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連載第20回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第20話「跳躍」

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 あいつに恩を感じることはない。これで五分五分だ。瞬一はアタックを掛けた選手に追いすがり、歯を食いしばってダンシングを続けた。

 すぐに全身が重くなってサドルに腰を下ろすが、シッティングはクランクを2度回す間のみ。少しでも離されないよう、ダンシングを再開する。8回ダンシングして、また2回シッティングに戻るの繰り返しだ。南が読ませてくれた古いマンガに描いてあった踏み方だ。今も正しいのか知らないが、これも南の教えだと思い、踏み抜く。

◇登場人物紹介◇

・橋沢京助 三重から上京してきた大学2年生。JBCFには上京してから参戦。現在E2。

 落車のため、来季E1に昇格できるか瀬戸際にいる。オールラウンダー。

・神崎悠宇 大学2年生。京助の相方。幼い頃から走っていたが、参戦は大学に入ってから。

 既にE1昇格を決めている。クライマー。

・神崎有季 悠宇の妹。高校2年生。今年からJBCFに参戦し、好成績を収めている。

・南宗司  病気のため一度は引退した元プロレーサー。京助達を導く。

・相模瞬一 南の弟子。将来に悩んでいるとき、南に出会い、救われる。

 夜間大学に通いながら、メッセンジャーをしている。現在E2。スプリンター。

1周14kmのコースをE2カテゴリーは3周する

 それでも脚には疲労が溜まりに溜まり、もう既に自分の身体ではないみたいだった。いつもならとっくに投げ出しているところだが、背中に感じる視線がそれを許さない。

(このレースで勝つんだ)

 その思いが、疲れ切った重い身体を動かす。脚を動かしても苦しいだけだ。勝っても金が貰える訳でもない。E1に上がっても、ロードレースで速いと認められるだけだ。

(……だけってことは、ないよな)

 もはや悩むことすら愚かしいと瞬一は断じた。何でも中途半端だった。幼い頃から兄に比べられ、最後には比べられもしなくなり、家の中で空気となって生きてきた。全てが面白くなく、学校でもいつも1人だった。

 だけど今は、ロードバイクがあった。嫌な奴でも、背中に仲間がいた。

(ロードレースは、1人で戦うんじゃない)

 脳裏でそう言葉にすると、身体から余計な力が抜けて、集中力が増した。

(そうだ。この瞬間、このレースだけが、今、オレが存在している場所なんだ)

その結論が脳を刺激し、熱い何かが全身を駆け巡っていくのが分かった。

「うおらぁあ!」

 先行する選手たちに突き放されそうになっても、雄叫びを上げて食らいつく。京助も激しくダンシングを続け、先に行く4人の選手に追いすがる。先ほどまでの京助は疲労困憊し、今にも倒れそうだった。その彼と今の彼が同じ人物とは、とても思えない。火事場のクソ力というが、それだろうか。しかし命の危険があるわけではない。自分のためだけではない。仲間のために、自分でないもののために出る力だ。そんな神がかった力は、瞬一の中にも確かにある。頭で分かるのではない。そう感じられるとしか瞬一には思えない。

 タイヤから伝わる雨の雫や、風の流れが見えた。葉っぱ1枚が落ちてくることすら、知覚できた。誰がギアを変え、誰が腰を下ろしたか。これからどう動くのか、手に取るように分かる。京助が今、どんな状態でペダルを踏んでいるのかも理解する。

 それはアスリートの間では、ゾーンと呼ばれている現象だ。2人を生き返らせたのは脳内物質の作用だが、今の瞬一がそれを理解する由もない。少なくとも彼にとっては、初めての体験である。時間の流れが普通とはまるで違う。どうかこの不思議な時間が坂の頂上まで続くようにと願いながら、瞬一はダンシングを続ける。京助も復活し、瞬一について来ている。

 8%の登坂が終わり、若干の平坦な道になった。ここまで食らいついたのだ。まだ勝負権は残っている。悪天候という同じ条件の下だ。集中力の勝負だった。後は得意の下りだ。

「橋沢! 絶対についてこいよ!」

「オラああ!」

 瞬一と京助はサドルに腰を下ろし、平坦路で加速して最後の下りに突入した。この先に難しいコーナーや滑りやすい場所はない。雨は心配だが、たとえ斜面から滝のように水が流れ落ち、道路を叩いていている場所でも、どこを通れば安全なのか、瞬一には見える。瞬一は自分の動体視力に全幅の信頼を置いていた。

 瞬一たちは先行する選手たちに追いすがるどころか、スペースが許しさえすれば、まくれそうなほどの速度で下り始めた。先行も瞬一の強みを理解し、抜かれないようブロックを始めた。もどかしいが、それは前の下りで京助がしたことだ。ここでリードを守り、勝負をゴール前のスプリントでつけようとする意志が伝わってきた。

 前には同じジャージが2枚見える。強豪チームのビアンカだ。どっちかがアシストして後続を断つ可能性は十分にある。

(どうする? 無理矢理にでもパスするか?)

 そう考えながらコーナーを抜けると、次のコーナー手前の、ガードレールの外側に人影が立って、大きく手を振っているのが分かった。下り区間は危険なため、観戦客は立入禁止になっている。何故手を振っているのかと考える余裕はない。最終ラップだけあって、雨中でも下り速度は60km/hオーバー。少しでも傾斜が緩くなれば、トップギアでガンガン踏んでいる。

立っている人影を視界の端で捉えると、先導のオートバイに乗っていた係員だと分かった。

「せき……落石! 落せき……」

係員は信じがたい言葉を叫び続けていた。下見した時、落石注意の看板を見た。確かこの辺りだったはずだ。下りの猛スピードの中、しかも大雨で視界も悪い。どうすれば良いのか分からない。止まれば間違いなく負けるが、落石がどんな状態なのかは分からない。緩いコーナーに入り、先行選手は速度を鈍らせたが、止まる様子はない。追う瞬一たちも突貫するしかない。

 コーナーの入り口に入ると、落石箇所と路肩に停まっているオートバイが見えた。落石と泥で道路の左半分が埋まっていた。埋まっていない場所にも大小様々な岩がゴロゴロ転がっている。

 冷静に考えれば、とてもレースができる状態ではないが、オートバイに乗った係員には止める時間的余裕がない。先頭選手が荒れた路面に突っ込み、勢いだけでクリアすると後続もそれに倣った。瞬一と京助も勝負を捨てる気はさらさらなく、それに続こうとする。

 しかし瞬一は直前を走っている選手が激しく動揺していることに気がついた。
異常に高まった集中力故の、奇跡的な察知だった。彼は後続のことを考えずに急ブレーキを掛け、両輪をロックさせた。タイヤはグリップ力を失い、後輪が前輪を追い越し――いわゆるジャックナイフをし、かろうじてそれまで通れていた路面を塞ぐように落車した。

 瞬一が叫ぶ暇があろうはずもない。彼は一つ小さく息を吐き、最善のラインを探し“見つけた”。そして落車した選手が起き上がる前に、横になって倒れているバイクの脇に生じているただ一筋のクリアラインにフロントを向け、そのまま走り抜ける。

(橋沢は?)

 祈るような心持ちになったが、振り返る余裕は皆無だ。後ろからさらにガシャンと、何かが落ちる嫌な音がした。

(橋沢!)

 京助が落車したのか、それとも堪えてクリアしたのか分からないまま、瞬一はコーナーを駆け抜けた。

 つい先ほどまで死ぬほど辛く苦しかったのに、京助の中に力が戻っていた。セカンドウィンドとかゾーンとかいう類だろうと予想はついたが、この力は瞬一の咆哮に呼応するようにして身体の奥から湧き出てきたものだ。1人だったら、そのまま千切れていたに違いなかった。このままレースで戦えることを、京助は腹の底から喜んだ。

 瞬一と共に最後の坂をクリアし、ここからが勝負だと燃えていた。しかし今、京助の目の前に信じられない光景が広がっている。この雨のためか道路に落石があり、その半分が岩と泥で埋まっているのだ。そして20mほど先で落車が発生し、選手とバイクが濡れた路面を滑っていき、その後、砂利と泥にまみれてすぐに止まった。そこは今の今までかろうじてクリアになっていた路面の上だった。

減速しても60km/h近い速度だ。止まって回避することはできないし、こんな僅かな間で何かできることもない。このままでは二重事故になる。しかし、さらに大変なのは落車を目の前にした瞬一の方だ。京助はこのトラブルを彼が越えられるのかどうか考えることすらできなかったが、瞬一はどこが下れるのか分かっているかのようなコース取りをして、落車した選手の脇を通っていった。

 信じがたいが、彼から見れば安全なラインがあるのだろう。しかしそれは、京助には見えない。真似もできない。しかも落車した選手が起き上がろうとして、彼がクリアした時とは状況も変わってしまった。

(どうする、俺?)

 このままでは、落車した選手を回避できても、泥の中か、ガードレールのいずれかに突っ込んでしまう。

 “こういう時のためのホッピングだよ”

 有季の声が聞こえた気がした。

(そうだった……だから練習してたんだった)

 京助は有季とホッピングの練習をした時のことを刹那の間で走馬燈のように思い出した。そして倒れている選手の脇を通り抜け、泥が薄く広がり、大きな石が転がる道路の中央帯にフロントを向けた。この先、障害物が広がっているのは幅1メートルほどの短い間だけだ。

(飛び越えられる)

 京助は自分に言い聞かせた。“低く屈み込んで、飛び上がる時に両手両脚でバイクを引きつけるの。ロードならビンディングペダルだから簡単にできるよ”

有季は京助にホッピングのやり方を教える時、そう説明した。スタンディングで培ったバランス感覚は十分生かされた。次はホッピングを生かす番だ。

(このまま下りる!)

 京助は両手両脚でバイクを引きつけた。そしてバイクと一体になって跳躍し、泥と石が転がっている箇所を飛び越えた。着地すると同時に、バイクと京助の身体を激しい衝撃が突き抜けた。

 しかし飛び上がった時にハンドルを切ってしまっており、そのまま下りたため、しばらくふらついた。ガードレールに激突しそうになったがどうに回避。体勢を立て直し、京助はコーナーの出口に瞬一の姿を見つけた。

「無事だ!」

 前を走る瞬一に分かるように、京助は大声で叫んだ。

「おう!」

 瞬一の声が遠くから小さく聞こえた。これでこの集団は6人になった。どちらかが5位以内になることはほぼ確定だが、そんなことはもう、今の2人にとっては、どうでもいいことだ。

「勝つぞぉおお!」

 京助は瞬一の後ろにつくと、腹の底から叫ぶ。

「当たり前だ!」

 瞬一が選ぶラインを辿り、京助は猛烈な勢いで先頭グループを追撃する。京助たちは落車に巻き込まれたせいで、1秒以上ロスしていた。後続が来る気配はない。落石で止められたのだろう。

 勝負は下りが終わってからゴールまでの、直線700mになった。瞬一の狂気と紙一重のダウンヒルに引っ張られ、京助は全力で“アウター×トップ”を踏みながら、最後のコーナーを曲がり、直線に出た。

瞬一は一列になっている先頭グループに飛び乗り、京助も追随する。誰が抜け出すか分からないが、瞬一と京助には覚悟がある。公園が見え、観戦客が増えてきたが、応援の声は京助に届かない。

 ラスト300mを切り、3番目と4番目の選手が飛び出す。ジャージは見慣れたビアンカのそれだ。全くそつがない。集団は一斉に反応し、瞬一もまくるべくギアを上げ、猛烈な勢いで加速を始めた。彼はスプリンターだ。雨の中、この強風の中でも、一旦脚に火が点けば、ロケットのように吹っ飛んでいく。瞬一に振り切られそうになりながらも、彼のお陰で空気抵抗から逃れ、京助はビアンカの選手たちと並び、競る。

この先、どうなるかは互いに残っている力と精神力次第だ。この疲れ果てた身体のどこに力が残っているのかは分からなかったが、それでも全身の筋肉がバネになるイメージを抱き、京助は遮二無二にクランクを回した。

「京助! 行けええ!」

 有季の声が聞こえた。

「回せ回せ!」

 悠宇の声も聞こえた。2人の声だけが聞こえる。2人がいてくれたから、今、ここで走っていられた。前には瞬一がいる。1人ではないと、仲間がいるのだと、体感できた。

 瞬一の速度が鈍ってきた。もう限界だ。京助は彼を引っ張ろうとして飛び出し、瞬一を追い抜いて必死に脚を回す。体力がもう空でも、精神力で脚を回すしかない。後ろにいた選手も前に出てきて、ラストスプリントを始めた。

(ここまで来て負けるものか)

 京助はただひたすら脚を回し続け、前を見る。その刹那、ふっと脚が軽くなったかと思うと、前にはもう誰もいくなっていた。

 コンマ数秒後、京助はゴールラインを割った。ビアンカの選手と競り合っていたため、勝敗はセンサーの判定次第だった。しかし京助にとって順位はもはや関係なくなっていた。直線の先で、京助はビンディングを外し、ゆっくり脚を回しながら止まり、そしてその場でバイクから降りた。もう一歩も動けず、大雨が降る中、アスファルトの上に大の字になった。心臓は激しく躍り、呼吸は落ち着かず、目の前が真っ暗になっていき、目を閉じた。

 顔に掛かる雨が冷たく、水たまりの泥水が、ジャージに染みこんでいった。しばらくすると不意に雨が掛からなくなった。どうにかこうにか京助が目を開けると傘を差した有季の顔が見えた。

「おめでとう」

 有季は傘を差し伸べ、自らもしゃがみ込んで京助の半身を起こした。どうだった、と訊く力すら残っていなかった。

「クラス初優勝だね」

 それを聞いても特に昂揚は訪れず、不思議と冷静な自分がいた。

「――相模は?」

 上下する胸の奥からかろうじて空気を絞り出し、京助は訊いた。

「3位だったよ」

 瞬一も来季はE1に昇格できるだろう。そうか……と言葉にしようとしたが、まだ呼吸が乱れすぎていた。結果も聞けたし、また横になりたくなったが、有季が京助にひょいと傘を持たせた。

「え、あ、何だ?」

 京助はびっくりして傘を持たされるがままになった。 その直後、ずぶ濡れの京助を有季は両腕で抱きしめ、京助は目を閉じた。全身に甘美な血液が染み渡っていき、彼女の体温も伝わってきた。秋の雨に濡れた寒さも忘れてしまえるほどに、それは温かなものだった。

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ロードレース小説「アウター×トップ」 神野淳一

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