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猪野学の“坂バカ”奮闘記<42>“出し切る”ことで強くなる! タイ合宿で悟った「自転車」すなわち、これ「人生」

by 猪野学/Manabu INO
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メコン川沿い。新城選手が撮ってくれた筆者

 これまで3回に渡ってお届けしてきた、猪野学さんの『坂バカ奮闘記~タイ合宿編~』。最終回となる今回は、新城幸也選手との壮絶な練習の仕上げです。自分の実力以上が引き出される、合宿名物の“鬼引き”に食らいつき、最後は時速20kmも出せないほどに完全に脚を失った猪野さんですが、出し切った先に新たな光芒が見えたようです。

◇         ◇

チェンセンの街並み。とてもカラフルで可愛い

 いよいよ後半を迎えたタイ合宿。昼食を済ませた我々は、食後のコーヒーを飲みながら取材させていただくことになった。タイ合宿は休む時はしっかり休む。このメリハリが非常に大事なのだ。近くのコーヒーショップに行き、それぞれにコーヒーを頼む。もちろんアイスだ。前回の合宿では気付かなかったがタイは本当に珈琲が美味い!とても香りが豊かだ。

 チェンセンはラオスとミャンマーの国境沿いのデルタ地帯と呼ばれており、かつては有名な麻薬王が仕切っていたらしい。そんな話を聞くと、私は本当に世界の片隅…辺境の地へ来ているのだと気付かされる。

タイのコーヒーはびっくりするほど美味い

 コーヒーでリフレッシュしたら復路のトレーニングが始まった。しっかり休息したせいか心身共にリセットされている。やはり質の良いリカバリーは大事なのだ。新城さん曰く復路にはピョコッと上りがあるらしい…何とも可愛いらしい表現だが…タイの「ピョコッ」とはきっとろくなことがないというのは、これまでで学習していた。

 坂まではなるべく脚を温存したいが、時速40kmと私には速いペースで巡航する。するとじわじわと強度が上がり出した…。そう、それは坂が近いことを意味する。坂の前で上げられると坂では確実に千切れる。レースでもこうやって“ふるい”にかけるのだろうか…。

 まず現地タイ人ライダーが千切れた。やはり前回よりも私の方が走れている。ほくそ笑んだ瞬間、とんでもない光景が飛び込んで来た! どデカイ白い壁が行く手を阻んでいるではないか! そう…これがタイ合宿名物、「魔の3段坂」だ! いきなりの急勾配に慌ててギヤをインナーに入れた。坂になると無風になり、灼熱地獄で意識が朦朧とし始める。

AI化した電動コンポの攻撃

 さらにじわじわと離される…やはり坂では付いて行けない。「何が坂バカ俳優だ!」と己を罵った瞬間、信じられない現象が起こり始めた。何もしていないのに「ゥィーン」という機械音と共にギヤがアウターに戻るではないか…。

 何だこれは? すかさず再びインナーへと入れるとまた「ゥィーン」とアウターに戻る。何度も何度もインナーに入れるが、電動コンポはパニクる私を嘲笑うかのようにゥィーンゥィーンとアウターへ戻る。まるで「お前は坂バカの分際で電動を使うのか?坂バカは紐(ワイヤー)が鉄則だろう!」と言ってるかのようだ!

 頭の中でターミネーターの音楽が流れ出す…。そう!タイの辺境の地で電動コンポが意思を持ち始めた!そう!AIだ!

 私は心の中で、「もう2度電動は使いません」と謝罪する。するとどうしたことか、ギヤインナーに収まるではないか!─と行けば良いが、AIに感情は伝わらない(笑)。容赦なくアウターへと変速し続ける。私は死ぬ前に後世にこれだけは伝えたい! AIと地球温暖化には気をつけろ!

新城選手の優しさに涙

 いつの間にか新城選手はとっくに見えなくなり、1人旅となる。するとようやく下りが訪れた。風が心地よい、と言いたいところだがここも熱風地獄。メコン川沿いのアップダウンを繰り返すと2段目の坂が訪れる。2段目も3段目もAIの攻撃は続き、結局アウター縛りで3段坂を上る羽目になった。

 すっかり消耗した私は10分遅れで次の休憩所に辿り着いた。前回は30分遅れ。この少しの成長が地味に嬉しい。するとさらに嬉しいことが待っていた。新城選手がスイカを用意してくれていたのだ。

 前回、私は休憩所でスイカを食べて、あまりの旨さなのかツラさなのか泣いたらしい。あまり覚えてないのだが、素人がタイ合宿に行くと感情が破壊される。新城選手はその事を覚えていて下さりスイカを用意してくれていたのだ。再び私が涙したことは言うまでもない。

最後の休憩所では有りとあらゆる補給を摂る

 この休憩の後はゴールまでの70km。出発間際に新城選手が「ここからはさらに暑いですから」と頭痛薬をくれた。…熱で頭がやられるのを防ぐらしい。ええい!最後まで燃え尽きるぞ! と気合いを入れてスタートした直後、私の後輪からプシューっという音がした。まさかのパンク。脚を引っ張ってばかりで、申し訳ない。

 慌ててパンクを直そうとするも、日本から持参したチューブのバルブが以前に履いていたホイールのままで、いま使っているホイールにサイズが合わない! ここでまた車に回収されてしまうのか…と落胆する私に新城選手が「僕のを使ってください」とチューブを差し出してくれた。さらに新城選手自らパンクを直してくれるではないか! 人間が…とても大きい。

実力以上を引き出される鬼引き

 パンクが直り、再出発すると徐々に強度が上がる。この上げ方が実に巧みだ。一気に上げると千切れしまうので、千切れない瀬戸際を攻めるのだ。気づいたら250Wぐらいを1時間も維持していた。乗鞍なら余裕で自己ベストを更新できるペースだ。自分の実力以上を引き出してくれる。これもタイ合宿の特徴だ。

 しかし90分を過ぎた頃、さすがに限界が近付いて来た。下ハンを持ち、必死に新城選手の後輪スレスレにしがみ付く。このスレスレにほんの小さな「エアポケット」がある。そこに入れば何とか付いて行けるはず。必死にエアポケットに入り続ける。そこで痛恨のミスを犯す。暑さで朦朧とした私は新城選手の後輪にハスってしまったのだ!

 何ということだ! 今回もやってしまった!(前回もやった) 必死に謝罪する私に対し新城選手は「なんくるないさぁ〜」といった感じ。グランツールではハスるなんてことは日常茶飯事なのだろうか…もしくはやはり人間が…大きいのか…。

おおらかで強い新城選手

 私はボトルの水を頭にかけ、意識をクリアにして再び新城選手の後ろに付く。気がつくと緩い坂だ…一気に強度が上がる。後で聞いたが、ほとんどの選手がこの緩い坂で限界を迎えるそうだ。私もカメラマンに限界を伝え…、2度目のタイ合宿は終わりを迎えた。

新城選手「猪野さんはもっと速くなる!」

ゴール後、顔のむくみが壮絶さを物語る

 1人になり、夕陽のなかトボトボとタイの田舎道を走る。脚が全くなくなり、時速20kmしか出せない。ここまで脚がなくなるのは初めてだ。しかし90分もあの強度に付いて行けた事は誇らしく、タイの熱風が心地よい。

 宿に着くと新城選手から信じられない言葉を頂いた。「猪野さんまだ速くなりますよ!もっと筋力を付ければ」と…。タイ合宿のように、出し惜しみせずに出し切ることで脚が強くなるのだろうか。鍛冶屋が名刀を作る様に。確かに出し切った私の脚は「斬鉄剣」のようにカチカチに攣っていた。

夜に頂いたタイの虫。タンパク質豊富でとても美味しい

 今まで温存することに囚われ過ぎていたのかも知れない。人生も同じで、出し切ることが大事なのかも知れない。終わって見ればあっという間なのだから。来年はもっと全力を出し切ろう…そんな想いにふける師走であった。

 それでは皆様も良いお年をお迎えください。

(画像提供:猪野学、テレコムスタッフ)

猪野 学猪野 学(いの・まなぶ)

俳優・声優。自転車情報番組NHK BS1『チャリダー☆』(毎週土曜18:00~18:50)にレギュラー出演し、「坂バカ俳優」という異名で人気を博す。自転車の他、空手やスキーなども特技とするスポーツマン。俳優として舞台や映画、ドラマなどで活躍する一方、映画『スパイダーマン』のトビー・マグワイアの声優としても知られる。ウェブサイト「マナブログⅡ

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猪野学の“坂バカ”奮闘記

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