転車を買うまで熟考することが楽しいものです。こんなアクシデントで決めてしまうのはもったいないと思いません?」

 商売っ気がないと呆れつつも、雄一は店長の誠意を感じ、頭を下げ、よく考えてからまた来ます、と言い残して寮に帰った。

 翌朝、雄一はいつものように出勤し、午前中の仕事を少し早めのペースで片付けた。やはり昨夜のことが気になって仕方がなく、店に行ってさっさと決めてしまおうと考えたからだ。昼飯を食べようと、仕出し弁当を給湯室に取りに行った後、昨日、少し話をした女の子、山下桜子と廊下で鉢合わせた。

「あ、佐野倉さん」

「なんで僕の名前知ってるの?」

「人の顔と名前覚えるの、得意なんです」

 それは羨ましい、自分とは正反対だと思いつつ、彼女の顔を見る。やはり美人だ。

「これ、上げます。家に置いておいたんですけどもういらないので。付箋がついているところを見てください。私のお勧めです」

 そして紙の手提げ袋を雄一に押しつけた。中には自転車メーカーのカタログが数冊入っていて何カ所か付箋がはみ出ているのが見えた。

「自転車のセールス?」

「自転車乗りには他人に自転車を勧めたくなる呪いが掛かっているのです」

「やっかいだな。でももう買うバイクは決めたんだ」

「どこで買うんですか? お店は家の近くがいいですよ。整備の都合もあるし。家って、寮でしたっけ」

「あ、うん。店は寮の近く。買うのはこのメーカーのXCバイク」

 そして手提げ袋からカタログを取り出して、傷を付けてしまったXCバイクを探すと、ちょうどその頁に彼女が付けた付箋が張られていた。付箋には『おススメ! です!』と可愛らしい文字が記されていて雄一は苦笑し、桜子が膨れた。

「どうして笑うんですか」

「山下さん、美人なのに女子高生みたいな可愛らしい字を書くんだなあと思って」

 意外にも彼女は言葉を失っていた。実際美人なのに言われ慣れていないのだろうかと首を傾げているとようやく答えが返ってきた。

「――佐野倉さんの方こそ、どうして私の名前を知ってるんですか?」

「昨日、柏木さんに名前を呼ばれてたから苗字を調べた」

「あ、そう言えば、れんちゃんのこと、すっかり忘れてた……」

「いや、私のことは気にせずにどうぞ続けてください」

 柏木はフロアカウンターの前で彼女を待っていた。

「ここで話していたらお昼を食べ損ねちゃうよ。カタログありがとう。参考にするよ」

「パーツカタログも入っていますから見ておいてくださいね」

 そして柏木さんと2人でエレベーターホールに消えていった。

 手提げ袋はずっしり重く、よく持ってきたものだと感心しつつ自席に戻る。そして弁当を食べながらカタログの頁をめくる。100万円以上する高級バイクもあれば、長距離を移動する旅行用のバイクもある。自転車の世界は広い。なのにどうして自分がMTBに決めたのか、それはやはり第一印象だったのだろう。しかしそれ以上に彼女に勧められたからかもしれなかった。

 何か物事を始めると今までと何か違ってくるらしい。そう雄一が実感したのはアフター5に桜子の姿をフォルゴーレの店先で見つけた時だった。

「佐野倉さ~ん! 遅いですよー」

 彼の姿を見つけ、桜子が大きく手を振っていた。彼女はトレーニングウエアに、背中にデイパックを背負ったスタイルだった。

「この店のお客さんだったんだ?」

「ええ。私は会社借り上げのアパートに住んでいるんですけど、やっぱりこの辺なんですよ。不動産屋の都合ですかね」

「けど、もうここに着いてるなんて……今日は終業後すぐに会社を出たのに」

「都内では自転車の方が速かったりするのですよ」

 桜子は得意げだ。なるほど。そんなに速ければ自転車通勤にする意味がある。

「お客さん、桜子ちゃんの会社の人だったんだ?」

 店長が店の中から出て来て、雄一と桜子を交互に見た。

「今日、昨日と自転車のセールスをされました。でもここで会うとは思わなかったな」

「ヒントをあげてたのに、それはないと思いますけど」

 桜子は雄一が持っている紙袋を指さした。カタログを取り出して裏表紙を見ると、販売店の欄にフォルゴーレのスタンプが押されていた。「寮の近くでスポーツ車を買うってのなら、ここしかないでしょ? 私も近くがいいって勧めたし」

「なるほど」

 雄一は笑った。自転車を買わせようとする以外の意図はなさげであっても、美人に気に掛けて貰えているのは嬉しかった。「店長さん。オレ、昨日のXCバイクで決めましたよ」

「え、いいんですか?」

「いいんです。これも縁でしょうから」

「ちなみに私のバイクはあの子です」

 そして桜子は店頭の、サドルを引っかけるタイプのバイクスタンドに目を向けた。そこには高価そうなフルサスXCバイクバイクが掛かっていた。「メーカーは佐野倉さんが買おうとしているバイクと同じですよ」

「値段、倍以上違いそう……」

「そんな感じですね。桜子ちゃんも最初はクロスバイクを買って、結局、これに乗り換えたんだよね」

「常連のみなさんが山に行ってるのが楽しそうだったので、型落ちだから安くして貰っちゃったけど、それでもあの子と周辺アイテムにボーナス全部突っ込んじゃいました。こう、トップチューブが真っ直ぐなのがいいですよね。びしっとスタイルが決まるっていうか」

「長く乗るためにはバイクの外見は重要だよね。気に入ったのが一番だよ。うん。そうそう、タッチペイントしたから傷はだいぶ目立たなくなったと思うんだけど、見てくれないかな」

 そう言うと店長は店の奥に引っ込んだ。

「山下さんは1台目はどうしたの? アパートにあるの?」

「れんちゃんのところにお婿に行ってます」

「ああ、柏木さんね。乗っているのかな」

「さあ、余り聞きませんけど、買い物に行くのは楽だって言ってましたね」

 自分は絶対に長く乗ろうと決心し、雄一は店内に入った。昨日試乗したXCバイクは作業スペースのスタンドに掛けられて整備を終えており、丁寧にタッチペイントがされて、傷が目立たなくなっていた。

「どうせ山に行ったら傷が付くものですし、こんなところじゃないですか? 私の知り合いなんだから、おまけしてあげてくださいよ」

 桜子が店長に、どことなく偉そうに言った。

「桜子ちゃんに言われたら仕方ないなあ。もうちょっとおまけするか」

 店長は処分品の棚から小さな携帯ポンプと大きなU字ロックをカウンターに持ってきた。

「あと、昨日言ったとおり、ヘルメットと携帯ポンプもお付けして10万きっかりにしましょう」

「そんなにおまけして貰って貰って良いんですか?」

「でもまだ買わなければならない物はあるんですよ。このバイク、ペダル別売りでしょ? それに替えのチューブやタイヤレバー、六角レンチと泥よけ。レインウェアとかグローブとか。忘れてはいけないのは前後のライト! サイクルコンピュータは通勤に使うなら必須。やる気が出るし、ペースも分かるし。ケイデンスが分かるともっといい。あ、ケイデンスって回転数のことです。車で言うタコメーターかな。自分がサボってないか分かるし、いいですよ」

「桜子ちゃんは自転車屋の営業に向いているんじゃないの?」

 店長が笑う。

「最低限必要なものから買っていきます。まず、ペダルですね」

「ペダルは中古でいいなら今付けてあるのをサービスしておきますよ。ビンディングにするかフラットペダルにするか、最初は悩むところですしね」

 ちなみに今ついているのはスパイクがついたごついペダルだ。

「ビンディングって、ペダルに足を固定する奴ですよね」

 雄一もビンディングそのものはスノーボードで経験済みだ。

「それは慣れてからでいいと思いますよ。よく調べて、よく考えてください」

「私もいろいろ相談に乗れますよ」

「初心者が言うようになったね、桜子ちゃん」

 また店長がツッコミを入れ、2人して笑った。結局、雄一は桜子がいう“最低限”必要なモノを買うことにした。

「スタンドは?」

 精算を済ませて持ち帰る直前、雄一は声を上げたが、桜子は悠然と首を横に振った。

「スポーツ車にスタンドは邪道です」

「でも不便……」

「不便は承知で付けないのです。山では付けていると危ないですし、その分、車体が重くなります」

「実際はケースバイケースです。桜子ちゃんは会社の自転車置き場に前輪を固定できるから要らないんだろうけど、必要な方も大勢いると思いますけどね。実際、センタースタンドがあると街中だと凄く便利だし」

 店長は苦笑した。

「とりあえず僕の場合、会社に行く時はスタンドが要らないわけね」

「そうだ。じゃあ、私、明日、会社まで道案内しますよ」

「なんだって? 自転車通勤デビュー確定? しかも明日から?」

 桜子は笑って店先のバイクスタンドへ歩いて行き、振り返った。

「平日も乗らないと損ですよ。じゃ、また明日。7時にここで。約束ですよ」

 そして彼女はフルサスバイクにまたがり、小さく手を振った後、ペダルを踏み出した。雄一は唖然としながら彼女を見送った。

「彼女とは会社で仲良しなんですか?」

 不意に店長が訊いてきた。

「イヤ全く。一昨日話をしたのが初めてですし。しかも自転車雑誌を眺めていて声を掛けられただけですから」

「それは彼女らしい。美人なのに鼻に掛けた様子もないし、イイ子ですよね。彼女に会いに来るお客さんも大勢いるんですよ」

「分かります。でも会社では普通な感じの子ですよ。自転車の話をしている彼女が異常っていうか」

「やっぱりそこが“自転車”のいいところなんじゃないですか? 趣味繋がりなら男も女も年齢も関係ないですから」

 雄一は納得した。この前、公園で曲芸をしていた人達も年齢はあまり関係ない様子だった。

「けど、このまま振り回されているととんでもないことになるかもしれませんよ。彼女、最近、ガチ競技指向じゃないかと思うところがありまして」

「はあ?」

「彼女、セルフ・ディスカバリー・アドベンチャー(SDA)王滝ってレースに参加申し込みをしてましてね。42kmなんですけど。それにはまれば次は100kmですし」

「言っている言葉が全く理解できません」

「それでいいと思います。もう私もあれは十分です。それより明日、楽しみですね。自転車通勤」

「そういえばそれも彼女に振り回された結果か」

 雄一は思い出し笑いをした。こんな風に笑えるのは久しぶりだ。そして自分のものとなったXCバイクにまたがり、雄一はペダルに足を掛ける。店から寮まで数百メートルしかないが、その距離を確認するようにペダルを1回1回踏む。高級アルミフレームのXCバイクは軽く、力を確実に路面に伝えてくれている。それが嬉しい。自分の気持ちまでバイクがどこかに連れて行ってくれるような気がした。

<つづく>
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

この記事のタグ

神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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