連載第9回(全21回)ロードレース小説「アウター×トップ」 第9話「休息」

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 雨は降り続き、京助は悠宇と一緒に彼の家のガレージでローラー台を回していた。ガレージは車が2台入る広さがあり、ワンボックスカーが入っていてもスペースに余裕がある。雄一郎は元々ローラー台を置くことを考えて、ガレージを作ったらしい。

 骨折の痛みは1週間ほどで退いた。初めての前期末試験も無事に終わった。今年は梅雨らしい梅雨で、雨が降ったり止んだり、時折晴れる。まだ蒸し暑くはなく、肌寒さすら感じることがある。身体が温まるまでは寒いが、動き出してしまえば大丈夫だ。ローラーは単調で苦行に見る向きもあるが、一人でないことが彼の気持ちを支えていた。

 「本格的に練習再開できるのが8月末として、その後、関東圏ではあと3回、レースがある。内訳はタイムトライアルとクリテリウム、そしてロードレースだ。京助の場合はロードレースで上位を狙いたい」

 隣で3本ローラー台を回す悠宇が言った。ローラー台初心者で、しかも片腕が使えない京助は固定ローラー台を使っている。京助は3回しか昇格のチャンスがないことに不安を覚えたが、元気を装って応えた。

「それくらいは分かってる」

 ガレージの蛍光灯がチカチカと点滅し始めた。

「二人とも精が出るね」

 傘を差した有季がガレージの入り口にいた。期末考査が終わった直後で、帰りが早いのだ。

「俺も絶対にE1に昇格して、来年も悠宇と一緒に走る!」

 京助は一心不乱にクランクを回し始め、有季はそんな京助を満足げに見た。悠宇はローラー台から下りて、パーコレーターにコーヒー豆と水をセットし、アウトドア用のストーブで沸かし始めた。

「京助も一息入れてよ」

「お湯が沸いたら!」

 そして京助はスプリントを始めたが、有季は冷めた目で見ていた。

「沸くまで、そのペースで保つ訳ないじゃん」

 事実、京助は湯が沸く遥か前に力尽き、ローラーが止まり、工業用扇風機の風切り音だけがガレージの中に満ちた。悠宇は沸騰したパーコレーターの様子を窺いながら、ストーブの炎を絞った。ガレージの中にコーヒーの香りが充満していき、京助は鼻の奥でそれを楽しんだ。そして呼吸が整う前に小さな折りたたみ椅子に腰を掛け、カップに黒い液体が注がれるのを待った。有季は京助の隣に座り、パーコレーターを持つ悠宇の手を見ていた。3つのカップにコーヒーが注がれ、京助はありがたくコーヒーを頂く。

「サポーターが外れたら、プールで体力をつけようと思っているんだ」

「つきあうよ」

 有季が京助を潤んだ瞳で見つめ、悠宇は咳払いして口を開いた。

「僕は予定通り来週の修善寺に出るよ。独りでどれだけできるか分からないけどね」

「有季も出るんだろう?」

「アタシはパスする」

 京助の問いに有季はさっぱりした顔で答えた。

「何故?」

「大した理由じゃないけど。別に京助のお守りをするために残るのでもないよ」

 有季はそっぽを向き、京助はそれ以上考えなかった。

「そうか。その日もガレージを貸して貰えれば助かるんだが」

「それは大丈夫」

 悠宇は頷き、京助はしみじみ言った。

「悠宇には助けられてばかりだ」

「なにか、アタシは役立たずか」

「そんなことは言ってない」

 有季が膨れ、京助は片方の肩をすくめ、悠宇は苦笑いした。

 翌週の土曜、悠宇は父親の車で伊豆・修善寺に向かった。当日発では時間的余裕がないため、駐車場でテント泊をすると聞き、京助は有季が行かない理由を悟った。

「他にも理由はあるけどさ」

 ワンボックスカーを見送りながら有季がポツリと言った。

「骨、くっついたんだよね?」

 先日、梅雨は明けたらしいとの宣言がされた。空はもう夏のそれで、青い空に真っ白な入道雲が浮かんでいた。

「レントゲンを撮ったら4分の3くらいついていた。サポーターはしているけど、もう気休め程度だ。でも衝撃がくるとまたずれるかもって言われた。自転車も外で乗るのは止めておいた方が良いらしい」

「じゃあ今日は、夏期講習もないし、プールに行こうか。西葛西に公営の室内プールがあるんだ。前にプールでトレーニングするって言ってたじゃない」

「実は俺、海パンを持ってないんだ」

「買えば良いじゃない。ショッピングモールも近くにあるし。決定!」

 有季に引き摺られるようにして西葛西駅方面に向かい、京助はショッピングモールで水着を買って、室内の競技用温水プールに入り、水の中で歩いた。有季は京助より少し遅れ、地味なワンピース水着を着てプールサイドに現れた。地味な水着でも、出るべきところはあまり出ていなくても、すらりと伸びた四肢とその長身で、有季はプールサイドの人目を引いた。彼女は周囲の目を無視し、少し恥ずかしそうな表情を浮かべて京助の前に立った。京助は誉めようと言葉を探したが、結局何も言えずにまた水の中を歩き始めた。

「なにか感想はないんですか」

 有季が水の中を追いかけてきた。彼女は明らかに立腹していた。京助は少し考えた後、口を開いた。

「女の子なんだなあ、と思った」

「当たり前だ!」

 有季は笑って京助にツッコミを入れた。泳げば良いのに有季は京助につきあって、水の中を一緒に歩いた。本当に歩くだけなので退屈なトレーニングだったが、2人で話をしていればすぐに時間が過ぎた。制限時間の2時間きっかり水の中で身体を動かすと、体中がぎしぎしいった。長椅子に座ってロビーで待っていると有季が濡れた髪で現れ、京助は面を上げた。

「久しぶりのプールだとやっぱり疲れるや」

 有季はやけにすっきりした顔をしていた。元々身体を動かすことが好きなのだろう。

「東京はなんでもある。トレーニングジムも安く使えるし、今度また来よう」

「声を掛けてくれればアタシも一緒に来るよ」

 有季は嬉しそうに頷いた後、京助が掲げた鎖骨サポーターを見た。そして京助のTシャツの上から鎖骨サポーターを装着させた。隣の長椅子では小さな子どもの頭をお母さんが拭いていた。同じような構図に京助は苦笑し、有季は子どもに小さく手を挙げた。子どもの方も頭を拭かれながら、手を振って返した。

 二人は笑顔でスポーツセンターを後にし、駅前の雑居ビルの中にある中国茶専門店で飲茶をした。お腹が満たされた後、フォルゴーレに寄ることにして、二人は店まで歩いて向かった。その途中、夕立が始まって、二人はコンビニの軒先で雨宿りした。

「なんかデートみたいだ」

 京助がぽっと口に出すと、有季はさらっと答えた。

「気がつかなかった?」

「ああ」

「実はアタシも。デートってどんなもんかと思ってたけど、意外と当たり前だね」

 有季は苦笑して見せた。

「それはそうだ。俺とだから新鮮味はないだろう」

「風邪を引いた時とか、健康ってありがたいって思うよね。そんな感じかな。いなくなって初めてありがたみを知るんだと思う。アタシにとって京助はそんな存在かも」

「当たり前って、本当は当たり前じゃないんだ。鎖骨を折って実感したよ。風が懐かしい。ペダルを本気で踏むと、空気の壁にぶち当たるし、身体も悲鳴を上げ始める。なんでこんな苦しいことをしてるんだろうって思う。だけど今は、ロードバイクに乗れるって当たり前のことをしたい」

「もうすぐできるよ。そして前より絶対に強くなってる」

 そんな嬉しい言葉を、有季は京助が本当に欲しい時に投げかけてくれた。

「だと良いんだけど」

「大丈夫。京助って今までローラー台を使ったことなかったんでしょ?」

「外に出て走った方が手っ取り早いと思っていたから。三重はそういうところだよ」

「お父さんからの受け売りだけど、ローラー台のトレーニングって効果が高いんだって。普通は信号で止まったり傾斜があったりで、一定の力を長時間絞り出す訓練ってそうできないし。今月京助がやってきたのは、ロードに乗り始めてから6年間やったことのないトレーニング。兄貴もアタシもローラー台で強くなったからね。今の京助には効果てきめんだ」

「きっと、そうだな」

 京助はネガティブな思考を消し、自分の力は底上げされていると信じた。有季とあれこれ話をしていると、あっと言う間に時間が経ち、夕立が止んだ。暑さのせいか夕立のせいか、フォルゴーレの客の入りは少なく、がらんとしていた。店長はロードバイクの組み付けをしていた。

「おお、京助くん。骨折の具合はどうよ?」

 心配そうに店長がまだ三角巾に吊されている右腕を見た。

「だいたい良くなったんですが、地味にリハビリ中です」

「早く乗れるようになると良いね」

 店長はそう言うと、組み付け作業に戻った。その後は完成車やパーツ類を眺め、二人は日がとっぷり暮れてから店を出た。暗いと危ないからという訳でもないが、京助は有季を家まで送っていった。

「明日もトレーニングにつきあってくれるか?」

 有季は確と頷き、玄関の扉が閉まった。京助はアパートへの帰り道、いろいろ考えたが、考えは上手くまとまらなかった。アパートに戻ると、恭子が夕食の支度をしていた。京助に合わせた温野菜と低脂肪高タンパク中心の食事メニューで、お陰で健康になったと恭子は呆れていた。

「この前の彼女とは上手く行ってる?」

「――どうなんだろう。分からないけど、今まで通りに」

「何かあったらお姉ちゃんに相談しなさい。お前、恋愛経験値が低いんだから」

 京助は苦笑いした。身体の節々が痛んでおり、京助は夕食を終えるとすぐにロフトで横になった。早めの就寝は疲れた身体の回復を促す。普段なら床に入るとすぐに落ちてしまう京助だが、今日は有季の水着姿が思い出され、なかなか寝付けなかった。綺麗な身体だと思ったし、ドキドキしもした。女の子とのデートなんて、普通に暮らしている人たちなら当たり前にあることだろう。しかしロードレースが全ての生活を送っている京助にとっては、生まれて初めての体験だった。

 鎖骨を折らなければ、こんな展開にはならなかっただろう。人生、何がどうなるか本当に分からないものだ。遠回りかもしれない。だけど人生には、無駄なことなど何ひとつないのかもしれない。京助はそう考えながら、眠りについたのだった。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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