連載第5回(全21回) ロードレース小説「アウター×トップ」 第5話「夢と、悩みと」

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 最後の講義が終わり、和気あいあいと多くの学生が講堂から出て行く中、京助は独りその場を後にする。この後は、いつも通り悠宇とトレーニングだ。彼の場合、大学構内でのつきあいは必要最低限に留めている。遊びたいのは山々だが、練習と休息の時間が減って力が衰えるのが恐ろしい。

 実際、高3は受験で練習できなかったため、上京してからも元の力を取り戻すのに時間が掛かり、E3でも苦戦を強いられた。しかしプロになれなかった時のことを考えれば学歴は必要だし、何より上京したかった。受験に注力した後悔はない。

 悠宇のバイクはまだ自転車置き場にあった。少し待っただけで、悠宇も現れた。会話はない。2人、目を合わせただけだ。悠宇はバイクのロックを外すと小さく手を上げた。2人で江東区内の大学を後にして、国道357号線の橋を渡る。葛西臨海公園のトイレでサイクルジャージに着替え、荒川サイクリングロードに出た。

 荒川河川敷は左右に緑が萌えている。暑くも寒くもなく、風も穏やかだが、気持ちの良い季節は去り始めている。日差しは夏のそれになりつつあるし、じき梅雨が始まる。その後には自転車乗りにとって最悪の、暑さ厳しい夏が来る。その夏を乗り切る力を今の内にため込んでおかなければならない。

 次はヒルクライムレースになる。ただひたすら山を上るという、それはそれで人気のジャンルで、オープンの大会が日本各地で開催されている。京助は紀伊半島で散々峠越えをして、それなりに上りも強いつもりだが、ヒルクライマーの悠宇には敵わない。自分はそこそこ平地も坂も走れる。いわゆるオールラウンダーと呼ばれるタイプらしいと見当がついていた。ヒルクライムで成績を残せるかどうかは、取り戻した力次第だと考えていた。

 いつもの埼玉の人工湖、彩湖に至り、悠宇が言った。

「久しぶりにスプリント勝負しようか」

「1本だけだぞ」

 何本もやると、疲れが残って後々まで引き摺る。

「練習の成果を見るのにちょうど良い」

 初めて悠宇と会った時も彩湖の直線でスプリント勝負をした。その時の1本目は京助が負けた。だが、自転車乗りには負けず嫌いが多い。京助もその例に漏れず、2本目の勝負を挑み、それには勝利。しかし悠宇の方が3本目を挑んで…と延々繰り返した。最後は2人ともへろへろになってしまい、帰りはシティサイクルに抜かされる有様だった。思い返してみれば、あの時もう、彼の力を認めていたのだ。悠宇の方もそうであって欲しいと、京助は思う。

 2人は彩湖グリーンパーク内道路の、西側200mの直線を、スプリント勝負に使っている。道幅が広く、見通しも良いの絶好の場所だ。直線の始まりで2人バイクにまたがり、声を合わせてカウントダウン。「ゼロ」をハモり、同時にスタート。そして立ち上がり、体重を掛けてペダルを踏み込むダンシングを始める。

 ものの数秒で脚が重くなり、呼吸が乱れ、全身が熱くなる。見ているのは正面のみ。悠宇が隣にいるのか、後ろにいるのかすら分からないほど集中している。目印に使っている道路標識を過ぎるとゴールだ。たった200mなのに心臓は破裂しそうだし、乳酸が脚に溜まってパンパンになる。

 クランクをゆっくり回して乳酸を除去し、息を整えながら、隣を走る悠宇を見た。どっちが勝ったのかは分からない。ほとんど同時だったと思われた。

「誰かに見ていて貰わないと分からない差だな」

 京助はそう言って肩をすくめた。
 
悠宇も同じように勝敗が分からなかったらしい。こう、軽く答えた。

「引き分けでいいじゃないか」

 悠宇は笑い、京助も口元をほころばせた。彼と多くを語る必要はない。それが心地よかった。

 荒川を下り、岩淵水門を通り、船堀橋で荒川河川敷から下りて、フォルゴーレに顔を出す。用事がある訳ではないが2人の習慣だ。バースタンドには有季のバイクが掛かっていたが、彼女は店にいなかった。

「2人とも調子はどう?」

 店の中から店長が声を掛けてくれた。

 京助と悠宇はバースタンドにバイクを掛け、店に入る。

「好調ですよ。E1が見えてきましたからね」

 先日4位入賞を果たした京助は、あと1回入賞すれば来期E1昇格がほぼ当確となるポイントを稼いでいた。

「僕はヒルクライムに懸けるしかないところですね」

 悠宇は苦笑いした。

「こいつなら優勝しますよ」

 京助は自分のことではなくても、誇らしげに胸を張る。

「E1に上がったとして、2人ともその先を目指すんかい?」

「それは当然。上から声を掛けられるようになるまで頑張るしかないでしょう」

 悠宇の答えに、店長はにんまり笑った。

「機材もそこそこなのに、本当に君たちはよくやるよ」

「新車を買えなくて済みませんね」

 京助は小さく頭を下げた。

「出物がでたら考えてくれればいいさ。今は在庫整理の時期だしな」

「そろそろ新モデルの季節ですね」

 悠宇は京助を見た。自転車業界は欧米基準のため新年度は9月に始まる。そろそろ新モデルが気になる季節だ。

「お買い得な季節だよ。京助くんはそろそろディスクブレーキどうよ」

「欲しいですけど…」

 京助の愛車は高校入学の時に買い換えて、3年と少し乗り続けたアルミフレームのバイクだ。リムブレーキモデルで、整備とセッティングが万全でも、最新バイクと比べると性能的には結構物足りない。それにへたり始めているようにも思えた。アルミフレームの寿命は5年と言われているが、京助のように酷使し続ければもっと短いだろう。

「今はカーボンも安いし、アルミも軽いぞ」

「ええ、知っています」

 値段差以上に京助がロードバイクを買った時とは設計の世代が変わった観がある。

 カーボンフレームは積層の研究が進み、かつてと比べて高い重量剛性比を有しているし、アルミフレームも進化を続け、カーボンキラーと言われるモデルも健在だ。剛性が高ければパワーが効率よく伝わるし、高速時や下りで安心感があり、コーナーリングも楽になる。それはレースでの大きな武器になる。乗り心地が犠牲になる傾向にあるものの、フレームの形状や独自の素材で補い、快適性は年々向上している。また、軽ければ軽いほど加減速の切れが良くなるし、クライムも楽になる。

 また、今はフレームにエアロ形状を持たせ、空気抵抗を軽減を謳ったエアロロードと呼ばれるモデルが主流になりつつある。自転車雑誌に書いてあるようにノーマルバイクよりも空気抵抗で40Wも有利、とまでいかなくても、仮に20W有利であれば、乗り手の実力が同じでも勝負にならない。その上、ディスクブレーキモデルの12mmのスルーアクセルだとコーナーリングや下りで圧倒的な安心感があるという。できるならエアロディスクに乗り換えるのがベターな選択だが、京助には先立つものがない。

 しかし実業団レースでは彼が使っているのと同じ世代のアルミバイクもちらほら見かけたし、使っている選手が弱いこともなかった。結局は個人の資質だと、京助は思うようにしていた。だがやはり、店内に並んでいるミドルグレード以上のバイクを見ると、考え込んでしまう。パーツを軽量、高剛性のものに交換してある自分のバイクよりも、軽くて性能が高いメーカー完成車がゴロゴロしている。上に上がれば上がるほど、バイクの性能差も重要になることも分かってはいた。

「バイトの金も貯まってきました。けど、フレームを買うだけでもレースの参戦費用が賄えなくなるし、仕送りで親に迷惑を掛けてますから…」

「君の場合、フレームを替えるだけでも戦闘力大幅アップだからな、頑張って貯めてよ。ディスクならまあ、完成車一択だが、今は完成車のパーツもレースレディが多いぞ」

「悩みます、ねえ。はい」

 京助は頷いた後、喉を潤そうと表の自販機に向かと、背の高いセーラー服の女子高生が目に入った。

「京助。もういたんだ」

「有季の制服姿は初めて見たな」

「そ、そうだったっけ」

 有季はスカートの裾を押さえ、京助は自販機にコインを投入した。

「あー待って。今日はアタシが用意してきたんだ」

 京助は自販機からコインを戻した。

「この前、奢って貰ったから。水出しのアイスコーヒーを持ってきた」

 有季はショルダーバッグをポンと叩いた。

「殊勝じゃないか」

「クッキーも持ってきた。今日、学校の授業で作った。割と美味しくできたと自分では思う」

 京助はきょとんとしてしまい、有季は京助から慌てて目を逸らした。

「食べないんなら公園の鳩にでもやるか…」

「いや、食べるよ」

 有季は無言で小さく、満足げに頷いた。

「悠宇も中にいるぞ。呼ばないのか?」

「今日は、兄貴は、ちょっと…からかわれそうだし」

 有季は苦笑しながら答えた。

 京助は作り笑いをして、有季と一緒に、店の前にある公園のベンチに腰掛けた。有季はショルダーバッグからボトルとクッキーの入ったタッパーを取り出し、ベンチの上に置いた。クッキーは手の凝っていないプレーンなそれで、形は不揃いだ。京助が1つ摘むと、ごく普通の味だった。アイスコーヒーの方はすっきりした後味で、これは美味しかった。

「美味しい?」

「クッキーはそこそこ。コーヒーは美味い」

「そう言って貰えると持ってきた甲斐があるな」

 有季は両拳を軽く握ってガッツポーズをとった。

「本当に女子高生なんだな」

「いつもスポーツウェアかサイクルジャージだもんね」

「今日はバイク、どうしたんだ?」

 京助は2つ目のクッキーを摘んだ。

「レースが終わってから整備を依頼したんだ。兄貴も一通りできるけど、やっぱりプロの手が入った方が安心だからね」

 有季は初夏の澄んだ空を見上げた。

「整備が行き届いた自転車に乗ると、気持ちいいよな」

「バイクと一体になった気がする。だからロードバイクを続けているんだと思うくらいだよ」

 有季は目を戻し、京助を見る。笑顔の彼女を見ると、自分を好いてくれているのかな、と素直に思えた。そして、このままの関係でいられるだけで良い、とも思えた。

「俺の場合は、ロードバイクしかなかっただけだな。それだけで十分だとも思うけど。中学で買って貰って、それからもう夢中でさ。近所こんな良い店もなかったし、周りに仲間もいなかった。全部自分1人でやった。今は、上京して、レースに参戦して、悠宇がいて、夢のようだ。だけど他の同年代の連中がやってるような遊びは一切してない。己の限られた力を、好きなことにだけに注ぎ込むんだ。これ以上、人間が満足することはないとまで思う。自転車に限らず、何でも良いんだろうけど。こんな世の中だから、夢中になれることがあった方が良いと思うしね」

 京助は自嘲気味に笑ったが、今、彼女に伝えた言葉は、普段から自分に言い聞かせていることだ。有季のことは好きだが、想いを伝えようとは思わない。その理由を分かって欲しかった。それがたとえ、一方的であっても。

「そうか…」

 有季は複雑そうな顔をして俯いた。「アタシはまだそこまで考えたことないな」

「高2だろ。まだ少し時間がある」

 京助はアイスコーヒーを飲み干した。彼女がどこまで自分の言葉を理解し、受け取っているのかは分からなかった。

 有季は僅かに面を上げて京助に目を向ける。

「割とさ、この前言ってくれたの、地味に嬉しかったんだ。ほら個人の資質っていうか、才能って言うかって。アタシの背のこと」

「そうだったな」

「あれから自分でも考えたんだ。女子のプロなんて男子より門戸が狭い訳で。アタシ、これからどうすれば良いのかなって。前回2位だったし、欲目が出てくる」

「良いことだ」

「ほ、ほら、それに可愛いって言ってくれたじゃん」

「でも、モデルはモデルで険しそうだ。今から始めて間に合うのかも俺、知らないし」

 有季はまた空を見上げた。

「悩むな……しかし高2で将来に悩むのって、遅い? 子どもっぽいかな」

「――遅いとは思わないし、親から見れば、有季はまだまだ子どもで良いと思う」

「京助からも、アタシは子どもに見える?」

「さあ…微妙だな。だけど、今も俺は自分のことを大人とは思っていない。俺はいつまで経っても俺でしかないと思う。結局自分次第ってことだ」

 有季は頷いた。

「ごちそうさま」

 京助は立ち上がり、座っている有季を見下ろした。楽しい時間だった。店の方を見るとちょうど悠宇が店の外に出てきたところだった。

「そこにいたのか。なかなか戻ってこないから探したぞ…なんだお前も一緒か」

 悠宇は目を細め、妹を見た。有季は兄に見透かされたような気でもしたのか、ゴマ化すようにそっぽを向いた。悠宇は続けて京助に言った。

「店長と話していて思いついたんだけどさ、明日、秩父まで走りに行かないか? もうすぐ富士山ヒルクライムだ。久しぶりに峠を走りたくなってさ。スプリント練習期間ってのは…まあ、ちょっと置いておいて…」

「良いぞ」

 京助は笑って頷いた。「秩父山系初めてだな。ルートは任せる」

「任せてくれ。有季はどうする?」

 ベンチに腰を掛けたまま、有季は首を横に捻った。

「ダメ。明日は全国模試なんだ」

「そうか」

 京助は彼女が悩んでいる訳が少し分かった気がした。

「勉強させて貰える内は、させて貰った方が良いと思う。将来を悩みながらでも良いじゃないか。秩父にはまた一緒に行く機会もある」

 有季は京助の言葉を聞くと、笑顔で頷いた。有季はショップでジャージに着替え、ロードバイクに乗って帰っていった。

「あいつ、さっぱりした顔をしてたな」

 先に行った妹を見ながら悠宇が言った。

「そうか…なら、良いんだが」

 京助は応え、悠宇は複雑そうな顔をした。

「京助も悩んでよ。クッキー、美味しかった?」

 悠宇はわざとらしく笑みを浮かべた。

「見てたのか。なんで声を掛けてくれないんだ」

「邪魔したら有季にドヤされると思ったんでね」

 京助は肩をすくめ、バースタンドから愛車を下ろし、またがった。悠宇にも応援されているのが分かって、ちょっと複雑な思いがした。

「じゃ、明日な」

 悠宇が手を振って別れを告げ、京助はアパートに戻った。今日はバイトだ。京助は宅配便の仕分けのバイトをしている。上半身の筋肉がつけば、スプリントで有利になると考えて選んだバイトだが、時給もいい。シャワーを浴びて着替え、準備を始める。今夜は夜遅くまでシフトが入っている。もう疲れているし、本当は身体を休ませなければならないが、生活費と参戦費用を賄うためだ。働かねばならない。そして貯金をしてカーボンフレームを買うのだ。明日の秩父行きがきつくなりそうだが、仕方がない。精いっぱい頑張ろう、と思いつつ、京助は宅配便の配送センターに向かった。

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ロードレース小説「アウター×トップ」 神野淳一

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