連載第3回(全21回) ロードレース小説「アウター×トップ」 第3話「志(こころざし)2」

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 平井大橋辺りから船堀橋まで、荒川の中土手にはグラウンドがない。散歩の人や野球やサッカー帰りの子どもたち以外の人影はないうえに、道幅も広く、ロード練習に適した区間になっている。悠宇はこの区間が好きだ。

 悠宇と京助は奇遇にも同じ大学に通っている。二人は同じ時間帯に授業を選択し、授業が終わった後、なるべく一緒に練習するようにしている。さらに土曜日は二人とも授業を選択せず、練習日に充てていた。

 今日はその土曜日で、日の出と共に中土手に集合し、20kmほど流して走った後、二人競り合いながら、スプリント練習をしていた。

 前回のレースから2週間が経つ。悠宇と京助はこの後の四週間も、スプリントと無酸素領域のトレーニングに集中することに決めていた。

 悠宇はクライマー、京助はオールラウンダーと、それぞれ身体能力の特性がある。スプリンターではない。しかしレースにおいてスプリントは決定的な要素となり、前回のレースでもそれは明らかだ。だから少しでもスプリント力の底上げをしておきたかった。一つの能力に特化した練習を集中して行うこのやり方が正しいのかどうかは、正直、悠宇自身分からない。しかし二人にはトレーナーがいないため、自分たちの知識だけでやるしかなかった。

 今やっているドリルは、スプリント一回あたり10秒間で力を出し切り、その後3分間を流す、というインターバルトレーニングの一種だ。それを6回もやると身体の芯からへろへろになるし、時には吐きそうになる。書籍には最後まで垂れないようにやると書いてあるが、スプリントの最中にパワーメーターの数値を見ている余裕があるはずもない。帰宅後データを見返して、反省を次回に生かす。

 身体の負担にならないよう、他のペダリングスキルなどのトレーニングを混ぜて行っても土曜日は長い。一休みしてからまた荒川に繰り出そうと、二人はサイクル・フォルゴーレに向かった。

 京助は、いい奴だ。多少、ぶっきらぼうだが性格に裏表はなく、前向きで練習にも真摯な姿勢で打ち込む。このレベルのライダーと偶然出会えたのは出来過ぎだ。彼を見つけてきた有季には感謝している。

 ただ、京助もトレーナーの下でトレーニングしてきた選手ではないし、レース経験も悠宇と同じく、浅い。これらのことは今のところ、自分たちの力で解決するしかない。逆に言えば二人でお互いを見てアドバイスし合って練習すれば、まだ力が付けられる段階とも言えた。

 フォルゴーレに着くと二人で軒先の椅子に腰を掛け、ボトルのドリンクで喉を潤した。

「仲間になってくれそうな奴はいないな」

 京助がバースタンドを見て言った。それらしいロードバイクは掛かっていない。

「やっぱり余所のショップに声を掛けるか……」

 そう言いながらも、気は引けている。余所にもチームがあるし、一見の客が輪を乱すのは良くない。手っ取り早いのは有力ショップのチームに自分たちが入ることだが、それだと自由がなくなるし、仮にとんとん拍子にプロツアーに上がれたとしても、自分の力で上がれたのか、組織力で上がれたのか、分からなくなる。悠宇はそれを潔しとしなかった。

「いや、前言を翻すのにはまだ早い」

 京助の言葉に悠宇は頷いた。

「可能な限り自分たちで努力すべきって話だな。思ったんだけどさ、僕らって自分だけだとフォームチェックできないから、有季に動画を撮ってもらおうと思うんだ。スプリント時は特に気になる」

「今までなんで気がつかなかったんだろうな。必須だよな」

 しかし悠宇は京助が少し表情を曇らせたのを見逃さなかった。

「この前なんかあった?」

 京助は首を横に振った。

「ん? 有季、お前と話してて楽しかったみたいだけどな」

 京助は複雑そうな表情をした後、作り笑いで応えた。

「そうか」

 京助は自販機に向かい、悠宇は少し考え込んだ。(有季が京助とくっついたら面白いんだけどな)

 自販機でコーヒーを買う京助の背中を見て、悠宇は脳裏で言葉にする。

 身長差はあるが、二人は似合いだ。しかし自分なら、異性につぎ込む力の余裕があれば、その分、練習したい。京助も同様だろう。

「――難しいなあ」

 悠宇は独り呟いた。

「そうだ。今夜ジロだろ。明日、学校で見逃し配信見せてくれよ」

 プルトップを上げながら、京助は振り返った。

 ジロとは「ジロ・デ・イタリア」のことで、世界有数のロードレースの一つだ。中継はネット配信のみになる。

「それでもいいけど、どうせなら一緒にライブで見た方が楽しくないか」

 ちょっとした悪戯心だった。有季も一緒に見るに違いないから、二人の反応を見る絶好の機会になる。それを聞いた京助は、常識的な返答をした。

「スタートは9時前だぞ。迷惑だろう」

「まだ宵の口だ」

「じゃあ甘えよう。オヤジさんにもあいさつしたい」

 京助は小さく頷いた。

 二人は荒川河川敷に戻って練習を続けた後、雑談をしながら引き揚げ、環状七号線で別れる。悠宇の家は江戸川を挟んだ、千葉県側の閑静な住宅街の中にある。京助が住むアパートからは、歩いても20分ほどの距離だ。

 悠宇が家に着く頃にはもう薄暗くなっていた。もう夕食ができており、悠宇と有季の分の献立は温野菜とキノコ、皮をとった鶏胸肉をポン酢醤油とオリーブオイルで和えたものに玄米だ。これが定番だが、時には乾物類が中心になることもある。食事を作る母、晴恵は「毎日よく飽きないねえ」と言うが、体重が成績に直結するスポーツをしている以上、二人とも余分な脂肪をとりたくはない。もちろん脂肪は必要だが、とるならば良質なものがいい。

 そんな三人を見ながら、父、雄一郎はビールで晩酌をしている。彼は若い頃、マウンテンバイク(MTB)ダウンヒルのプロレーサーで、プロを辞めた後もエリートクラスでレースを続け、息子の悠宇をレース会場やコースに連れ回した。当然のように悠宇はMTBに興味を持ったが、普段の練習用にとキッズ用ロードバイクを与えられてのめり込み、妹も兄をその後を追った。そんな経緯もあってか、父はこと自転車に関しては協力を惜しまなかった。

 悠宇が大学の自転車部に入らず、また、大学に入ってから実業団レースにエントリーしたのも、父の言いつけを守ったからだった。欧米ならともかく日本では自転車で食べていくのは大変難しい。身をもってそれを知っていた父は、潰しが効くように学をつけろと口うるさい。大学に入った後でも、自転車の強い大学に入って部優先の生活になり、勉強が疎かになったら困ると考えた。それに加え(これは一般的に言われていることでもあるのだが)、若い内から本格的なレースに参加してモチベーションが続かず、自転車競技を辞めてしまうことを恐れたようだ。

 食後30分ほど安静にし、その後、悠宇は玄関先でストレッチをする。そして時計を見て、止めた。そろそろ京助が来る時間だった。

「兄貴、ジロ始まるよ」

 家に上がると、リビングから風呂上がりの有季が顔を出した。ノーブラ、タンクトップにショートパンツで、ヘソ丸出しだ。タンクトップは緩く、中が見えそうで、悠宇は眉をひそめた。

「ラフすぎる」

「楽だから。それともこんなんでも気になる?」

 有季は両腕で小さな胸を抱え上げて、谷間を強調した。

 その時、玄関のチャイムが二度鳴った。見当をつけて悠宇が扉を開けると、ノーカロリーコーラを抱えた京助が立っていた。

「お邪魔します」

 そして視線を前に向けると京助は固まり、有季も真っ赤になって固まった。

「ほら、早く動いて」

 悠宇が促してようやく有季は我に返り、脱兎のごとく二階に駆け上がった。

「俺が来ること、言ってなかっただろう」

「ああ、忘れてた」

「――上がらせて貰うぞ」

 京助は靴を脱ぎ、何もなかったかのようにリビングの大型TVの前に座り込んだ。神崎家ではTVにネット端末を繋いでいる。

 ジロの中継が始まっても、有季は二階から下りてこなかった。

「あの子は見ないのか?」

 京助が訊き、悠宇がソファから立ち上がって廊下に出ると、有季がトレーニングウェアを羽織って階段を下りてきた。

「ほう」

 ブラシを入れた髪を見て、悠宇は声を上げた。

「京助は他人だもん」

 有季は恥ずかしそうに言うと、リビングに入った。

「いらっしゃい」

「邪魔してる」

 どことなくぎこちない会話が聞こえ、悠宇は苦笑を禁じ得なかった。

 悠宇がリビングに戻ると、有季はいつも座っているTVの前ではなく、ソファの端に居心地悪そうに座っていた。京助に居場所をとられたからだ。

 TVカメラは山岳を俯瞰する形で、レースの様子を追っている。中程度の傾斜が何キロも続く厳しいステージを、プロはまるで平地のように颯爽と上っていく。プロの中でも「ジロ・デ・イタリア」や「ツール・ド・フランス」、「ブエルタ・ア・エスパーニャ」の三大レースを走る選手たちは、神に選ばれし者だ。悠宇は彼らの強さに憧れる。

 まだ小さい頃、初めてツール・ド・フランスのTV中継を見た時から、悠宇はプロライダーたちに夢中だった。なかでも山岳ステージは、風景も応援する人々の姿も、天へ駆け上がっていくかのようなライダーたちも、その全てが魅力的だった。そして“ラルプ・デュエズ”の戦いを見た後、悠宇は自分もその空気を吸いたいと願うようになった。もちろん観客としてではなく、プロのライダーとしてだ。ラルプ・デュエズはツール・ド・フランスにおいて名勝負が幾度も生まれた峠だ。その場所でロードレースの歴史の一ページに加われたら、これほどの栄誉はないと思う。

 ツールに出場した日本人選手は数少ない。日本のプロ野球選手がメジャーに行くよりも遥かに厚い壁がそこにはある。その上、日本ではロードレースがビジネスとして成立していないこともあって、プロになること自体、難しい。だが夢は、見るだけでなく、現実に努力して、少しでも形にして初めて意味を持つ。

 それにしても、いつもならレース映像に釘付けになる有季が、今日はそわそわしているのが可笑しかった。理由は考えるまでもない。

 ノーカロリーコーラを飲み干した頃、レースのハイライトが終わった。

「助かった。またな」

「うん。荒川でな」

 明日は日曜日。京助とは早朝から走り込む約束をしていた。

 悠宇は玄関で京助を見送ったが、有季はリビングから顔を出すだけだった。

「どうしたんだ?」

 悠宇が声を掛けると有季は顔を引っ込めた。

 ロードバイクにまたがって京助は去っていき、悠宇は扉を閉めた。

「なんか言ってた?」

 リビングに戻ると有季が恐る恐る訊いてきた。

「いや、特に何も」

「…そっか」

 有季は露骨に眉を下げた。

「さっきのポーズを気にしているのか」

「もう言わないでよー!」

 今度は両手で顔を覆った。有季は喜怒哀楽が激しい方だが、百面相は滅多にない。

 有季が京助を意識しているのは分かった。

 京助の方も少なからず有季を意識しているように、悠宇には思われた。
 
翌朝、悠宇は京助と船堀橋下右岸で待ち合わせ、荒川に出た。そしていつも折り返す埼玉県戸田の彩湖の辺りで、有季から連絡が入った。

『後でタブレット持って合流する 中土手』

「そう言えばフォームの撮影を頼んでいたっけ」

 悠宇は肩をすくめた。「船堀橋下の中土手で有季が待ってる」

「有季が来るのか」

「昨日話したじゃないか」

 京助は無言でビンディングペダルにクリートをカチンと填めた。

「――もしかして昨夜のアレが目に焼き付いてる?」

「そんなことは、ない」

 京助はペダルを踏み込み、そして悠宇も京助を追いかけて走り始めた。

 有季は中土手船堀橋下で待っており、江戸川競艇場のモーターボートが爆音を奏でる中、有季は不機嫌そうに二人を出迎えた。

「ここ、うるさい」

「許せ。ちゃんとタブレット持ってきたな」

 悠宇はタブレットと三脚を確認し、京助を振り返った。

「京助……おはよう!」

 有季が小さく手を上げ、京助は穏やかな表情で頷いた。

「うん。おはよう」

 有季も笑顔を作って応えた。

 そして早速、動画撮影を開始した。二人は有季の前でスプリントを数本繰り返し、悠宇は京助と液晶画面を覗き込んで、お互いのフォームの指摘を始めた。二人に共通する問題は本数を重ねるごとにフォームが崩れることだった。有季も自分のフォームを京助に撮って貰い、研究を始めた。

 京助と有季の間にあった微妙な空気はもうない。

 見ようによってはもうカップルにも思われる。京助からは女の話を聞いたことがないし、有季の方も中学校から女子校だから、恋もろくにしていないだろう。恋に不器用そうな二人がこれからどうなるのか、悠宇はそっと見守ろうと思った。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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