連載第16回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第16話「闘いの始まり」

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 風は、全ての自転車乗りを等しく天国へも地獄へも連れていく魔物だ。その変わり目が悲劇の入り口となるか、天の助けとなるかは時の運。しかし風と空気抵抗を御せずにロードレースで勝利することはあり得ない。だから自転車乗りたちは渡り鳥がそうするようにプロトンを形成し、風に立ち向かう。その中にも平等はなく、あるのは弱肉強食の小世界だ。それ故にロードレースのドラマはそれらプロトンの中で生じ、消える。

 京助は南房総の10月の空を仰ぎ、風を見た。体育の日の3連休は晴れの日が多いというが、今年は違うようだ。どんよりとした灰色の雲が、強い風に流されていた。

 東京を出発した時と比べると風は強さを増しつつある。天候もレースを左右する大きな要素だ。朝チェックした天気予報専門局の予報士は、前線が近づいていると言っていた。大きく崩れるのは午後からのはずだが、予報より早く前線が来ているのかもしれない。

 集合場所の公園駐車場には、スタートを前にして、ローラー台でアップしている選手たちが大勢いる。京助と瞬一はアップを終わらせたばかりで、今はこの後のE1のレースに備えて、悠宇と南がローラーを回していた。

 京助はストレッチをしながら、レースのことを考え続けていた。先月走った時と比べると、だいぶ気温が下がって、過ごしやすくなっているが、荒れそうな天候のことを考えれば、寒く感じる局面も考えられる。悪天候に備えて、アイウェアは透過率が高く、無色に近いものを選んだし、サイクルキャップも鍔のあるものにしたが、ウィンドブレーカーは要らないと判断した。荷物になるからだ。

「緊張しているな?」

 南がローラー台から下りて、京助に声を掛けた。

「雨のレースは初めてなんです」

「君は晴れ男なんだな。だけど緊張しているのは天気のせいだけじゃないだろう」

 京助は頷いた。

「分かりますか」

「相模も道中、無言だったからな」

「彼の場合はクリテで成績が振るわなかったから、後悔しているのでしょう」

「関東では最後だが、まだ来月頭に石川でレースがある。遠征しても良い。あまり気負うな。それでもダメなら来年がある。君は若い」

 元プロレーサーの南に言われると説得力がある。病気で一度引退した彼からすれば、自分の焦りなど大したことではない。今、南という導き手が側にいることを京助はありがたく思う。それでも。

「――俺はここで入賞を狙います」

 どんなレースでも勝ちに行くのが、ロードレーサーの本能だと思う。南は笑って京助の肩を叩き、ローラー台に戻っていった。開脚してストレッチを続けていると、不意に背中が押された。掌から伝わってくる感覚だけで彼女と分かった。その感覚は京助にとって見えない力になる。

「頑張ってよね」

「当たり前だ」

 E2の選手はスタート地点へ集合するようアナウンスが流れた。

「じゃあ、行ってくる」

 京助は立ち上がり、有季を確と見上げた。有季は小さな声で言った。

「――けが、しないようにね」

 京助は頷いた。南が京助と瞬一に言った。

「楽しめば良い。そうすれば笑えもする」

 瞬一は大きく頷き、京助は口を開いた。

「楽しんで、勝ちます」

「その意気だ」

 京助はヘルメットを確認し、瞬一と共にスタート地点に向かった。いつもと同じレースをすれば良いと分かっていても、緊張した。そしてスタートを待つ列に並び、その時を待った。

 瞬一の場合、いつもならスタート前は、落ち着かないものだった。今年からレースを始めた彼はその経験回数が少ない上、レースへのモチベーションを大なり小なり疑うからだ。しかし今日は不思議と落ち着いている。何故だろうかと考える。

 今までは南のために走ってきた。E1昇格も来年も南をサポートするためだと決めていた。だがこのレースはそのためではないと、自分でも分かっていた。何か遺恨がある訳ではない。ただ、京助に勝ちたい。単純にそれだけだ。理由は分からない。江戸川で南を追いかけていた時の、自分でも執拗と思ってしまう熱さが、瞬一の中に再び生じていた。ただ、それを喜ばしいことだと今もって自身、認められずにいるのが問題だったが。

 今日の南からの言葉は「勝て」だった。が、同時に「協力しろ」とも言われた。協力はするが、それはゴールスプリントが始まる前までだと、理解している。南は今、観戦客に混じってスタートを見守っている。こんな先が見えない時代に、ロードバイクに出会えて、本当に良かったと思う。何かに流されずに生きていけるだけで、どれほど価値があるかと思う。

「オレも楽しめばイイんスよね、南さん」

 南は瞬一の視線に気づき、言葉も聞こえたのか、ビッと親指を立てた。南は瞬一の言葉を聞けて嬉しく思った。勝ち負けは時の運だが、楽しむことは自分自身の問題だ。それに楽しいと思うことで、笑うことで普段以上の力も出せる。だから楽しめば良いと言った。

 返り咲かずに終わるものかと思う気持ちは今も強くある。将来への不安も抱えたままだ。しかし今が楽しいのは、若い3人に囲まれているからに違いない。若さとは可能性だと南は思う。人生において、“何か”に情熱を注げるのはほんの限られた時間だけだ。多くの人間はその限られた時間すら、無為に過ごしてしまう。

 だが、この若い3人はその“何か”にロードバイクを選び、その対価としてレースに出て、勝つ可能性を得た。それを傍らで見ることもまた、自転車に情熱を注いだ者の特権であり、ある種の快感もある。だからこのまま指導者として身の振り方を決めて、安堵してしまいたいと考えてしまう弱さも見つけていた。しかし指導者になるにはまだ早いと己に言い聞かせる。

 瞬一と京助と悠宇、そして自分の4人でE1を戦えば、面白くなるはずだ。来期、旋風を巻き起こせば、また実業団から声が掛かるかもしれない。実際はそう考えると焦るが、今はそれを心の奥深くに沈める。楽しめば結果がついてくる。そう言えるだけのことを重ねてきた。自分を信じ、そして若者たちに期待をし、南はレースの始まりを待った。

 悠宇はスタートラインの側で、ロードバイクにまたがる京助の隣に立ち、戦闘の始まりを待っていた。

「今日のレース、勝てるな」

 今の京助からは、気負った様子は窺えない。負傷している間も地味に練習を続け、京助は以前よりも強くなっている。コースの下見も十分したし、入賞は難しくないと悠宇には思えた。

「相模は当てにしていないけどな。協力しろと南さんに言われていたけど、実際のレースではどうなることか」

「即席で仲間なんかできやしないからな…」

 せっかく組む相手が見つかったのにと、悠宇は少し残念に思った。

「でも、マイナス思考は捨てた」

 京助からはいい笑顔が返ってきた。

「それでこそ僕の相方だ」

 悠宇は今日の京助にいつにも増して期待を抱く。だが、何が起こるか分からないのがロードレースの世界だ。自分のレースも気を引き締めていこうと思う。しかし南の言うように楽しむことも忘れたくないとも思う。楽しいと思うからこそ、ロードバイクに乗り続けた。それが自分の原点だ。

 南のプロとしての戦歴も事情は、悠宇も知っている。日本の頂点であるプロツアー、しかも名門チームにいた人が、今はこうやって草レーサーに囲まれて、第一線への復帰に懸けている。シンプルにリスペクトするし、彼から学ばなければと強く思う。自分がプロに上がるためにも、この出会いと思いを力に変えなければならない。

「良し、気合い入った!」

 京助は自分の頬を叩いた。悠宇は、自転車に誠実なこの男が好きだ。ここで彼が勝ったとしても、この先、自分達には幾つもの困難が待ち受けているだろう。

(それでも京助と一緒にやっていきたい)

 悠宇はそう、心静かに願った。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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