Cyclist選出・サイクリストへお勧め図書㉒人気連載が書籍化 猪野学さんの初エッセイ『自分に挑む!人生で大切なことは自転車が教えてくれた』

by 後藤恭子 / Kyoko GOTO
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 Cyclist執筆陣を中心に、サイクリストにおすすめ図書を紹介する本企画。今回ご紹介するのはNHKBSの自転車情報番組『チャリダー★』の“坂バカ俳優”でおなじみ、猪野学さんの初となるエッセイ『自分に挑む! 人生で大切なことは自転車が教えてくれた』(CCCメディアハウス刊)です。Cyclistで連載中のコラム『坂バカ奮闘記』をベースに書籍化されたものですが、コラム担当の編集部員も知らない、メガネの下に隠れた猪野さんの「坂バカ俳優」という唯一無二の存在に挑む意地と根性が抽出されています。

2019年12月中旬に発売されたばかりの、猪野学さんの自著『自分に挑む!人生で大切なことは自転車が教えてくれた』(CCCメディアハウス刊) Photo: Kyoko GOTO

思いもよらぬ方向に転がり出した「運命の輪」

 「人生はふとしたことから思いもよらぬ方向に転がり出すことがある。つながり、回り出す、運命の輪。それが、自転車だった」─。

 本を開くと、そでにこの一文が書かれていた。サイクリストならば同様の思いを抱いたことがある人は少なくないだろう。今まで見たことのなかった景色や楽しさ、人との出会い、強くなっていく自分。ただ自転車に乗り始めただけなのに、歯車が噛み合うように次々と世界が動き出していく。しかし、猪野さんほどこれを強く感じている人はいないだろう。自転車に乗っていたら、ある日突然唯一無二の“坂バカ俳優”になってしまったのだから…。

「坂バカ俳優」として突如現れた猪野学さん 画像提供: テレコムスタッフ

 連載コラムの執筆も、猪野さんにとっては「運命の輪」がつないだ出会いの一つかもしれない。番組に出演する猪野さんを視聴者として目にしたとき、俳優なのに必死にもがく本気の坂バカぶりに強烈な印象を受けた。ヒルクライムレースでの表彰台を夢見て、眼鏡を汗で曇らせながら上り、不甲斐ない結果に本気で凹む。それでも強くなろうと貪欲に挑む不器用な姿は、いくら俳優さんとはいえ芝居というにはリアル過ぎた。この突如現れた坂バカ俳優さんに会ってみたくなった。

本に登場する猪野さんの写真。実はハンサムで爽やかな俳優さん Photo: Kyoko GOTO

 かくしてインタビューが実現した。実際会って話をしたときの猪野さんの第一印象はとにかく「謙虚」。基本「いやいや、僕なんて…」と常に低姿勢だったが、トークの中で「心拍」や「ワット」、「斜度」といったキーワードが出ると急に眼光鋭く反応が返ってきた。「この人、キャラクターじゃなくて本当の坂バカだ…。坂バカな俳優というより俳優業をしている坂バカ??」─。何かを秘めた表情にインタビューだけでは物足りなくなり、もっと猪野さんの“坂バカワールド”を覗いてみたくなった。

地下水のように流れる静かな闘志

 直感は的中。会ったときの印象とは打って変わって、送られてきた猪野さんの原稿には溢れんばかりの坂への愛情がほとばしっていた。猪野さんの書く文章(「猪野節」と勝手に命名)はコミカルで疾走感があり、それでいて坂バカの喜怒哀楽…というか悲哀が実に見事に描かれている。レースの勝敗をめぐる喜びや悔しさはもちろん、努力が実らない苦悩や人を羨んだり妬んだりする負の部分も隠さずに情けなく描かれている。

 その感情はサイクリストにとっては「あるある」だが、よくここまで感情を微細に描写できるなぁと感服する。とくにレース時の、感情が揺さぶられるような臨場感は秀逸だ(ちなみにもっとすごいのは、猪野さんが原稿をいつもロケ等の移動中にスマホで書いているということだが…)。

体をよじりながら激坂を制する猪野さん。「斜度は強めの方が好き」とのこと ©テレコムスタッフ

 引き込まれるように読めるのは、我々読者の経験値とほぼ等しく、何より坂を愛する猪野さんの「公私の垣根がない本気度」が理解できるからだろう。番組云々は関係なく、本当にこの人は勝負が好きで、心底勝ちたいのだ。コミカルで軽妙な文章の下に、地下水のように絶えず流れる闘志が伝わってくる。

 そんな猪野さんの闘志を大吟醸のように削り出したのが同著だ。タイトルは『自分に挑む!』。なるほど、47歳(2020年1月現在)にして闘志を絶やさない猪野さんは、そのような見方をすれば確かに自分に挑んでいる。

 いわゆる世の同世代の男性は代謝が落ちるお年頃、運動をしなければ体のラインも崩れる年代だ。そこを猪野さんは体脂肪6%を維持するどころか、さらにパフォーマンスアップを目指してレースで自己ベスト更新に挑み続けている。番組では表彰台に乗れない‟ダメキャラ”が定着してしまっているが、乗鞍ヒルクライムでは年代別で上位10%に入るなど、ひそかにしっかりと結果を出しているのだ。その横顔を同著はしっかり切り取っている。

 連載担当者としてこれまで軽妙な“猪野節”に乗っかってコミカルテイストを展開してきたが、同著の出版にあたり、猪野さんの本当のすごさを教えられたような気がして反省せずにはいられなかった。

書籍化の発案者は非サイクリスト

 本のプロローグは世界一過酷なヒルクライムレース「台湾KOMチャレンジ」の挑戦記から始まる。猪野さんが坂バカ魂をかけて臨み、完走して人生初の嬉し泣きをするエピソードが紹介された後に、猪野さんがロードバイクに乗り始めたきっかけや、いかにして「坂バカ人生」が幕を開けることになったのかといったルーツを辿る話へと遡っていく。

コラムには書かれていない、ロードバイクに乗り始めたきっかけも Photo: Kyoko GOTO

 さらに話題はトレーニングの珍エピソード、レースの出場、俳優業との両立、仲間との友情、師匠の教え、さらには老いとの向き合い方など多岐に渡って展開。冒頭に書いた「運命の輪」がとどまることを知らずにぐんぐん転がり続け、さまざまな出会いや経験を経ていく様子が伺い知れる。

 「寿司より120g」(軽量化の話)、「物件選びの第一条件に『ローラー環境』」「いくつになっても夢をあきらめなければ、それは青春」等、猪野節も元気に炸裂。猪野さんが同著のために書き下ろしたという文章も多く、編集担当者でも新鮮に読めるから切り口や構成というのは重要だとつくづく感じる。

 すでにサイクリストの方々はもちろん、これから始めてみたいと思っている人、あるいはロードバイクに乗ったことのない人でも一気に引き込まれるような勢いが、この本にはある。これも猪野節がもつマジックなのだろう。実際、コラムの書籍化を猪野さんに持ちかけた出版担当の方は、ロードバイクに乗らずして猪野さんが書くコラムのファンだったというから興味深い。それほど本気で頑張っている姿というのは、ジャンルを超えて人の心を打つのだ。

2019年の乗鞍のフィニッシュで。思うようなタイムが出せず、白目を向く猪野さん Photo: Shusaku MATSUO

乗り越える力がもらえる

 このコラムがたんぽぽの綿毛のように飛び立ち、本という形に結実したことは編集担当としても本当に嬉しい。これもまた、猪野さんにとっては「運命の輪」がつないだ出会いなのだろう。

 さまざまな出会いを糧にし、どんな苦楽も笑いに変えて全力で坂に挑み続ける猪野さんの坂バカエッセイ。壁にぶつかっているとき、思うように結果が出ないとき、心を燃やす何かに挑戦したいと思ったとき、ぜひ手にとってみていただきたい。読み終わったときには、きっと「自分ももう少し頑張ってみよう」と元気が出ているはずだから。

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