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連載第1回(全21回)新連載ウェブ小説「インナー×ロー」 第1話「ギアが回り始める」

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 神野淳一さんの新作小説「インナー×ロー」の連載が始まります。趣味として始めたマウンテンバイク(MTB)をきっかけに、人と出会い、成長していくストーリーです。毎週月曜に更新で、全21回の連載でお送りします。

■あらすじ

佐野倉雄一(サラリーマン)は突然自分の前から姿を消した恋人の愛車を駆り、彼女が走りたがっていた王滝SDAに参戦する。 彼が自転車を始め、彼女と自転車通勤をし、山に行き、ポタリングをし、恋人同志になり、彼女を失い、喪失感の中、王滝で自分を見つけ出す物語。

■登場人物

佐野倉雄一:アラサー独身のサラリーマン。無趣味だったが、MTBに出会い、サイクルライフをスタートさせる。

サイクルフォルゴーレの店長:雄一のサイクルライフを手助けするプロフェッショナル。「アウター×トップ」から引き続き登場。

加藤:サイクルフォルゴーレの常連

◇         ◇

 どうしてこんな場所で、こんなにも苦しい思いをしているのか、自分でも分からない。佐野倉雄一はバーエンドを握りしめ、数メートル先の荒れ果てた路上を見つめ続ける。タイヤが路面をグリップできるか、その先に大きな岩塊がないか、段差で降車せずに先に進めるかを判断し、大小様々な礫だらけの坂道を、ただひたすらにペダルを踏んで上る。

 未舗装の路面は雨水で抉られ、所々に斜面の崩落がある。人の頭ほどもある岩塊が行く手を半ば塞いでいることもある。傾斜もある。レースが始まり、林道に入ってから1時間が経つが、勾配7、8%前後の坂がずっと続いている。その斜度は人が歩いて上るにしても途中で一息入れたくなるほどだ。いわゆる急坂という奴だ。ふくらはぎと太ももの筋肉が溜まった乳酸を処理できずに悲鳴を上げ、肺が燃えるように熱い。いつ峠を越して下りになるのか、そればかりを考えている。しかし行く手を見上げても目に入るのは山の稜線だ。そしてその緑の稜線の上に幾つもの動く黒点を見つけ、雄一は鈍痛に似た衝撃を頭に受けた。それは先行集団のヒルクライムだった。

(あんなところまで上るのか……)

 ハンドルステムに取り付けたコースマップと高低図を睨みつけて嘆息する。正確には嘆息する間すら惜しいくらい息が上がって肺が熱いため、そんな気になってみただけだったが。まだ10kmしか走っていない。ゴールまであと90km弱。それまで体力が保つのか、それ以前にこの坂を上り切れるのかすら、彼には分からない。

(だけど完走すれば、彼女の気持ちが分かるかもしれない)

 そう自分に言い聞かせ、ペダルを踏む脚に再び力を込める。自然と脳裏に彼女の笑顔が浮かぶ。そしてそれは2人で撮った写真の中に残っている笑顔だった。

◇         ◇

 ここ数カ月、雄一は考え続けていた。大学を卒業して就職し、東京で1人暮らしを始めて6年が経つ。仕事に不満がないと言ったら嘘になるが、世間一般から見れば恵まれている。給与はそこそこ、残業もそこそこ。だがこのまま日常を過ごすだけでは心がすり減りそうな気がする。また代わり映えのない新しい年が巡ってきて、気がつけば春が過ぎ、新緑の季節になった頃、彼はマウンテンバイク(MTB)に出会った。

 たまたまその日は会社を早く上がれ、まだ明るい内に江戸川近くの地下鉄の駅、一之江で下りた。駅から寮までは徒歩数分。その道すがらの公園の中で、曲芸をしている自転車と出くわした。その自転車がいわゆるMTBで、乗り手は前輪を上げたままその場に留まり、跳ね上がって向きを180度変えた。

「おー、すげーな」

 これは危ないと雄一は声を上げたが、乗り手は褒められたと思ったのか曲芸を続け、前輪を軸に更に180度向きを変えた。乗り手は若く、高校生くらいに見えた。少し離れた場所から歓声が聞こえてきた。公園の向かいに大きな自転車屋があり、そこに数人のギャラリーがいた。続いて雄一と同じ年齢くらいの男が公園に乗り出してきて、一旦前輪を上げ、MTBごと高く跳躍した。彼が満足げに笑顔を浮かべて振り返ると、ギャラリーは褒めたたえた。そしてふと気がつけば雄一は自転車屋の前に足を運んでいた。ギャラリーの中には作業エプロン姿の若い男がおり、笑顔でいらっしゃいませ、と言った。

「あれはなんだい?」

 公園の中でまだ曲芸を続けている2台を振り返り、訊いた。

「MTBですよ。山ではなくてこういうところで遊べるように改造してありますけどね。迷惑を掛けていたら申し訳ない。公園から子ども達がいなくなった後に気を遣って遊んで貰ってはいるんですが」

 確かにあんな危ないことができる場所はそうないだろう。

「店長もやろうよ~~」

 公園から若い乗り手の声が聞こえてきた。

「何言ってるんだ。俺は仕事中だよ」

 若いから店員かと思ったらどうやら店長だったらしい。

「どうぞ、見ていくだけでも」

 店長はニッと笑った。部屋に帰っても特にやることはない。だから雄一は、少しだけ寄っていくことにした。店の看板には“フォルゴーレ”とあった。敷地は広く、店頭にママチャリが何十台と並べられ、店内にはスポーツ系自転車も数十台展示されていた。入り口正面にロードバイクが数台置かれており、10万円から100万円台のPOPがついていた。

「こんな高いのも売れるんだ!?」

「ええ。乗り込んで違いが分かるようになってから買われる方が大半ですね」

 次のコーナーをざっと眺めてみると、『クロスバイク』とPOPに書いてあるストレートハンドルの自転車が並んでいた。そのだいたいが5、6万円台だ。

「通勤に使うなら、この辺りで十分ですよ。シンプルですしね」

 店長が彼の背後から声を掛けた。

「値段がけっこう違いますね」

「使っているパーツが違うんです。たとえばフレームはクロスバイクは大半がアルミですが、ロードはカーボンが主流です。なにかスポーツはしていたことは?」

「いいえ。でも、高校の時、自転車通学でした。10kmくらいですか。山がちな土地だったので、いい思い出はないです」

「じゃあ、クロスバイクに乗ったら楽しいと思いますよ。その時の基礎体力が力を貸してくれると思います。職場まで何キロくらいあるんですか?」

「都心で……やっぱり10kmくらいあるんですかね」

「自転車通勤にはちょうどいい距離だと思いますよ。東京は平らですからね」

 運動すれば健康にいいだろうが、5万円は出せない。この店の客にはなれない。そう考えた。それでも隣のコーナーに置いてある太いタイヤを履いたバイクたちが目に入ると、まだ少し店内にいてもいいかという気になった。

「MTB?」

 雄一が店長を振り返ると彼は頷いていた。

「ハードテールですね。対になるのはフルサスです。前のフォークにサスペンションがついているのは共通。後ろにもサスペンションがあるのがフルサス。前しかないから、後ろは硬い――ハードテール」

 奥に複雑な機構がついているMTBが見えたから、それがフルサスなのだろう。

「値段に差があるね」

 この店に置いてあるMTBの場合、7万円台から80万円台までと幅広い。

「MTBの場合、用途が細分化していますからね。高価なのはダウンヒル(DH)用か、軽量化したクロスカントリー(XC)用。どちらもそれぞれのレース用ですね。山用のもありますけど」

「山って……林道とかですか」

「トレイルが多いですね、いわゆる登山道」

 自転車で登山道を走るなんて、意味が分からない。店長は雄一の戸惑いを当然のように受け止めたような顔をして、説明を続ける。

「MTBですと自然の中で遊ぶ醍醐味を重視する人もいるし、人それぞれですね。あと小径車とか折りたたみ自転車もよく出ますよ」

 MTBコーナーの裏にはタイヤ径が小さい自転車が並べられていた。

「タイヤが小さいと段差に弱いし、巡航性能は大きなバイクにはかなわない。でも出足は早いんです」

「こんなに種類があるなんて、自転車の何にそんなに魅力があるんでしょうか」

「魅力は人それぞれが感じるものです。でも、お客様の場合はMTBに興味がありそうな気がするのですけど、違います?」

「そんなことはない、と自分では思うけど……」

「でも、最初に惹かれた感覚って続けていく上で重要なんですよ。そうだ。試乗車に乗ってみます?」

「え、乗れるんですか?」

 雄一は第一印象で面白いかなと思った小径車とやらを試してみる気になり、試乗車の用意をして貰うと店頭の駐車スペースで一通り説明を受けた。

「サドル高くない? 足が着かないよ」

 ハンドルバーを店長に支えて貰い、雄一は不安に思いながら訊いた。

「重要なのは足を伸ばした時の位置とペダルの長さであって、地面ではないんです。足を小さく動かすより、大きく動かした方が楽ですよ。まあ脚の重さの利用が大切でね……って話しても分かって頂けないでしょうからね、試してみます?」

 店長は下りるよう指示し、サドルを下げて雄一の足が着くような高さにした。雄一は今度は安心してサドルに体重を掛け、ペダルを回し、店の前の道路を走った。一般車よりは軽いが、特に速いということはない。

「じゃあ、今度はサドルを戻しましょうか。止まる時は、フレームをまたぐカタチで前に下ります。下りずに道路の縁石に足をかけてもいいですよ。いってらっしゃい」

 店長が雄一の背中を押し、折りたたみ自転車が動き出した。今度は格段に楽にペダルを踏める。足の動きに無駄がなく、自転車そのものも滑るように走ってくれている。その辺を2、3度周回して、雄一は店頭に戻った。

「ママチャリとは違うでしょう?」

 値段の差は感じる。何より軽い。

「次、行きましょうか? クロスバイクがいいかな」

 店長は独りごち、店内に戻った。気がつくと公園で遊んでいた若い乗り手が戻ってきていて、雄一が支えていた折りたたみ自転車を受け取り、大きな声を出した。

「店長、これ、戻しておく?」

「ペダル外しておいてくれ」

 店内から返答があり、若い乗り手は店先に置かれていたレンチでペダルを外した。試乗が多いからか、常備してあるらしい。

「君、店員?」

「いや、単なる常連っすよ。いつも世話になってるから手伝うだけで」

 若い乗り手は手早くペダルを外し、自転車を店内に戻した。常連が店の仕事をするなんて昔ながらの飲み屋みたいだ。店長はすぐにクロスバイクの整備を終えて、バイクを引きながら店頭に戻ってきた。

「折りたたみよりポジションをとりやすいから楽ですよ。今度はもっと遠くまで行って下さい。店の前を走っただけじゃ分からないでしょう」

「じゃあオレ、案内しますよ」

「加藤くん、頼んだ」

 若い乗り手は加藤というらしい。彼は自分のMTBにまたがると先導を始めた。クロスバイクは乗車姿勢が前傾になるようになっており、比較的走りやすかった。

「どうスか?」

 加藤が振り返って訊いた。店の前の通りを左に曲がり、小学校の前を通ると畑が広がり、野菜の即売所がある。地方出身の雄一にとっては懐かしさを覚える場所だ。

「折りたたみ自転車がクロスバイクと大差ないのが逆にびっくり。折りたたみすごいなあ」

「あの折りたたみだと値段が倍の10万円しますから。価格差は性能差ですよ。折りたたまなくて済む分、クロスは丈夫さにコストを掛けずに軽くできるから、安くできる」

 加藤と一緒にその辺を一回りした後、雄一は店頭に1人立って考える。自転車は奥が深い。せっかくなら何か始めて生活を変えてみたいものだ、と。店長が店先に出て来て、雄一に声を掛けた。

「ロードは日曜の朝に練習会をしていますし、ツーリングも企画します。MTBならトレイルに行ったり、管理コースにも行ったりします。クロスバイクや小径車なら都内散策とかして、途中で新しい発見があったりで――自転車って楽しいですよ。買っただけで終わるものじゃない。その先の何かを探すお手伝いもできれば店的には最高ですけどね」

 店長はニッと笑った。

「自分でも勉強してからまた来ます」

「いつでもどうぞ」

 店長は小さく頭を下げた。雄一は店に預けておいた食材を受け取り、寮の自室に帰った。TVをつけずにFMラジオを聞き、夕食を作る。1人暮らしも6年経てば料理も馴れたものだ。そしてタブレットで情報収集をしながら夕食を終えた。後片付けを済ませて検索を続け、ざっと知識を仕入れる。昨今はスポーツ自転車がブームになっていること。自転車の走行について社会問題化していること、などだ。今は無趣味の彼もかつてはスノーボードやフットサルをしていた。しかしスノーボードは季節が限られているうえ、ゲレンデに行かねばならなかったし、フットサルは仲間が集まらなくなって終わった。自転車の場合は1人で走れて、家の外に出ればすぐフィールドだ。MTBならたまに山に行けるし、都内散歩や、慣れれば通勤にも使える。店長に言われたからではないが、第一印象を大切にした方が良いようにも感じる。

 明日、時間があったらMTBを試乗させて貰おう。そう心の内で言葉にして布団に潜る。久しぶりに充実した心持ちで、雄一は眠りについた。
<つづく>

※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修
岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング
松本佑太(フカヤレーシング)

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神野淳一 連載小説「インナー×ロー」

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