連載第6回(全21回) ロードレース小説「アウター×トップ」 第6話「タイムアタック」

  • 一覧

 白石峠は関東のヒルクライムコースの定番である。クライマーの悠宇にとっては、かつての練習ポイントだ。最後に来たのは受験勉強を始める前で、丸2年は行っていない。

 悠宇は荒川河川敷に出かけ、集合場所の土手の上に、アクビをしている京助を見つけた。そして京助の下に行くと早速ツッコミを入れた。

「なにアクビしてるんだよ」

「深夜までバイトだったんだ」

 京助は力なくバイクにまたがり、悠宇は会話を続ける。

「睡眠時間を確保しないとトレーニングしても意味ないぞ」

 トレーニングで身体に負荷を与えても、適切な栄養補給と回復の時間がなければ、トレーニング効果は現れない。トレーニングしてもただ、身体をいじめているだけということになりかねない。最悪、オーバートレーニングといわれる、全く踏めない状態になり、パフォーマンスも低下してしまう。

「分かってはいるんだけどね」

 京助は苦笑し、悠宇は話題を切り替える。京助の懐事情は悠宇もわかっている。

「それじゃ今日の説明。荒川を上れるだけ上って、その後は広域農道通って物見山を抜けて白石峠を上る。帰りは同じルートで昼にパンを食べて戻ってくる。寄り道しても往復170kmくらいかな。じゃあ、荷物点検」

「予備チューブ2つ、ポンプ、タイヤレバー、補給食の羊羹にアミノ系サプリ。日焼け止め、ドリンク、鍵、サイフ、入ってる。とりあえずOK」

 京助が自己申告する。

「羊羹か。補給食と言ったらこれだろ」

 悠宇はうす皮アンパンを取り出して天にかざした。

 自転車で長距離を走ると体内のグリコーゲンが枯渇して力が出なくなる〝ハンガーノック〟と呼ばれる状態に陥ることがある。それを防ぐために適宜エネルギーを補給する必要がある。これはツーリングに限らず、長距離のレースでも同じことが言える。消化が良く、高カロリーなものが良いとされるが、人それぞれ好みはある。

 まずは京助が先行し、悠宇が続いた。

 2人だけでも先頭交代を繰り返すのはレースと一緒だ。交代の練習にもなるし、時速30kmほどでも、後方にいる乗り手にとっては十分風避け(ドラフティング)になる。パワーをセーブし、脚を回復させることができる分、今日の峠のタイムアタックに注力できる。

 岩淵水門の先でトイレ休憩を済ませ、彩湖の右岸を通って埼玉県を北上する。途中、青々とした水田や竹林の中を通り、さいたま新都心を右手に眺めつつ秩父を目指す。一般道に下りて広域農道を走っても、途中のコンビニで再びトイレ休憩を済ませ、冷たい飲み物で喉を潤す。初めてのルートだと距離の感覚が分からなくて疲れるものだが、京助は自分よりタフだ。睡眠不足でも疲れた様子はない。同行者の体力を心配しないで済むと気持ちがだいぶ違う。

「平地は飽きたぞ。関東平野は広いな」

 京助がスポーツドリンクを飲み干した後、言った。

「大丈夫、これから嫌でも上るから」

「地元じゃ坂は当たり前だったから、嫌にはならん」

 悠宇も水分補給を済ませ、ヘルメットのバンドを固定する。

「おうさ」

 京助もバイクにまたがり、バチンと音をさせてビンディングを填めた。再出発し、その後しばらくしてから徐々に勾配が出てくる。そしてツツジや紅葉で有名な物見山公園を通るルートでまずは足慣らしをする。物見山は標高135mしかないが、良い具合にアップダウンが続いていて、秩父山地を走りに来たローディにとっては、山から軽くジャブを貰うような感じだ。物見山を通る県道を軽く上って下り、何事もなくまた走り続け、ときがわ町は白石峠の入り口に至った。

「結構うっそうとしてるな」

 初めてここに来た京助は声を上げた。

「暗いのは入り口だけだ。あと、上の方かな」

「長さは?」

「6.3km、標高差520m。平均勾配8%くらいだけど急勾配が続くところは10%近いらしい。普通に車が下りてくるから前に注意して。道幅が狭いからこっちが止まるシチュエーションもあり得る。最初の方がきつくて、後半は若干緩くなるところもあるから、ペース配分は難しい」

 それを聞いた京助は辟易とした表情を作った。峠をトライしている時に、一旦止まることになると普通は凹む。

「車と会うのは遠慮したい。クライマーとしては目標タイムはどれくらいだい」

「ホビーライダーなら30分を切れれば早い方だ。上を目指すなら25分を切らないとならない」

 正直言えば、万が一にも京助に凹んで貰いたくなくて控えめな数字を口にした。

 悠宇自身は今日は21分切りを目指している。以前のベストタイムが20分45秒だ。世間的に早くても、今、プロで活躍しているとある選手が高校生の頃に出したタイムが、20分30秒と聞いていた。昨年は受験勉強で身体が鈍り、ヒルクライムレースでも結果を残せなかった。しかし今年は違う。どれほど力が戻ったのか知りたかった。京助と一緒に練習を続けた成果をここで確認し、次のレースに臨みたい。

 まずは水分を補給し、心拍数が戻るのを待ってからアタックを開始する。

「レースじゃないし、初体験だし、気楽に行くよ」

「京助はそれで良い」

 悠宇はサイクルコンピュータのラップ機能を確認した後、アタックを開始する。

 スタート地点から左カーブ。カーブは車が下りてくることを想定し、路肩キープ。カーブが終わると急勾配が始まる。峠の頂上から6kmを示す道路標識地点で再びきつくなり、200mほどで少し緩くなる。心拍数が最大値の90%を超えないよう注意しつつ、脚を回す。

 後ろを振り返る余裕はないが、京助を10m以上引き離しているはずだ。頂上から5.5km地点を示す標識近辺から、緩く、長い坂が始まる。呼吸をコントロールし、意識してゆっくり吸い、深く吐いて二酸化炭素を追い出す。ペダリングも呼吸による上半身の動きを意識する。

 頂上から4.4km地点で勾配がきつくなってきた。久しぶりでも覚えているものだと、悠宇は自分の記憶力に感心する。ヒルクライムで重要なのはペースを乱さず、坂の勾配を考慮しながら自分をコントロールすることだ。だからコースを覚えていると大きな武器になる。

 頂上から4km地点で若干緩くなり、呼吸を整えながら先を急ぎ、断続的に始まる急勾配とカーブに備える。道路幅があるところで下りの車が見えて、悠宇は安堵した。何事もなく車とすれ違い、中間地点の3.2km地点を目にした。サイコンでタイムを見ると10分を半ば過ぎたところだった。後半の方が少し楽な傾斜になっているが、このままだと21分を切れない。悠宇は心臓と呼吸をコントロールしながら、回転と重心を意識し、先を急いだ。

 つづら折りが続く中、頂上から1.8km近辺で少し緩くなり、悠宇は加速する。徐々に心拍数が増え、脚に乳酸が溜まっていく。1km表示が手前にある、森の中の橋を渡ると、ここから先はがむしゃらに行くしかない。シフトアップし、心臓が破裂するかと思われんばかりに、身体を痛めつける。この苦しみが次への糧になると信じればこそできる苦行だ。

 長いようで短い700mが過ぎ、傾斜がやや緩くなり、ラストスパート。最後の力を振り絞って上りきり、休憩場所になっている東屋を目にした。タイムは20分49秒。ベストタイムではないが、目標は達成した。

 身体全体が熱く、焼け、今も筋肉が悲鳴を上げていたが、苦痛は悠宇の中に充実した何かを残してくれていた。悠宇は道路が分岐する緩傾斜で脚を回しつつ、京助を待った。本当はその場に倒れ込みたかったが、クライマーとしてのプライドがある。ここはやせ我慢だ。

 悠宇がしばらく脚を回していると、予想より早く京助が登ってきて、軽く驚いた。彼は東屋まで来るとバイクを降りて倒れ込み、大の字になった。

「…25分とか言うから、結構頑張ったぞ」

「23分くらい?」

「23分12秒…関東にもいい峠があるな…」

 京助の呼吸は激しく乱れており、すぐには立ち上がれそうになかった。

 2人は少し東屋で休んで、高篠峠経由で下った。そちらの方が見通しがよく道幅も広いので、事故の危険性が減るからだ。ときがわ町を経由して昼食を摂る予定のベーカリーに行くと、まだ1時なのに、店の外のサイクルラックには3台のロードバイクが掛けられていた。注意して悠宇たちもバイクを掛けて、冷たい飲み物と好みのパンをそれぞれ買い、外の木のテーブルにトレイを置いて食べ始めた。

「おお、これは美味い。人気な訳だ」

 京助はもう元気を取り戻していた。回復力の強さはロードレーサーにとって強みだ。その点、京助はオールラウンダーたり得る回復力を持っているようだ。

「よくそれだけ食えるな。帰り、胃にもたれるぞ」

「あ、全然平気。俺、消化力には定評あるから」

「摂取カロリーの方が多いんじゃないのか」

「それは思った」

「食えなくなるよりはずっと良いんだろうな」

 京助は笑ってまたパンをかじった。有季が京助に惹かれる理由は、男の自分にもなんとなく分かる。彼は他人を否定しない。つきあっていてそれが気持ちが良い。否定しないだけでなく、自身も頑張る。それだけでも魅力的だと思う。

 そして大事なことだが、京助はプロツアーを目指すだけの、十分な速さを身につけている。上を目指す自分にとって、パートナーの速さは重要だ。自分がクライムに強く、坂で数字を出せるのとは違う。スプリンターのように、ゴール前で強い訳でもない。しかし最終的に勝つのは、どの場面でも安定した強さを発揮できる、京助のようなオールラウンダーだ。

 E1へ行くだけなら、上りに強いだけでもいける。しかしその先には、総合力が必要だ。チームとして勝つためには、サポートも機材も重要だが、まずはエースたり得る存在が不可欠だ。京助は今日、その片鱗を見せてくれた。オールラウンダーで、白石峠で23分台は十分な武器になる。しかも彼は自分と違って、この峠のことを何も知らずに走ったのだから、まだ速くなるだろう。

「必ず昇格しような」

 悠宇はパンを食べ続ける京助に声を掛ける。

「当たり前だ」

 京助は頷き、コーヒー牛乳で口の中のパンを流し込んだ。悠宇もまた、自分のパンを食べ、トレイが空になるとバイクに再びまたがった。次のヒルクライムレースを楽しみに思いながら、悠宇と京助は帰路についた。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

この記事のコメント

利用規約順守の上ご投稿ください。

関連記事

この記事のタグ

ロードレース小説「アウター×トップ」 神野淳一

  • 一覧

新着ニュース

もっと見る

ピックアップ

e-BIKE最新特集

スペシャル

自転車協会バナー

ソーシャルランキング

インプレッション

  • タイム
    アルプデュエズ01 ディスク

    ディスクブレーキで伝統の走りを進化

  • リブ
    AVAIL ADVANCED

    走る好奇心を止めない リブの新型‟無敵”ロードバイク

  • インプレッション一覧へ

    連載