連載第11回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第11話「再起」

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 (ここで終わるものか)。南はクランクを回しながら、自分に言い聞かせる。土曜日の朝、南は暗い時間に家を出て、江戸川サイクリングロードを北上する。夏の間は朝夕の涼しい時間帯にトレーニングをする。灼熱の陽光の下で身体を動かせば、体調を崩す。この時間帯でも熱中症が怖い。

 常磐道の下を通り、野田の醤油工場辺りから身体が動くようになる。今の課題はシッティングでのパワー向上だ。あざみラインを上るのに1時間掛かるのでは、この先、希望が持てない。シッティングのまま全力でペダルを踏み下ろし続けること20秒。その後は回復時間を置いてまた全力で踏むを繰り返す。

 練習を地味に、丁寧に続けたとしても、プロツアーに戻れるとは限らない。しかし練習しなければ身体はさび付くだけだ。何より、身体が走ることを求めている。

 まだ32歳だ。自転車の世界はプロスポーツの中では比較的長く戦えると言われている。自分もあと5年は戦いたいが、そのためには入賞し、プロツアーの参戦資格を得なければならない。資格を得た後も、プロチームから声が掛かるまでは勝ち続けなければならない。ならば仲間はどうしても必要だった。

 始発が動いていない時間に東武野田線の鉄道橋をくぐり、空が薄く光が差した頃、関宿城に至る。関宿城は江戸川サイクリングロードの終点にある天守閣風の県立博物館で、普段は休憩するホビーレーサーで賑わっているが、この時間帯ではその姿はなく、犬の散歩の人がいるくらいだ。

「南さん、おはようございます」

 ほとんど人影がなかったのに、トイレ脇で声を掛けられ、南は満足げに頷いた。

「おはよう。来てくれたのか」

 悠宇は女の子のような綺麗な顔に笑みを浮かべ、頷いた。「神崎くんだったな。あざみライン47分台は見事だ。どうして君みたいな奴が、どこのクラブにも属さず、学校競技にも出ず、無名だったのか、不思議に思うよ」

「父が元MTB(マウンテンバイク)のプロレーサーでして。高校までは趣味にしておけって言うんです。若い内にレースに出ると、欲が出すぎるかやる気がなくなるって。別に強制されてロードに乗ってるんじゃないのに」

「いいオヤジさんだ。オレもそれでいいと思う。だがこれからは違うな。自分の道は自分で選ぶものだ。親が敷いたレールの上を行くことが正しいことじゃあ、ない」

 南は彼の速さの理由が分かった気がして、2度、3度と頷いた。

「――それで、お話があるんですが」

「皆まで言うな。手を組もうっていうんだろう?」

 悠宇は深く頷いた。

「瞬一は今日仕事でな。だがこの前の帰りの間に渋々納得して貰ったよ」

「ご自身の意見はどうなんですか? 南さんのことは、調べました。集団を動かせたのも納得です。顔が知れていて、力があれば……僕らなんか相手にしなくてもいいのかも、なんて思えてしまえて……」

 調べようと思えば、情報はそこらに転がっている。経歴を隠す気はないが、自分から言うことでもないと南は思う。

「基本的には申し出を受けるつもりだ」

「――良かった。僕は来年もあいつと一緒にE1で走りたいんです。南さんがいてくださったら、心強いです」

「しかし、上に行けば行くほど、そんな甘い考えは通用しなくなるぞ……」

 南は若者をつい心配してしまう。昔ならこんなアドバイスをしなかったが、これが歳を重ねたということかと自らを意外に思った。

「それは、分かってます、けど」

「しかしオレも偉そうなことは言えない。今は君と似たような状況だ」

 南は瞬一の顔を思い浮かべた。バカな奴だがこれまで一緒にやって来た仲間だ。プロ意識を過剰に抱いて戦っていた頃の自分なら想像もできないだろうが、今は彼をプロの世界に連れていってやりたいと考えていた。

「――相模瞬一って彼のことですか」

「そうだ。手を組むかどうかは、君が信じるに足るかを確かめてからにしたい。それにあの少年の方も気になるしな」

「そういうことでしたら、今日にでもお引き合わせしますよ」

 悠宇は目を細めた。彼の行動はシンプルなようだ。嫌いではない。南は水分補給をした後、悠宇と共に江戸川を下った。後ろから悠宇の走りを見て、綺麗なフォームだと感心した。レースの時にはそこまで見る余裕がなかったから、今日は観察を続ける。この子はクライマーを目指して身体を絞っているようだが、鍛え方次第でプロツアーでもエースになれる素質を持っていると南には思われた。右膝のことがなければこの少年とも出会えなかっただろう。

 3年前、プロツアーを戦っていた南を襲った病魔は“悪性骨腫瘍”だった。南の場合、骨腫瘍ができたのは右膝だった。20年前と比べると骨腫瘍の生存率は飛躍的に向上し、7割以上となっていたが、膝の切開手術は自転車選手にとって、致命的だ。自家骨移植と人工関節の併用で膝関節を再建し、リハビリを始められるようになるだけでも3カ月掛かった。

 所属元の帝都自動車は彼との契約を打ち切ったが、子会社での仕事を斡旋してくれた。しかし南はそれを潔しとせず、実家がある千葉に戻ってきた。彼の実家は兼業の梨農家で、広い家屋があり、選手時代に貯めた金もほとんど使っていなかったので、しばらくはリハビリに専念できた。しかし先の見通しはまるでなく、年老いた両親の目も辛かった。南は歩けるようになると実家の農園を手伝いつつ、ロードトレーニングを再開した。

 最初はまるでダメだった。病魔との戦いで衰えた身体は自分のものではないようだった。幾度も枕を涙に濡らしたが、江戸川の向かい風に逆らう内に、力の入れ方を思い出し始めた。病魔に冒される前の彼は力で漕ぐタイプだったが、ロードバイクはパワーだけではないと実感しながら、1つずつ元の力を取り戻した。

 その間に、江戸川サイクリングロードで相模瞬一という若いロードレーサーと出会い、再びレースへの復帰を決めた。そしてこの春、南は相模と一緒に実業団登録し、E3からやり直し、E1までは戻ってきた。

 ロードレースの世界は狭く、レース会場に行けば、昔の仲間に必ず会う。しかし南は今の自分の力では彼らに合わせる顔がないと思えて、レース直前に会場入りし、終了後、すぐに立ち去るようにしていた。恥ずかしいのか、情けないのか、力を取り戻してから会いたいと思っているのか、その全てか、自分でも分からない。今でも、以前の自分にどこまで戻れるのかと惑いつつも、ロードレースという戦いの場には武者震いを覚える。こんなところで終わるものかと自分に言い聞かせ、強くなった日差しの中、走る。前を走る少年との出会いが、自分に何を運んでくるのかを考えながら。

「そうそう、その調子」

 有季に見守られながら、京助はMTBを使ってスタンディングの練習をしていた。練習場所がフォルゴーレ前の公園なのは、店長がロードの朝練に出かける前に彼のMTBを借りたからだ。スタンディングとは、乗ったままバランスをとり、その場に静止するだ。要するにライディング時のバランスを磨くための練習である。フラフラと前後し続ける京助に、有季が声を掛ける。

「BBに乗って、BBに」

 BB(ボトムブラケットの略)とはクランクの軸部分のことである。サドルに座らず、ペダルを水平にし、ハンドルバーを傾け、ブレーキの加減で前後バランスをとる。まだ骨折が完治していないため、転倒を極力避け、有季の補助つきでの練習だ。最初は5秒程度しか保たなかったが、今では30秒ほどもできるようになっていた。

 落車したのはバランス感覚がないからだと有季に指摘されて、渋々練習を始めた京助だったが、いざやってみると有意義に思われた。低速時のコントロール力が上がり、車体への意識も変わる。有季は元々この手のムーブが得意だったが、それはMTBライダーだった父親の影響だと言っていた。今回は20秒ほどしか保たなかった。公園の時計は8時前だが、地面も風も熱くなり始めている。外で練習をしていられるのも公園がマンションの影になっている間だけだ。

「今日はこれくらいかな」

「そうだね。またプールに行こうか」

 京助は有季の肢体を思い出し、言葉を失った。

「――いいけど」

 そしてこれを最後にしようと、スタンディング練習を再開すると、店の前にロードバイクが2台止まった。店長がロードの朝練から帰ってきたのかと思ったが、そこには悠宇と、どことなく見覚えのあるロード乗りがいた。余所に目を向けたため、京助はバランスを崩して落車しそうになったが、見守っていた有季が京助を抱きかかえ、事なきを得た。

「もう、気をつけてよね」

「助かった」

 有季から漂ってきた柑橘系の香りが鼻をくすぐると同時に、額にスポーツブラ越しの柔らかさも感じ取った。京助は自分の血圧が急上昇するのが分かった。有季もそれを意識したのか、京助からパッと離れた。

「朝から何してんの?」

 バースタンドにバイクを掛け終え、悠宇が呆れた顔で2人を見ていた。

「スタンディングの練習……」

 京助がぶっきらぼうに答えた。

「スタンディングか。ツール・ド・フランス5勝のベルナール・イノーもバランス感覚を養うために、ホッピングやダニエル、サイクルサッカーとかも勧めてたな」

 どことなく見覚えがあるライダーが京助に言った。

「富士山ヒルクライムの時、俺を引いてくれた人ですよね。それにもてぎでも表彰台に上っていました」

「覚えていてくれたか。オレは南。こっちの彼にスカウトされて来てみた」

 南は少し嬉しそうに言い、悠宇は小さく頷いた。

「俺は橋沢って言います」

「アタシは神崎有季。そこにいるのは兄です……けど、南さん」

「けど、なんだい?」

「いや、なんでもないです」

「南さんとはこの前のレースで知り合ったんだ。もう1人、僕らと同じくらい若い人がいるだけで、お互いメンツが足りないんで、お互い協力しようと思って」

 悠宇の言葉に、京助は心強いと頷いた。修善寺での話は京助も聞いていた。経験豊富な人を味方になれば、大きな力になる。

「宜しくお願いします」

「君たちは素直で良い奴らだな。ウチの相模とはエライ違いだ」

 南は京助の身体を上から下まで眺めた後、ぱたぱたと筋肉を触り始めた。「故障中ってのに、ずいぶん鍛えているじゃないか」

「固定のローラー台に乗っているので……」

「フォームも見てやりたいが、その前にマッサージだな。慣れないスタンディングでふくらはぎが張っているぞ」

「はい」

 京助は直立不動になって答え、悠宇は首を傾げた。

「いろいろ言ってくれるのは嬉しいですけど、なんでそこまでしてくれるんです?」

「こういうのを放っておけん性質でな。むずがゆいんだ」

 公園の芝生に京助を寝かせると、南は京助のふくらはぎのマッサージを始めた。

「うわぁー! ひでぇー!」

 悲鳴を上げる京助の顔を有季が覗き込み、怪訝そうに訊いた。

「気持ちいいの?」

「なんとも言えん。痛い、痛いけど~」

「痛いのは筋肉が固くなって、状態が悪い証拠だ。君もやってみるかい?」

 南が有季に声を掛けると、有季は両手で遠慮して見せた。

「マッサージも本格的に覚えたいんですよね」

 そう言う悠宇に南は微笑んで頷いて見せた。

「セルフマッサージは習慣にしておかないとならないぞ」

「うおぉ……うわぁあ!」

「まだ朝早いんだから大声を出さないの!」

 有季に口を塞がれ、京助はただ悶えた。その後、南は京助のフォームを見てアドバイスをし、トレーニング方法にも言及しつつ、これまで参戦したレースの話をした。それらの話はとても勉強になったが、あまりにも情報量が多すぎて、どれだけ頭に入ったのか分からなかった。

 南は年下の2人に対しても頭ごなしに言うことはなく、どこか達観している様子が言葉の節々から窺えた。彼はフォルゴーレが開店する前に松戸に戻っていったが、去り際、こう言った。

「今日は有意義だったよ。誰かに何かを伝えるためには、分かっていることでも頭の中で整理しないとならない。話す側にも無駄はないものだ」

「なるほど」

 悠宇は小さくなっていく南を見送りながら、もっともらしく頷いた。

「南さん、物知りだったけど……なんか、名前に聞き覚えあるんだよね」

 有季がそう言い、京助は悠宇の顔を見た。悠宇は悠宇で、複雑そうな顔をしていた。

「思ったのは、独学じゃダメなんだなってことかな」

「それは俺も同感だ」

 京助も相槌を打った。ホビーレーサーより速くても、プロから見れば悠宇と京助は素人に過ぎない。そんな自分たちがプロの世界に飛び込もうとするのなら、フィジカル面だけでなく、知識、資材、スタッフ、参戦する環境もプロのレベルまで自分を持っていかなければならない。京助はそれを、南に思い知らされた気がした。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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