連載第18回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第18話「雨」

  • 一覧

 京助は上半身をリラックスさせ、ハンドルバーの端を軽く持ち、肺を楽にして、坂の上を見る。集団の最後尾はまだ次のカーブ手前にいる。下見をしたし、動画カメラで撮影して幾度も見返し、研究もしている。加速のタイミングも頭に入っている。遅れた、失敗したと最初は思ったが、きちんとリカバリーできている。事前の研究の成果だけではない。フィジカルも上がっているのが分かる。

◇登場人物紹介◇

・橋沢京助 三重から上京してきた大学2年生。JBCFには上京してから参戦。現在E2。

 落車のため、来季E1に昇格できるか瀬戸際にいる。オールラウンダー。

・神崎悠宇 大学2年生。京助の相方。幼い頃から走っていたが、参戦は大学に入ってから。

 既にE1昇格を決めている。クライマー。

・神崎有季 悠宇の妹。高校2年生。今年からJBCFに参戦し、好成績を収めている。

・南宗司  病気のため一度は引退した元プロレーサー。京助達を導く。

・相模瞬一 南の弟子。将来に悩んでいるとき、南に出会い、救われる。

 夜間大学に通いながら、メッセンジャーをしている。現在E2。スプリンター。

「よし」

 京助は夏の間にローラー台の上で鍛え、蓄えた自分の力を肯定する。落車したことは失敗には違いないが、今までやっていなかった、ローラー台という実走とは異なる環境でのトレーニングで、自分の欠けた部分を補えたからだろう。この先には勾配20%の激坂が待っている。それを上り終える前、加速開始の目印に決めていた道路標識を越えれば、ダンシングしなければならないし、その後、坂を下り終えるまで一瞬たりともハンドルから手を離せなくなる。今の内に呼吸を整えて、備えなければならない。

 すぐに道路標識が見えてきて、京助は呼吸を整え始める。大きく息を吐き、吸う。浅くなり始めた呼吸を、意識して元に戻す。バイクが目印の道路標識を越え、京助は坂の頂きの少し先をスプリントの終点と定めて腰を上げる。登坂が終わる前に、下りに備えて勢いをつけなければならない。そのための加速だ。

 道の左右には観戦客が鈴なりになっている。頂上付近は速度が遅くなってしまうので選手をゆっくり見られる、いわゆる人気の観戦スポットだ。彼らの本命はこの後に始まるプロツアーのレースで、今はただ、場所取りのためにいるに過ぎない。それでも手を上げて「アレ! アレ!」と応援してくれると気分が乗ってくる。ダンシングで速度を乗せるとすぐに坂の終わりが見えてくるが、フロントが浮かないように細心の注意を払い続ける。20%の坂は万一脚をついたら、再スタートが難しい勾配で、登坂中は『壁』とも思えるほどだ。

 全身の筋肉が酸素を要求している。激しく躍る心臓を肋骨の内に感じながら、レースに集中しろと己に言い聞かせる。頂上に至るまでに、京助はまた数人を抜き去った。これで集団の中盤まで戻ってきたことになる。

「うおおオぉ!」

 京助は腹の底から吼え、『壁』を乗り越える。坂の頂上の先はほんの少し平坦になっている。速度を回復させる絶好の区間だ。路面はクリア。変な動きをする観戦客もいない。気を抜かず、すかさず踏み込む。平地が終わり、やや下りに差し掛かってきた。それまでばらばらだった選手達は1列になった。

 この先はカーブが多い区間となり、下りのテクニックが要求される。本格的な下りに入ると、左右の木々の密度が薄くなり、周りが明るくなってきた。振り返ってもまだ瞬一はいないが、下りで追いつくだろう。京助は彼の力を信じ、前を向く。

 本格的に下り始め、アールのきついつづら折りの7連コーナーが始まる。京助は前の選手のラインを読みながら下り始めるが、普段より安全マージンを減らさなければついていけない。脳裏で南の下り方を思い出しながら体を動かすと今度は不思議と前を走っている選手のダウンヒルが遅く感じられた。

「橋沢ぁ!」

 背後から瞬一の声がした。京助はベストラインから外れず、瞬一が抜いていくに任せた。彼は南を彷彿させるフォームで、前の選手も抜いていった。よくぞこの道幅で抜いていけるものだと感嘆するが、京助も瞬一のラインに倣って前の選手をパスし、ペダルを回して瞬一についていく。瞬一は南と一緒に走っているだけあって、下り方もその速さも尋常ではない。

 下りが終わって上り返しになると、車間が狭まり、1列で走っていた選手達がまとまってある程度の集団が出来上がる。

 京助と瞬一はその中に入り、並んだ。

「追いついたぞ」

「信じていた」

 ニッと京助が笑うと、瞬一は不敵にも笑って見せた。正直へとへとで、本当ならとても笑える状態ではないが、不思議と笑えてきた。京助は5%の上りをぐいぐい上り、瞬一がついていく。集団の中に戻った今は力を使う状況にない。それにまだ1周14kmの11km地点。全部で3周するレースの4分の1を消化しただけだ。脚は残っているし、仲間もいる。京助はじっと耐え、坂を上り続けた。

 瞬一にとって登坂は苦痛でしかない。しかし上りを我慢すれば、それだけ苦しい時間が短くなる。また、今のレースシーンでは、ドラマの大半が登坂で展開しているから、目立った動きを見せなくとも、登坂での脱落は許されない。少なくとも自分の得意分野、ダウンヒルでリードを奪えなくなる。

 彼は自分の強みを〝動体視力〟にあると考えていた。ハイスピードで下っている最中も路面は確実に見えるし、周囲の動向も見える。最初は誰でもそれができるのだと思い、自身は特別な能力だとは思っていなかった。しかしある時、南に動体視力の良さを指摘され、レースでの武器になると言われた。それ以来、意識して周囲を見るようになり、レース中にも多くの成果を得た。

 動体視力は特にダウンヒルで大きな力になる。この前、試走した時にガードレールを蹴ったのも、それでクリアできる自信があったからだ。本番ではやらないが。スプリンターとして一流とは言えない力しか持たない自分だが、下りだけは誰の力も借りずに、リードを奪える。この力があったからこそ、今までも南のアシストをしてこられた。南がE1に上がった今では南のアシストをしなくてもいいから、自分の力を自分のためだけに使って良いのだが、前回のクリテリウムレースで結果を出せなかった。このコースの試走で京助と競った疲れがあったからだとは思うが、それでも上位に食い込めなかったのは不本意だった。

 しかし今日は違う。体調は万全だ。それにまたこの場所で京助と戦いたかった。戦って、勝ちたい。そう考えると心が躍った。彼も自分と同類なのだと今なら素直に認められる。瞬一は己の時間のほとんど全てを自転車につぎ込んでいる。昼の仕事にメッセンジャーを選んだのも、自転車に関わっていたかったからだ。自分で稼いだ金で、夜、大学に通う。親の金を当てにしなかった。

 初めて全力で打ち込めるものを見つけた。自分の力で前に進まずには、いられなかった。観戦客が増えてきた。もうすぐ2つ目の頂上だ。8%の勾配を全力で駆け上がると、その後、150m強の平坦路が現れる。しかしここで休んではいけない。勝負どころだと皆が分かっている。瞬一は力を振り絞ってかろうじて平坦路をしのぎ、下りに突入した。安全に下れるラインは決まっているが、多少無理なライン取りをしても京助より先行するつもりだった。そして木々が枝を広く広げ、昼間でも薄暗い区間に突入した。

(ここで勝負だ)

 瞬一は京助の後ろから飛び出し、クランクを目いっぱい回す。明暗の境目の場所では、人間は一瞬躊躇してしまうものだ。瞬一はそこを狙った。普段なら対向車が怖くて出せない速度で直線を下り、瞬一はブレーキレバーを握りしめずに緩いコーナーに突入する。

 減速は上体を上げて空気抵抗を増して行う。こうすると握力の残りもブレーキの熱も気にしなくて良い。それが気に入っていた。ディスクブレーキなら気にしなくてもいいんだろうけどな、とも思うのだが、今の機材はリムブレーキである。瞬一はここで数人をパスし、京助を完全に振り切った。

(ここからは自分の好きにやる)

 次のコーナーでは同時に突入する乗り手がいないことを確認し、後ろのギアを2つ落としてから進路変更して、アウトからインへ。そしてアウトへ出る時に、踏む。進路変更は最小限に抑える。最後にギアを上げて、完全にコーナーを抜けた。向こう側で落車していたら一巻の終わりだが、その時は運がなかったと諦める。

 進路はクリア。4人ほどの集団が遠くに小さく見えて、コーナーの向こうに消えていった。最後尾から追い上げてきた瞬一は抜いた選手の数を数えていた。間違っているかも知れないが、先頭グループの可能性が高い。

(捉えた!)

 既に勾配は緩やかになっており、下ハンドルを握って空気抵抗を抑え、下りの勢いを保ったまま、前を行く4人の中に入り込んだ。メンバーは有名チームのビアンカが1人、オールエイジが2人。後の2人は知らないチームだ。逃げを打って展開を変えようとしたのか、それともこの少人数で逃げきれると思ったのか。このグループの意図がどちらなのかは分からないが、5人もいれば、先頭交代ができる。やる価値がある逃げだと瞬一は判断した。

 完全に下りが終わり、山から水田地帯に戻ってきた。先導のオートバイとの距離が詰まり、ボードで後ろとのタイム差を教えてくれた。25秒差だった。タイム差を教えてくれるということはやっぱり先頭集団だったかと瞬一はほくそ笑む。スタート地点の公園施設が水田の奥に見え、観戦客が徐々に増えてきた。

 平地には風を遮るものがない。その上、今度は向かい風だ、5人のローテーションが始まり、瞬一も先頭の番になるとローテーションを担い、前から来る強い風と戦う。山を下りきって空が拓けたから空が瞬一の視界に入る。雲行きが怪しい。真っ黒な雲が急速に広がっていた。強風は前線が通過するからだろうか。天候は今後、悪化するに違いない。

(間違いなく雨が降るな……)

 瞬一は風から身を守るために頭を低くしながら、公園前の直線を走り抜けた。

(あいつ、すごい勢いで坂を下っていったな……)

 落車しなかったから良かったようなものをと、京助は呆れると同時に微かに瞬一に憤った。レースでは落車したら他の選手にも迷惑をかける。彼の先行は南の指示とは思えない。独断だろう。だが、京助は彼に助けて貰った。だから文句を言える筋合いではない。それに下りが終わればまた集団が形成され、逃げグループを追う展開になる。ここで無理をする必要はない。

 緩い下りが終わり、直線に入る。前方に2列のトレインが見え、京助はそれに乗ったが、ローテーションには入らない。風よけに利用するだけだ。瞬一が逃げたのであれば、それを助けるべきだと思う。ローテーションに自分が入ればその分、メイン集団が少し楽になってしまう。速度も上がり、逃げグループを吸収してしまうかもしれない。救って貰った分は、瞬一に恩を返したい。もちろん、自分の足も休められる。

 この先は2kmの直線だ。メイン集団は速度を上げ、逃げグループを追う。京助は隣を走る顔見知りに訊き、逃げグループが5、6人程度であることと、『壁』で逃げが成功したことを知った。あの『壁』でアタックするのだから、上りに強い選手達なのだろう。

 スタート地点では他の参加者や大会関係者が観戦しており、京助は歩道で思いきり手を振る有季の姿を見つけた。

「京助頑張れー!」

 手を上げる余裕はないが、彼女と目が合った気がした。

(有季には感謝しないとな……)

 今日のレースで改めて自分が強くなったのを京助は感じたが、それは彼女の助力があればこそだ。彼女の応援でこれまで以上に頑張れる気がする。京助を含むメイン集団はスタートラインをまたいだ。直線はすぐに終わり、山に至り、上りが始まった。

 メイン集団が崩れ、お互いの様子を見ながらのクライムが続く。しかし全体的な上りのペースそのものは1周目よりも早い。先導のオートバイが下りてきて、逃げグループと20秒差の旨を表示した。

(ここまで一気に縮まるとはな……思ったより近いな)

 京助は独り頷いた。向かい風の中、数の力でタイム差を縮められても、ここまでとは思わなかった。山に入って急にタイム差がなくなったのは、逃げグループが力を使ったためだろう。瞬一は大丈夫だろうかと考えていると、その内、前を行く逃げグループが見えてきた。平地で力を使ったためか、先頭の上りのペースは後続よりも少し遅く、頂上に着く前に京助がいたメイン集団に吸収された。そして吸収された中に瞬一の姿を見つけた。彼も京助を視認し、下りてきた。

「お疲れ」

 京助は作り笑いで瞬一を出迎えた。

「うっせえ! オレが逃げを引き戻したんだ。感謝しろ!」

「ウソつけ」

 2人とも荒れた呼吸の中だったが、言葉を交わさずにはいられなかった。瞬一はニヤリと笑い、前を向いて叫んだ。

「まだこれからだ!」

 徐々に勾配がきつくなっていくなか、2人は慎重にコースをとる。山側から谷側に向けて強い風が吹き下ろしているため、まっすぐ進まず、ハンドルを取られそうになる。その上、フロントが浮き始め、本当に地獄を見そうな雰囲気になってきた。

 10%強の上りでこれだ。頂上前の『壁』でどうなるか考えたくない。しかしコーナーに入ると風向きが追い風になってくれた。そして曲がりきったその先に2度目の激坂が見えた。

「おォ!」

 京助が歯を食いしばってハンドルを握ると、額と手の甲の血管が浮かび上がる。観戦客の応援の声が、京助の背中を押してくれた。全身の力で激坂をクリアした後も、京助は身体に鞭を打ち、平坦路を突貫していく。脚が重い。

 肺が酸素を取り入れているかどうかも怪しい。空気中に酸素があるのか怪しいと思われるほどの苦しみの中、やっと下りが始まった。ストレートの下りでは脚を回し、コーナーや荒れたところではペダルを水平にして路面の凹凸に備える。京助にとっては下りは休む区間ではない。むしろ集中力を維持しつつ、バイクのコントロールに専念しなければならないため、体力気力ともに消耗する。

 下りが上手い人ならば下りも休め、平地や次の登坂に備えられるのだが。瞬一はそのタイプだろう。羨ましいが、今の自分にはない能力だ。無いものねだりをしない。ロードレースは身体を虐め抜き、精神を削るスポーツだ。それでも京助はロードレースが楽しくて仕方がない。これまで自分が強くなったと実感することもなく、ただトレーニングを積んできた。井の中の蛙大海を知らずと自分に言い聞かせ、ペダルを踏み続けた。努力をすれば報われる。それがロードレースの世界だと胸を張って言えた。

 南のライン取りを脳内で忠実にトレースし、今まで挑戦しなかった速度でコーナーを駆け抜ける。問題なくクリア。自分もバイクもまだ限界に遠かったことを思いしらされた気がした。その時、遥か前方から声が響き渡ってきた。

「落車ぁぁーあ!」

 声は遠い。まだ距離があると思われた。京助はブレーキレバーを握り、急なラインの変更に備える。レバーを引いて徐々に速度を削ぎ、次のコーナーに突入する。7連のつづら折りの3つ目で、先行していた選手がガードレールに貼りつくようにして倒れ、また、その選手に引っかかった別の選手がバイクと共に路面に伏せていた。

 猛スピードで下っている最中にできることはない。急に止まれば二重事故を誘発してしまう。ただ、後方から来る選手のために、同じように落車と叫ぶだけだ。4つ目のコーナーでもガードレールに寄り添う形で止まっている選手がいた。恐らく強風の影響で曲がりきれず、膝をガードレールに強打してしまったのだろう。コケが生えた滑りやすいコーナーも、身体を水平に保ち、車体を傾け、外脚荷重でタイヤを路面に押しつけて、クリアする。

 最初の1周目では集団で下り、それほど速度も出ていなかったので、皆、勢いで下れた。しかし2周目は集団の密度が薄く、速度も出ている。カーブのアールを見誤って、適切なブレーキポイントを通過したり、コケ等のコースの落とし穴をチェックし損ねれば、落車する。もちろん経験が浅くて、テンションが高くなって突っ込んだ選手もいるだろう。そういった初歩的なミスを犯さずに済んだのも、事前に下見をしたお陰だ。

 冷静であれと自分に言い聞かせて7回目のつづら折りをクリアして、またすぐに上り返す。しばらくすると無事に瞬一が追いついてきて、京助に訊いた。

「前に何人いると思う?」

「3人落車で12人か。『壁』を上りきるところで15人だった」

 京助はメイン集団にいる間に選手の数を数えていた。戦略を練るには残り人数を把握する必要があるからだ。

「まだ人数が多いな。チーム戦略をとられたらやっかいだ」

 瞬一は上りながら、考え込むような表情をした。京助は決心し、言った。

「この上りで絞られるとは思うが、最後の直線でまた集団ができる。そして最後の3周目に入った後の上りで10人以下になるだろうな。その中に俺たちがいなければならない」

 そう言い終えると京助はダンシングを始め、瞬一に先行する。しばらくしてまた傾斜が厳しくなり、京助はサイクルコンピューターの勾配を示す項目に目を向ける。それまで5%ほどだったそれが、今では8%を示している。瞬一は追随できているだろうかと脇の下越しに後方を確認すると、少し後ろに彼の姿が見えた。京助は前を向き、口元を緩める。彼も自分の勝利のために、登坂にも力を注ごうと決めたのだろう。

 空がまた一段と暗くなり、風の匂いが変わった。するとすぐに大粒の雨が路面に落ちてきて、京助たちの背中を叩き始めた。埃が雨を吸い込むと、下りはさらに滑りやすくなる。また雨そのものも視界を妨げる。

「まだ一波乱ありそうだ」

 京助は思わずそう呟いた。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

この記事のコメント

利用規約順守の上ご投稿ください。

関連記事

この記事のタグ

ロードレース小説「アウター×トップ」 神野淳一

  • 一覧

新着ニュース

もっと見る

ピックアップ

e-BIKE最新特集

スペシャル

自転車協会バナー

ソーシャルランキング

インプレッション

インプレッション一覧へ

連載