連載第8回(全21回) ロードレース小説「アウター×トップ」 第8話「後悔とその先」

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 京助は大学を休み、東京の住まいである、姉のアパートで安静にしていた。「今日一日休んでるんだよ。お昼ゴハンはキッチンに置いておいたからね」。「分かったー」。姉、恭子が扉の鍵を閉める音が聞こえ、京助は一息ついた。右鎖骨を折ってから一夜明け、月も変わった。痛みで普通に寝起きするのが辛く、京助は座椅子をリクライニングさせて寝ている。鎖骨骨折は自転車乗りにつきものだと諦めるしかなかった。

 恭子は東京で大学を卒業し、昨年からそのまま東京で公務員として働いている。京助はそれまでは彼女が荷物置き場にしていたロフトで生活をしている。元々持ち物の少ない生活をしており、京助の場合はロフトスペースで十分だった。大きな荷物と言えばロードバイクだけで、これはアパートの廊下に置いてある。

 レースが終わってから救急病院に運ばれ、ずれた鎖骨を合わせ、サポーターで胸部を固定された。手術の必要はない、と医師は言っていた。痛みを堪え、渋滞の中央道を経由して東京に帰ってきたのは、夜の9時過ぎだった。バイクは悠宇に預け、今日辺り店に持ち込んで点検して貰うことになっている。

「――バカだよなあ」

 京助はこのレースでスタート直後の気持ちを思い返す。自分と悠宇とでは、このレースに賭ける意気込みがまるで違っていた。悠宇はスタート直後、無心に坂を駆け上っていった。クライマーだから、とかそんなレベルではなかった。彼は人生を賭けて、富士を上った。一方、自分は体調不良のままレースに臨んだ。その差が明暗を分けたのだ。

 レース前はしっかり体調管理をしなければならないことくらい分かっていたが、レースの前日まで宅配便のバイトをしていた。マネージャーにはレースの前はバイトを休む旨を事前に伝えてあり、先週まではシフトには入っていなかったのだが、急病人が出て、出勤せざるを得なくなったのだ。

 バイト先が困っているのを放っておけなかったのもある。だが、一週間分のバイト代があれば、新フレームに手が届くと考えてしまったのが大きい。最新のカーボンフレームなら、安いものでも今使っているアルミフレームより、300gは軽くなる。それに剛性や乗り心地も段違いだ。きっとレースの力になるはずだと考えると、連日連夜の仕分けも苦にならなかった。こと自転車に関しての物欲を止められないのが、自転車乗りの悪癖だ。普段ストイックだと言われていても、京助もその例に漏れなかった。

 レース前日もバイトだったため、寝不足でレースに挑んだ。車の中で寝れば大丈夫。そう考えていたが、富士山はそんなに甘くはなかった。深い霧の中、ペダルを踏んだ。ただひたすら苦しく、身体にまとわりつく細かい霧が気持ち悪かった。気がつけばゴールラインを割っていたが、ペース配分もセルフコントロールも何もなく、ただ上っただけだった。それで良い成績になるはずがなかったが、1時間を切れたのは、ついていった選手との相性が良かったからだ。

 しかしゴール後は気力も体力も切れ、そのまま落車した。骨折したのは、運が悪かったというか、ロードレースの神様がヒルクライムをなめた自分を、罰したのだと思った。ヒルクライムで好成績を残せないであろうことは見当がついていたのだから、ポイント目当てに、無理をして出走することはなかったのだ。

 骨折が治るまではレースには出られない。どれだけ体力が落ちるか分からないし、コンスタントにレースに出場してポイントを稼ぐこともできない。また、出場可能になっても自分一人ではE2で上位に食い込める保証はない。骨折が治るまで、バイト先に迷惑を掛けるし、治った後、働かせて貰えるかどうかも分からない。新品のフレームも遠くなってしまった。皆、自分が無理した結果だった。一夜明けた今でも、京助は後悔を重ねるばかりだった。

 それでも、今日一日のことくらいは考えられる。昼食を摂ったら、整形外科に行き、その後、フォルゴーレに立ち寄ってロードバイクを見て貰うつもりだった。携帯プレイヤーで音楽を聴きながら、京助は骨折の痛みとレースの疲労の中、まどろんだ。

 昼過ぎに目が覚め、姉が用意してくれたカレーを左手で食べた。その後、京助は整形外科でレントゲンを撮って貰い、一ヶ月でくっつき、二ヶ月くらいで自転車に乗れるようになるだろうと医師に言われた。二ヶ月はあまりにも長いと京助は落胆した。フォルゴーレに立ち寄ると、けがは大丈夫かと店長が労ってくれた。

「バイクは大丈夫だったけど、もともとフレームはくたびれているし、アルミの金属疲労は突然ひびが入るから、もう乗らない方がいいんだがな……」

 京助は店長にロードバイクの点検をお願いし、アパートに戻った。翌日は大学に行った。教室に行くと三角巾で右腕を釣った京助を見て、皆が声を掛けてきた。レースで落車したと答えると、やっぱり危ないんだなと、納得していた。大学構内で悠宇と会うこともなく、授業が終わると大学を後にした。東京で乗る電車は、三重のそれとは違い、未だ慣れない。アパートに戻る前にフォルゴーレに寄ろうと、京助は船堀駅から店まで歩いた。もう日が落ちていて、周りが暗い中、店舗から明かりが煌々と漏れ出ていた。その店中に姉の姿を見つけて、京助は少々驚いた。

「けがしてるのに、どこに行っていたのよ!」

「大学。電話してくれれば良いじゃないか……」

 恭子が京助の携帯端末を高くかざした。

「ああ……アパートに忘れてたか。普段、使わないから」

「こんな時くらい持ってなさい。心配したんだから」

「お姉さんって聞いてびっくりしたよ。妹でしょうって思わず聞き返したよ」

 店長がカウンターの中で呆れた顔をした。

「よく言われます~」

 恭子は京助より歳下に見える。身長も京助と一緒で控えめで、155cmだ。

「ほら、けが人なんだからさっさと帰るわよ」

 恭子が京助の背中をドンと叩いた。

「店長こんばんはー」

 とても聞き覚えのある声がして、京助は店の入り口を振り返る。

「あ、え、京助、いたんだ」

 しかし有季は京助に寄り添っている恭子を見て狼狽していた。

「この子は?」

 恭子が首を傾げ、京助が答える。

「悠宇の妹の、有季ちゃん」

「あら、そうなの」

「こっち、姉さん」

 京助は恭子を指さした。

「お姉さん……?」

 有季は目を丸くしては恭子を上から下まで見た。

「はい。京助の姉の恭子です」

「うわー、お姉さん、若っ! 似てないし、可愛い!」

「ありがとう」

「あ、その、私、神崎有季です。京助さんには兄がいつも世話になってます」

 有季は真顔に戻ってがばっと頭を下げた。

「有季に“さん”付けされると、こそばゆい」

「お姉さんの前なんだから付けるでしょ」

「悠宇くんのことは聞いていたけど、こんな可愛い妹さんがいたとは、初耳ね」

 恭子は有季を文字通り見上げた。

 一方、有季は恭子を見下ろし、恭子は少し身を退いた。

「――スミマセン。好きで大きくなったんでもないんで」

「悪気はないの。ほら、圧迫感あるっていうか。私は先に帰るから。連絡がとれるよう、携帯端末を忘れないようにね」

 恭子がフォルゴーレから去った後、店長が声を掛けてくれた。

「京助くんも有季ちゃんもゆっくりしていきなよ」

 京助は小さく頷いた。

 店の外に出ると、すっかり夜になっていた。自販機でコーヒーを、有季にはミルクティを買い、店先の椅子に二人、腰を掛ける。

「――で、どう? 骨折の具合は」

 有季がコーヒー缶のプルトップを上げ、手渡した。京助は困ったように笑った。

「骨がくっつくまで一ヶ月。自転車に乗れるようになるまでもう一ヶ月掛かるって」

「それじゃ夏が終わっちゃうじゃん」

「ズキズキする痛みがなくなったら、ローラー台は回せると思う。くっついた後は、ペダリングとか基本的なことに立ち返る。そうすれば体力の低下は最低限で済むし、総合的なスキルを上げられる。ローラー台を買わないとならないけど」

「京助は本当に自転車バカだなんだな。心配して損した」

「済まなかった。でも鎖骨骨折なんて、ロード乗りの勲章みたいなものだ」

 京助はまた自嘲し、有季は京助から顔を背けた。

「落車した時、もしかしたら京助がロードを辞めるんじゃないかって思ってさ……」

 有季は顔を背けたまま俯き、静かに言った。「そうしたら、悲しくなった」

「どうしてこの程度のけがで俺が自転車を辞めないとならないんだ」

「前に、プロを本気で目指しているって人ほど、ちょっとしたきっかけで競技を辞めちゃうって話を読んだことがあってさ」

 有季の寂しそうな表情に、京助は心臓が止まりそうになった。

「そ、そうか」

「楽しみながら競技を続けられた方が、長く続くし、その内プロになっているものだって。アタシ、京助と一緒にレースに行ったりして、楽しかったよ。だから、それもなんだか分かる気がするんだ」

「俺も楽しかった……って言えば、安心する?」

「本当に、辞めない?」

 有季は正面を向き、真剣な眼差しで京助を見据えた。

 京助も真剣に答えなければと、真顔で答えた。

「辞めないよ。確かに悠宇には昇格で先を越されたけど、追いついてみせる」

「良かった」

 有季は安堵したように静かに息を吐いた。「ローラー台はさ、ウチのガレージで踏めばいい。リハビリメニューも考える。予備校がない時は、練習につきあう。だから京助も、E1昇格は諦めないでよ」

 有季は紅茶の缶を両手に包み込んだ。

「お前がいてくれて良かったよ。また自信持って走り出せる」

 それは京助の心からの言葉だった。やっぱり有季のことが好きなんだなと、改めて自覚した。

「――どうしてそんな歯が浮くような台詞が出てくるのかな。この場で」

「すまん」

「飾り気がないところも、京助の良いところなんだけどね」

 有季は満足げに缶の紅茶を飲み干すと、京助に近くに寄るようジェスチャーした。

「どうしたの?」

「もっと近く」

 京助が有季のすぐ側まで歩み寄ると、有季はさっと顔を寄せ、耳元で囁いた。

「アタシも、京助がいてくれて良かったって、思っているよ」

 突然の言葉に京助は面くらい、彼女は苦笑いした。有季はバイクにまたがり、バチンとクリートを填め、ペダルを踏み込んだ。暗闇の中、有季が今どんな表情をしているのか見たい気がした。京助はバイクの尾灯の点滅が見えなくなるまで彼女を見送る。(後悔したって始まらない。今、自分でできることをやるだけだ)。京助は絶え間ない骨折の鈍い痛みを堪え、己に言い聞かせる。

 真っ暗な空から、ぽつぽつと雨が降り出してきた。梅雨明けは遠いが、いつかは明ける。京助は夏の日差しを思い出し、体中の筋肉を震わせた。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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