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連載第19回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第19話「ウェットコンディション」

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 雨が降ってきた。予報よりずっと早い降雨だが、雨天の準備は整えてある。瞬一はヘルメットの奥から、畳んでいたサイクルキャップの鍔(つば)を出し、アイウェアに水滴がつかないようにする。レーサーパンツは最初からビブショーツだ。腹が冷えないし、雨で重くなってずれる心配もない。しかし、レインウェアは短いレースなので持ってこなかった。

◇登場人物紹介◇

・橋沢京助 三重から上京してきた大学2年生。JBCFには上京してから参戦。現在E2。

 落車のため、来季E1に昇格できるか瀬戸際にいる。オールラウンダー。

・神崎悠宇 大学2年生。京助の相方。幼い頃から走っていたが、参戦は大学に入ってから。

 既にE1昇格を決めている。クライマー。

・神崎有季 悠宇の妹。高校2年生。今年からJBCFに参戦し、好成績を収めている。

・南宗司  病気のため一度は引退した元プロレーサー。京助達を導く。

・相模瞬一 南の弟子。将来に悩んでいるとき、南に出会い、救われる。

 夜間大学に通いながら、メッセンジャーをしている。現在E2。スプリンター。

 山の頂上が見えてきた辺りで、瞬一たちは先行選手を2人パスした。京助のペースに必死に食らいついたからだ。1人だったらこの速度では絶対に上れないと思う。パスした2人の選手は瞬一の後ろについたが、力尽き、ほどなく落ちていった。あれが自分だったかもと思うとぞっとする。これで前にいる選手は10人の計算になる。

 京助が振り返って言った。

「お前ロードレース、好きか?」

「分からない」

 瞬一は前を向いたまま応えた。こんな苦労をして走る理由が見つからない。だが、それなら嫌いだと答えればいいと気づき、自分の中にロードレースに対する何らかの想いが潜んでいるのだと気づいた。

「だけど、お前には負けたくない」

「俺もだ」

 京助は爽やかな笑みを浮かべた。上りで苦しいはずなのに、彼の笑顔を見ると凄く悔しい思いがした。だから自分も口だけでニッと笑んでみた。笑えたかは分からないが、何故かすっきりした。

 頂上に至り、速度を乗せると2人は腰を下ろし、下りに備えた。雨は本格的に降り始め、サイクルジャージに雨粒が染みこんでいった。

「絶対ついてこいよ」

 瞬一は大きく深呼吸した後、下りに突貫し、京助もそれに続く。雨の降り始めは道の表面の土埃や砂が浮いて、タイヤがグリップしにくくなる。しかし、それを恐れていては先頭に追い付かない。皆が降り始めのリスクを承知で坂を下り、これまでに得たリードを守ろうと必死に脚を回している。

 雨に濡れたジャージが風に当たり、熱くなった身体を冷やした。気持ちいいと思うのは一瞬だけだ。すぐに熱が奪われ、皮膚だけが冷たくなる。しかし、身体全体はまだ熱い。脚を回し、血液を循環させ、筋肉の再始動に備える。下っている最中に、瞬一と京助はさらに2人の選手を追い抜き、かっ飛ぶように下り続ける。これで前にいるのは8人のはずだ。

 直線では70km/h近い速度で150メートルの高度差を下る。そして最後のコーナーを通り抜けると山が終わり、スタート場所の公園が遠くに見え、1列になった先頭グループを射程圏内に捉えた。数は8。2人の計算通りだ。

 先頭グループは飛沫を上げながらアスファルトの上を突き進んでいる。瞬一はギアを1枚上げ、脚が悲鳴を上げる寸前まで回し、グループ最後尾の選手の後ろに辿りついた。京助もここで負けじと瞬一の後について来た。瞬一が振り返ると、京助はひどく疲れた表情を見せていた。先ほどまでの笑顔がまるで嘘のようだ。下りで体力を使ったにしては、派手に疲れすぎている。

(笑って見せるのと逆ってことか……)

 他の選手からのマークを外すために、そして先頭交代の時間を短くするために疲れたフリをしているのだ。すっかり忘れていたと、瞬一も疲れたフリを始める。瞬一は自分が先頭の番になると、肩で息をし、フラフラして見せ、3秒ほどですぐに後ろに回る。そして京助も同じように疲れた仕草をして見せ、後続に前に行くよう手でジェスチャーした。

 長い距離ならば騙せないが、ここの直線は2kmほどだ。10人のローテーションで1人が10秒引けば100秒。2人がサボった時間を考慮しても直線の半分は進む。騙しが2度通用すれば足りる。しかし、これまでの展開で本当に脚を使い切ってしまった選手がおり、トレインから千切れていった。そのお陰で瞬一たちの演技に信憑性が増し、1秒でも先頭を引いてくれればいいという雰囲気が生まれた。

 列車がスタート地点に戻ってくると、沿道には傘の華がポツポツと開いていた。南の姿は見つけられなかったが、代わりに金切り声が聞こえてきた。

「京助ーっ! 死ぬ気で踏めえええ!」

(バカップルめ)

 瞬一は気分を害した。幸い瞬一たちは他の選手たちを騙し通せ、ほとんど先頭を引くことなく、トレインは緩やかな坂を上り始める。この間に2人は少し力を回復させた。体力が戻れば次の手が打てる。5%の勾配が始まると、坂が苦手な選手とそうでない選手の差が出始める。先頭についていく選手もいれば、明らかに苦くなり始めた選手もいる。正直、瞬一は後者だが、直線で休めた分、力が残っている。京助はクライマーではないが、登坂が苦手でもない。彼は無難に先頭の選手に食らいついていける。大人しくしていれば最後の上りで誰かがやるであろうアタックにも、対応できるはずだ。

 しかし京助は瞬一を振り返り、引きつった笑顔で言った。

「下りで追い抜けよ」

 その言葉はあまりにも唐突で、瞬一には意味が分からなかった。次の瞬間、京助はサドルから腰を上げ、猛烈な勢いで先頭の選手を追い始めた。そして瞬く間に前を行く選手たちを抜かし、このレースのトップに立った。他の選手たちはアタックに反応し、次々と京助を追い、速度を上げて坂を上り始める。だが、京助の加速は尋常ではない。ここで潰れてもいいと思っているような勢いだ。

 瞬一は京助の言葉の意味を考え続ける。下りで追い抜け、は、ついてくるなの意味ともとれる。これは二重の意味がある。上りが得意ではない瞬一のペースを無理に上げさせて、体力を消耗させないことと、このアタックで何人かを集団からふるい落とすことだ。己のペースを守れずに坂を上れば、待っているのは自滅だ。京助は他の選手を幾人か道連れにして、ラストの勝負から引きずり下ろすつもりなのだ。

(あいつ……)

 自分が序盤で助けに戻ったことに対する、彼なりの感謝の形なのだろう。しかしここで力を使えば後半の坂で脚は使いものにならなくなる。このアタックで何人をふるい落とせるかにもよるが、彼自身には分が悪い賭けだ。

(なんで相談なしに!)

 京助だってE1に昇格したいはずだ。なのに何故こんなことをするのか、たとえそれが恩返しだとしても理解できない。だが、理解できなくても良いと思う。今、自分に求められているの彼の意志を無駄にしないことだ。

「分かった。追いつく」

 追い抜く、ではない。追いつく、だ。今や後続を遠く引き離し、激坂に挑もうとしている京助に、それが聞こえるはずがない。しかし瞬一は、確と言葉にしておきたかった。アタックに反応した3人の選手がダンシングを止め、明らかに体力を消耗して、瞬一の後方に退いていく。京助の目論見はひとまず成功したと言える。瞬一は苦しく激しい息のなか、雨と汗に濡れたしょっぱい唇をなめた。
 
身体に雨が叩きつけられる中、京助は激坂を前に果敢にアタックを掛けた。アタックをするなら、最後の上りだとは理性では分かっていた。しかし今、20%の“壁”を前にしてアタックを掛けた。それは賭だった。疲労が蓄積し、雨水を吸ってサイクルジャージが重くなり、1周目、2周目より坂の難易度は増している。だが、レースが残り10kmを切ったのに、先頭にいるのが自分たちを含めて9人は多い。

 このままアタックを仕掛けずにいれば、最後の上りの時に誰かが掛けるアタックにも対応できるだろう。しかし残り人数が多すぎれば、勝利は覚束ない。だからこの坂でアタックを掛けて、最後の上りの前に人数を絞るつもりだった。

 京助と瞬一は、5位以内に入れば、来年はE1に昇格する辺りにいる。だがそれ以下だと他の選手たちのポイント獲得数に左右され。他地方で開催される、残りのレースの結果次第では、逆転される可能性がある。他地方にはそれぞれ強豪がいるし、遠征したとしてもコースを下見ができる方が有利だ。勝てる道理は薄い。だからこそ2人はこのレースに賭けていた。

 もしここで5人ふるい落とせれば、勝負がつく。3人でも大幅に勝率が上がる。問題は5人ふるい落とせなかった時、自分が最後の坂でどれほど戦えるかだ。たとえその時でも、少なくとも瞬一には、有利な展開になる。今は激しく雨が降っていて、林道が川のようになり、路面で雨粒が躍っているような状態だ。下りが得意な瞬一がリードを作れる可能性が高い。

 勝ちたい気持ちは当然ある。しかし敵は多く、目標は具体的に決まっている。ならば、より“勝つ”可能性が高い選択肢を選ぶべきだ。そもそもレースの始めで瞬一に拾い上げて貰ってなければ、終わっていたレースだ。だからここで賭けてみようとこのアタックを決めた。

 京助は全身をバネにして、ハンドルバーを引き、ペダルを踏み、推進力を生み出す。身体は熱く、雨粒は気にならない。ふくらはぎが痙攣しそうになったが、まだ堪えてくれている。幾ら空気を吸い込んでも、足りなかった。脚は動くのに呼吸器系の方が先に参りそうだ。考えるのを止めれば、真っ白になりそうな視界の中に、木々の間に延びていく坂だけがある。気がつくと他の選手は全員、京助の後ろにいた。このレースで初めて掴む単独トップは、ただひたすら心地よかった。自然に京助は笑顔になれた。

 いよいよ勾配が増し、京助は20%の“壁”に挑む。急な激しい雨で斜面から滝のように水が溢れ、滑り止めが施されたコンクリートの路面に、薄い水の膜が張られている。京助はゆっくりと、バランスをとりながら、自分の意志に反してビクビクし始めた脚の筋肉を騙し、坂を上り続ける。あざみラインを上った時よりずっと、体も心も晴れやかだ。この最終ラップ、京助はこの激坂を一番で上り詰めた。このレースに山岳賞などないが、自分で自分に山岳賞を授与してやろうと酸素の足りない脳で思う。

 勾配がなくなり、身体が水平になってもまだフラフラしていた。その時、突然、観戦客の歓声が聞こえてきた。今までも多くの声援を貰っていたのだろう。京助の勝利に、誰もが大きな声を張り上げ、傘の下から拳を振り上げていた。それに応える余裕が全くなくても、京助は未だ笑み続けていた。この先の僅かな平坦路で加速しようとペダルを踏み込んだ時、ついに脚の痙攣が最大に達した。左脚が一瞬、肉離れを起こしかけたが、すぐに止んだ。

 限界だと思っても、京助は残る右脚でペダルを回し、下りに突入する。路面を流れる雨水が跳ねて、顔や身体に掛かった。まだ速度はそれほど出ていない。京助は右のグローブで顔と唇を拭く。自分がどれほどのリードを奪えたのか、見当もつかなかった。

 後続が来る気配はない。下りでいつも聞こえていた誰かのラチェット音や風切り音が聞こえないのだ。疲れ果て、微かにピクピク動いているふくらはぎを労る。乳酸が筋肉の奥まで染みこんだ脚を回せず、京助はペダルを水平に、サドルの後ろに慎重に体重を掛けて、7連のつづら折りに入る。

 雨の中、どれだけタイヤがグリップしてくれるか分からない。2周目に何人もの選手が落車した難所の上、この大雨だ。体力も心許ない。しかも上りで握力を使い切り、ハンドルを握る手に力が入らない。どれほど気が急いても、京助は慎重にならざるを得ない。

 コーナーが迫ってくるが、ブレーキレバーを引いても減速が足りない。京助は南のポジションを思い出し、上半身を起こして空気抵抗を増やして減速の足しにする。疲れすぎていて、身体から余計な力が抜けていた。ロードバイクは水の膜が張った路面の上を滑るように、静かに下っていく。信じられないが、京助はその次のコーナーでも同じようにした。すっと曲がった。

 複数のラチェット音が京助の耳に届いたが、抜かれるには至らない。京助はベストラインを下っている。他の選手もこの状況では無理できないため、やはりベストラインを通らざるを得ない。結果としてそれが後続をブロックする形になっていた。

 下っている内に身体は芯まで冷えてしまった。南房総とはいっても秋、10月である。気温は低く、雨は冷たい。最後の上りで身体が動くかどうか心配になり、京助は軽く脚を回す。痙攣の兆候はない。今まで鍛えた身体が、京助を守ってくれている。後は瞬一が来るのを待つだけだ。

 下りはすんなり終わり、再び上り返した。普通の展開なら、ここでアタックがある。上りでまた1列になり、振り返って後方を確認する。すると4つの影までは分かったが、そのタイミングで後ろの選手がアタックを掛けてきた。京助は体力の限界が近く、アタックに反応できず、そのまま抜かれるに任せた。この先は、より勾配がきつくなっていく。その時に普通に上ることができるのかどうかすら、力を使い切った今の京助には怪しい。

 雨水がヘルメットから顔に伝わってまとわりついたが、拭く力も残っていない。頭が、腕が、脚が、身体が重かった。

(もう、動けない)

 身体はそう言っていた。体力の限界を迎えれば、心も折れる。アタックした選手を追って後続が猛烈な勢いでダンシングし、京助を抜いた。しかし、その最後の1人は、京助の隣で並んだ。その最後の1人が瞬一だった。彼は集団の中の6番目につけていた。ここで6人なら彼の力なら入賞できるはずだと、京助は喜びを覚えた。しかし、瞬一がぶつけてきた言葉は、京助が想像していないものだった。

「ここで終わるな!」

 そして瞬一は京助に背中を向け、坂をぐいぐい上って見せた。彼の背中は、ついてこいと言っていた。京助は顔の雨を再び拭うと、瞬一の背中を追い、渾身の力を込めて、ダンシングを再開した。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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ロードレース小説「アウター×トップ」 神野淳一

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