連載第17回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第17話「レーススタート」

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 1周14kmのコースを、E2は3周する設定になっている。選手は50名強。スタート順は京助が前から5列目、瞬一が最後列だ。最初の課題はスタート時の混雑を無難にやり過ごすことだ。焦って好位置をとろうと無理をする選手がいないとも限らない。瞬一が最後列を選んだのは、冷静に他の選手の動きを見て、混雑に巻き込まれないためなのだろう、と京助は想像する。

◇登場人物紹介◇

・橋沢京助 三重から上京してきた大学2年生。JBCFには上京してから参戦。現在E2。

 落車のため、来季E1に昇格できるか瀬戸際にいる。オールラウンダー。

・神崎悠宇 大学2年生。京助の相方。幼い頃から走っていたが、参戦は大学に入ってから。

 既にE1昇格を決めている。クライマー。

・神崎有季 悠宇の妹。高校2年生。今年からJBCFに参戦し、好成績を収めている。

・南宗司  病気のため一度は引退した元プロレーサー。京助達を導く。

・相模瞬一 南の弟子。将来に悩んでいるとき、南に出会い、救われる。

 夜間大学に通いながら、メッセンジャーをしている。現在E2。スプリンター。

 京助は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、スタート時刻を待つ。サイクルコンピュータの時計が10時ちょうどを表示すると号砲が鳴り、レースが始まった。

「きょーすけー! 負けるなー!」

 有季の応援が聞こえ、俄然やる気が出てきた。最初はゆっくりと進む。先導するオートバイから合図が出て、本当のスタートとなる。この間に周囲を素早く見回し、他の選手の動きを確認する。

 先導のオートバイの速度が乗り、最前列が腰を浮かせ気味に速度を乗せていく。京助も追随し、先頭から順に整然と進む。瞬一はいつの間にか後ろにおり、和を乱す後続はいない。出だしは上々だ。

 数十秒後、オートバイから合図が出た。集団の速度は一気に上がる。やや上り調子の一車線半の舗装路。右は水が抜かれた水田で左手に山が見える。路肩の状態は悪い。ぬかるんで、枯れ葉が積もり、枯れ枝が落ちている。レース前に清掃をしたのだろうが、風のためにあまり意味がなかったようだ。

 まばらにいる路肩の観戦客らは立ったまま、またはレジャー用の椅子に座って応援している。心配していた風は道ばたの雑草の揺れ具合から見て、追い風のようだ。空は相変わらず灰色の低い雲に覆われている。まだ明るくても、雲の流れが速い。天候の急変もあり得る。

 そう思った正にその時、追い風が強い横風に変わった。先頭集団を形成する経験豊富な乗り手は風の変わり目を敏感に感じ取り、動き始める。前方の集団が一旦崩れ、10人ほどで平行四辺形の隊形“エシュロン”が形成され始める。一見しただけではトレインが斜めに二列並んでいるように見える。

左からの強風で集団が分裂し、エシュロンを組む選手たち。この場合、反時計回りにローテーションを行い、横風に対しての負荷を分散させている Photo: Yuzuru SUNADA

 追い風や向かい風であれば、選手達は前のバイクの後ろに着く。そしてなるべく近い方が良い。何故なら、前のバイクが自分の前の空気を押しのけている分、空気抵抗が少なく済むからだ。前の選手を風よけに利用するドラフティングは自転車競技の大原則であるが、横風の場合は通常時と異なり、前の選手の斜め後ろが空気抵抗が最も少なく済む場所になる。風を切ると同時に、当然だがバイクも進んでいるためである。

 今回は風が右から吹いているため、トレインは左下がりに斜めに並んだ。そして5台ほど並ぶと道幅一杯となった。もっと広い道ならば10台以上斜めに並ぶ時もある。

 当たり前だが、選手1人が先頭を引ける時間は限られている。だから普通のトレインと同様にローテーションするが、車列の後ろに回るのではなく、斜めに後退する形になり、2列目に移る。そして1列目の右から2番目に走っていた選手が右端に移り、先頭を引く。2列目の左端の選手は前の列の空いた左端に上がり、ローテーションを担う。つまり、2列のように見えても、実際は10台で輪を形成し、ローテーションをしている。この、輪になっている状態をエシュロンと呼ぶ。道幅が広くならない限り、この輪の中に後続の選手が入り込むのは難しい。

最後尾の選手は、道幅の関係でこれ以上右側を走ることができず、左側に風除けの選手が居ないため、最も苦しい立ち位置となっている Photo : Yuzuru SUNADA

 普通、残った選手は、またその後ろにエシュロンを編成して、集団を維持していく。だが、このレースではまだ2つ目のエシュロンが編成されていない。ヨーロッパであればジュニアでもこなす隊列だが、日本では練習するチームも限られているのが現実だ。残りの選手は先頭を行くエシュロンの後方に着き、真似ようと斜め後ろにつくものの、周囲の選手が前後のローテーションしか知らないのか、混乱していた。このままでは横風で無駄足を使い、エシュロンを編成する10人に大きく差を付けられてしまう。アマチュアのE2では、エシュロンを理解し、こなせるのが前をいく10人程しかいない、ということでもある。

 京助もエシュロンを知識としては知っていても、これほど強い横風の中のレースで初めてだ。どう動けばいいのか、よく分からない。今までも似たようなことがあったが、その時は悠宇がいてくれた。彼がいたからレースで動けていたことを京助は痛感した。

 京助はなるべく風をやり過ごせそうな左端をキープしながら、エシュロンを追いかける。そして、エシュロンを続ける選手達の動きを見ながら、どうにかして真似しようと考えていると、不意に前を走る選手が進路を右に変えた。

(しまった!)

 正面に目を戻したその時、鈍い軋み音が京助の耳に入った。それとほぼ同時に、ハンドルバーから衝撃が伝わってくる。振動と異音に心臓の鼓動が大きく高鳴り、呼吸が一瞬止まる。だが、スタンディングで鍛えたバランス感覚が京助を助け、バイクはまっすぐ走行し続ける。

 脚は動く。車体のバランスも取り戻した。そもそも最初から大した衝撃ではなかった。風で飛んできた枯れ枝を踏んだのだろう。前の選手は枯れ枝を避けるために進路を変えたのだ。目の前の障害物に目が行かないなんて迂闊だった。

 ハンドルバーを握る手から力みを抜き、前のバイクに追いつこうと京助がペダルを踏み込むと、今度はリアからガサガサと異音が聞こえてきた。目を向けるとリアステーと後輪の間に小さな枯れ枝が挟まっている。さっき踏んだ時のものだろう。サドルに腰を掛けたまま京助はリアに手をのばし、枯れ枝をとる。

 しかしその代償は大きく、面を上げると集団は既に3、40mの彼方にあった。必死で脚を回しても、この強風の中では1人では追いつけない。仮に追いついたとしても脚を使い終わって、結局、集団からふるい落とされる。逆に逃げが発生し、先頭が2人、追う方が集団だった場合、50mの差は余裕で射程圏内にある――数の力にはそれほどの優位性がある。

 今日の、いや、今年のレースは終わった。

(まだスタートしたばかりなのに)

 京助は苦々しく頭の中で言葉にし、京助は自身に落胆する。サポートしてくれた悠宇や有季に申し訳なかった。その時、声がした。

「早くしろ!」

 京助の風上になる2時方向に瞬一の姿があった。

「相模!?」

「協力しろって言われてんだよ!」

 瞬一は風の中、振り返って答えた。遅れた京助の風よけとなるため、彼はわざわざ下がってきたのだった。

「お前……」

 京助はそれ以上言葉にせず、彼の風下の8時方向についた。ドラフティングに入ると急に風の抵抗が減り、明らかに楽になった。言葉を口にする時間がもったいない。話さなければその間に呼吸を整えられる。瞬一を当てにしていないと言い放った自分が、情けなかった。ここは彼を頼るしかない。

 10秒後、瞬一が下がり、代わりに京助が彼の斜め前に出る。先頭になると風を直接受けてまた空気抵抗が大きくなる。だが、速度は落とせない。その後しばらく引き、また瞬一に先頭を任せる。少しでも空気の分厚い壁から逃れようと頭を下げ、京助は確実に前を見る。そして必死で脚を回して、速度を維持する。山に入るまで1kmもない。ひたすら我慢だ。

 息が上がってきて肺が熱くなり、喉が焼け、血のような味がするが、レース序盤に於いてはその熱さが心地よい。盟約を守ってくれた瞬一には幾ら感謝しても足りない。恩は返さなければと思う。水田地帯を抜けるとコースは左にカーブし、雑木林の中の1本道に入る。

 京助たちがカーブに飛び込むと、前方の集団はエシュロンを崩して道幅いっぱいに広がり、坂を上り始めていた。左にカーブして、横風が追い風になった上、この先は3.6kmの登坂路となる。京助は集団との距離を詰めるべく、気合いを入れる。後悔はある。しかしそれらは今更考えても仕方のないことばかりだ。

(まだ焦る場面じゃない)

 レースはまだ始まったばかりだ。リズムを意識しつつ、京助は脚を回した。瞬一たちと集団の距離は50m近く広がっている。瞬一は京助を引きながら、自分の選択が正しかったかはレースが終わった後に考えればいい、と脳裏で繰り返し言葉にしていた。

 タイム差にして5秒弱。空気の壁が2人の前に立ち塞がっている。集団はコーナーを回って姿が見えない。だが、諦める訳にはいかない。どんな理由だろうと落伍した時点で、その選手と集団にする選手との間には大きな力の差がある。単に運が悪かっただけだとしても、運に劣っている。なるべくしてなったのだ。放って置いても良かった。しかし瞬一は南から京助と協力しろと言われていた。彼にとって南の言葉は絶対だ。だから戻って京助を拾った。それにここで恩を売っておけば、後々恩を返してくれるかもしれない。

 彼が京助の落伍当初に思い描いたのは、集団より時速1~2km速く走って徐々に距離を詰め、その後、スプリントの射程圏内に入ったら一気に加速して集団に潜り込むというパターンだ。しかし射程圏に入る前に平地区間が終わり、登坂区間となった。この展開が吉と出るか凶と出るかは風向き次第だ。勾配が緩い区間はすぐに終わる。だから加速を済ませてから本格的な上り坂に突入した。

 上り坂は舗装された林道で、普段から車の通りは少ないようだが、路面の経年劣化が著しい。雑木林には落葉樹と針葉樹が混じっており、所々紅葉していて、落ち葉もある。落ち葉の上だとタイヤが滑るため、気をつけないとならない。山に入ってからは京助が引いてくれている。上りでの先行はペースメーカーとしての役割が大きい。京助は後ろを確認しつつ、瞬一は余裕を見せつつ、上っていた。

 苦しいだけの上りは大嫌いだが、今は彼に弱みを見せたくなかった。勾配は6%程度だろう。登坂では自分とバイクの重量を坂の上まで引き上げねばならない。坂で速くなるためには体重を減らし、一定の時間休まず、脚を速く回し続ける練習をする必要がある。しかし瞬一はそんな練習をしてきていないし、減量も適当だ。本音はその手の練習が嫌いだった。ロードバイクは踏んでスカッとするものだとする思いが強かった。

 京助は坂も平地もいけるオールラウンダーだ。正直、羨ましくも思う。集団がカーブを曲がりきり、雑木林の向こうに消えた。道幅とカーブのR(曲線半径)から推し量るに、少し距離が詰まったように思われた。理論的には、平地よりも坂の方が距離を詰めるのは楽だ。集団より時速1km速ければ単純計算で1分間に10mを詰められる。坂では巡航速度が落ち、空気抵抗が少なくて済む。つまり集団から離れているデメリットも少ないことになる。

 心配していた風向きは自分の助けになっている。谷側から吹いてはいるが、だいたい追い風だから、その分、楽だ。京助が後ろを振り返り、瞬一の隣まで下がった。

「どうだ?」

 京助が声を掛けてきて、瞬一は息を弾ませながら応えた。

「うっせえ」

 京助の顔を見ると、目に力があり、呼吸も落ち着いていた。

「済まなかった」

 京助は早口で言い、再び瞬一を引き始めた。早口なのは呼吸が乱れるのを恐れたからだ。まだ謝るような局面ではないと思うが、言わずにはいられなかったのだろう。コーナーが終わると、また集団が見えるようになる。しかしそれは最後尾に過ぎず、集団が次のコーナーを曲がると見えなくなった。それでもさらに距離が詰められたのが分かったし、ほとんどの選手がシッティングで、上っているのも分かった。追いつくにはいい傾向だ。道幅も広い。抜かすのにも苦労はないはずだ。

「食らいついてこいよ!」

 京助はそう叫ぶと、サドルから腰を上げて大きくペダルを踏み込み、ダンシングし始め、バイクを加速させた。ダンシングすると大きく踏み込む分だけ、一時的に速度を得られる。しかしエネルギー効率は悪く、シッティングよりも体力を消耗する。

 しかし京助がこのタイミングでダンシングを始めたのには理由がある。ほんの短い区間だが、この先が緩い傾斜になるのだ。傾斜が緩くなれば、その分、スピードを上げられる。そのポイントを見過ごして加速せず、漫然と上がるとタイムロスになる。特にこのように、前の集団に追いつこうとしているシチュエーションでは、決して無駄にできないポイントだ。

 瞬一も下見をしている。彼の意図に気づき、ダンシングでバイクに速度を乗せる。最後尾に追いつき、そして一気に数人をごぼう抜きにした。そして京助はシッティングに戻し、上にいる集団に目を向けた。瞬一も腰をサドルに下ろし、ガクガクし始めそうな脚に鞭を打ってクランクを回し続ける。

 緩い勾配の区間はすぐに終わり、今度は8%の登坂が始まった。これほど上りが強ければ、この登坂の間に先頭集団に追いつけるはずだが、京助は瞬一を気にして、過度の負担が掛からないよう、計算しながら走っている。彼は同盟を忘れていないようだ。

「オレはまだ行ける。なめるな」

 悔し紛れに言うと、京助は応える代わりにケイデンスをそのままに、ギアを1枚上げた。正直、瞬一には相当きついが、彼に弱いと思われたくなかった。ギア1枚分速度が乗ると集団が射程圏に入ってきたが、上り坂で長く列が伸びているだけで、本当の先頭はずっと先にいることも分かっている。それに頂上手前には20%の、文字通りの激坂がある。

「下りで待ってる」

 京助はそう言い放つと、深く息を吐いた。登坂力の限界が近かったから、瞬一はその言葉をありがたく感じた。

「行け!」

 瞬一は何も考えず、そう反射的に応えていた。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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