連載第2回(全21回) ロードレース小説「アウター×トップ」 第2話「志(こころざし)」

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 大学の授業が終わった後、荒川サイクリングロードを走るのが、京助の日課だ。

 今の時期は風が弱くて暑くも寒くもなく、ロードバイクで走るのにはちょうど良い季節である。昨日のレースでのストレススコアは300近く、今日はリカバリーライドに徹している。心拍数は最大値の6割程度をキープ。パワーはFTPの半分程度。楽に走るよう気持ちをセーブする。負荷の低いライディングをすることで血流を良くし、栄養の吸収を助け、筋肉の回復を促す効果が期待できる。

 レース直後だけに、2日間はリカバリーに徹する予定だ。とはいっても漫然と流しているわけではない。しっかりペダリングやポジション、荷重を考え、試しながら、スキル練習をする。心拍とパワーの数字もしっかり見るようにしている。意外とリカバリーの領域で走るのは意識しないとできないからだ。

 京助が使っているパワーメーターは加速度計を用いた間接型だが、悠宇が使っている直接型ともいえるクランク型パワーメーターと比べても、そこそこの精度がある。正直言えば、クランク型の方が良いに決まっている。だが、大学生の京助にはカネがないので安価な間接型を使っている。それでも一時間で出せるパワー上限であるFTPは分かるし、それから導き出される、疲労を示すストレススコアも分かる。練習と体調管理にあたって、パワーメーターはあった方が断然良かった。客観的に自分を見るためには必須だろう。

 平日の昼間は、河川敷のグラウンドを使っている人が少なく、また、土日と違って車止めがなくて快適に走れるが、京助は歩行者優先を肝に銘じている。

 葛西臨海公園から荒川を上って岩淵水門を通り、埼玉の彩湖を一回りしてから東京に戻る80km弱のコースは、リカバリーにちょうど良い。定番コースを走り終わった後、京助は常連になっている自転車屋、サイクル・フォルゴーレに顔を出した。

 荒川と江戸川の間にはスポーツ系の自転車屋が何軒もあるが、京助は、東京での住まいである船堀に近い、この自転車屋を選んだ。店舗の表にシティサイクルをずらりと並べているので、一見すると普通の大型自転車店だが、店内にはスポーツ系自転車を数多く取りそろえている。スポーツ系サイクルショップよりも敷居が低いのが良いところだ。

 店の前のバースタンドに愛車を掛け、自販機でスポーツドリンクを買う。そして店長の秋山にあいさつし、店内の椅子に腰を掛けてため息をついた。

「ずっと向かい風でした」

「今日はどこまで走ってきたんだ?」

 店長が子ども乗せ自転車のパンク修理をしながら、京助に声を掛けた。

「今日はリカバリーなんで彩湖止まりで」

「そっか。レース後だったっけ。無理しないこった」

 店長は気の良い田舎の兄ちゃんという風体で、都会の自転車屋には見えないが、本物の田舎者の京助としては、そこが気を許せるポイントだ。

「あいつはもう来ました?」

「悠宇は先に顔を出してとうに走りに行ったよ」

「真面目ですよね、あいつは」

 京助は唇を真一文字にした。

「君も真面目にロードレースに打ち込んでいるじゃないか。いや、ストイックと言うべきかな」

「……単にこれ以外を知らないだけです」

 京助は心からそう思っている。

 昨年の春、故郷である三重から上京してから初めて、京助は自転車競技(ロードレース)を始めた。

 13歳の時、遠く離れた中学校に通うために親からロードバイクを買い与えられ、京助はすぐにそれに夢中になった。行動範囲が数倍、十数倍に広がるロードバイクは、中学生にとっては鳥の翼にも等しい。なじみのない街へ、見知らぬ山へ、京助は愛車を駆り、風を切り、坂を上り、見知らぬ光景を目に焼き付けた。ゲームやSNSなんかより、ずっとずっと、ロードバイクに乗っている方が楽しかった。

 そして15歳の時に転機が訪れた。ほんの軽い気持ちで「ツール・ド・熊野」を見に行ったのである。ツール・ド・熊野は国内で行われるレースの中でも最大級のステージレースの一つで、熊野古道の周辺の一般道をコースにして、4日間にわたって総合タイムを競う。

 レースの存在を知ってはいたものの、当時はまだロードバイクに乗り始めて日が浅かったため、バイクに乗ることと、レースをすることが京助の中では結びついておらず、比較的近辺でありながら、観戦しようとは思わなかった。しかし2年間ロードバイクに乗って、自分より速い乗り手が周囲にいなくなると、プロとやらを見てみようと思い立った。

 そして京助はロードバイクに乗ってレースに赴き、プロ選手たちを見てあぜんとした。人車が一体となってロードレースを戦う姿は美しく、また、見ているだけで胸が熱くなった。彼らの速さは同じ人間とは思えなかったし、また、ロードバイクはレースのための道具だということを思い知らされた。数十台で集団を形成し、時速40km以上で悠々と巡航する光景は、ロードバイクとレーサーの、到達点の1つだと思った。

 そしてあの場所で、あの人たちと戦いたいという、シンプルにしてハードルの高い、明確な目標が、彼の中に生まれていた。

 ツール・ド・熊野が終わり、自分の住む町に帰った京助は、本格的にロードバイクに打ち込むようになった。だが、地元の高校に自転車部はなかったし、サポートしてくれるショップもクラブも遠征するお金もなく、自転車競技を始めることはできなかった。

 だから京助は高校3年間をロードトレーニングに費やし、大学から実業団レースに参戦する計画を立てた。レースの半分は関東圏で行われる。だから関東圏の大学に進学し、可能な限り実業団レースに参戦するつもりだった。

 大学は、学費が安い都内の公立大学を第一志望とした。京助は無事、大学受験に合格し、東京で就職していた姉を頼りに上京。計画通りに参戦したが、そこには、京助より速い選手が大勢おり、自分が井の中の蛙に過ぎなかったことを知って最初はショックを受けた。それでも東京で友達になった悠宇と二人、レースを1年間戦い抜いた。そして大学2年生になったこの春、E2に昇格を果たした。

 ロードレースの世界は結果が全てだ。今までレースに出ていなかった京助は、大学3年の前半までには結果を残さなければならない。就活を考えると、4年時に自転車に打ち込んでいる時間はない。だから大学生活の内、3年間だけレースに専念し、一レース、一レースを大切にして、プロチームに声を掛けられるように頑張ると心に決めていた。そうでなければ、プロの世界で戦えない。

「人間、やれることなんて限られているんだから、打ち込めることを見つけられた君は、幸せだと思うよ」

 店長に声を掛けられ、京助は無言で確と頷いた。

 店長は子ども乗せ自転車のパンク修理を終わらせ、待っていた客の会計を始めた。

 乗り方を誰かに習ったのでもチームで練習をしてきたのでもない。本と雑誌とTVの知識だけで独りやってきた。ただ走るのが、ロードバイクが好きだった。だから独りで走り続けられた。それに今は悠宇がいてくれる。それがどれほど心強いことか。

 京助はペットボトルのキャップを捻り、渇いた喉を潤した。

 立地が良いことに、店の向い側は公園になっている。京助は喉を潤した後、公園でストレッチを始めた。ストレッチを怠れば筋肉は固くなり、関節の可動範囲が狭まってけがしやすくなるし、もちろんペダリングにも大きく影響する。トレーニングをしたら体のアフターケアと睡眠までがワンセットだ。決してサボれない。

 ストレッチをひととおりし、軽く筋トレも終えたが、悠宇が戻ってくる気配はなかった。

 別に用がある訳ではないが、京助は少し寂しく感じる。高校までの京助は、ロードバイクに乗るばかりで、学校の外で友達と遊ぶようなつきあいは避けていた。しかし悠宇とは学部が違うので校内ではほとんど会わず、外でだけ、ロードバイクを通して、つきあっている。そして初めての、同じ嗜好を持つ友達でもある。だから、寂しく思うのだろう。

 ロード用のシューズはカバーを付けても歩きにくいため、転ばぬよう気をつけながら店の前に戻る。

 すると1台のロードバイクが京助の前に現れ、急停車した。そして前輪を上げて後輪で立ち、その後90度回転、前輪をゆっくり下ろす。次に乗り手はバイクを停止させたままバランスをとり、ホイールにバネがついているかのように2度、3度とバイクをホッピングさせた後、スタンディングした。

「サガンじゃないんだから。ホイール壊れるぞ」

 京助は呆れながら、トレーニングウエア姿の有季を見た。

「とっても丈夫なR501ホイールだからいいのだ」

 バイクそのものも丈夫なクロモリフレームで、通学用だ。有季はビンディングを外し、片足を地面につけた。有季はバイクを店の前のバースタンドに掛け、背負っていた防水バックパックを下ろし、店の軒先に置いてある椅子に腰掛けた。

「今日は兄貴と一緒じゃない訳?」

 京助は有季の前に立ち、答えた。

「あいつの方が授業が終わるのが早かった。4コマ目休講だと」

「納得した」

 座っている有季は京助を見上げ、少し首をかしげて笑った。

 京助は自販機の前に行き、ジャージの背中のポケットを探った。

「何か飲むか?」

「えー奢ってくれるの?」

「バイト代が入ったんだ」

 京助は自販機にコインを投入した。

「じゃ、ミルクティで」

 その声に京助が振り返ると有季は笑顔になっていた。

 京助はボタンを押し、缶を彼女に投げた。

「サンキュ」

 京助はちょっと笑った後、ブラックコーヒーを買い、口をつけた。

「すっかり〝冷たい〟の季節になったな」

 有季は目を閉じて缶に口をつけた後、京助に目を向けた。

 兄の悠宇と一緒で彼女も美形の部類だ。少しどぎまぎした。

「京助と会って、もう1年経つんだね」

「早いな」

 有季のアーモンド型の瞳から目を逸らし、京助はまたコーヒーを一口飲んだ。

 2人が出会ったのは昨年の春のこと。まだ肌寒い、3月の荒川サイクリングロードだった。三重から上京したばかりの京助が、荒川河川敷を初めて走っていると、女の子がロードバイクを押しているところに出くわした。大勢のローディが彼女を追い越したはずだったが、誰も助けなかったらしい。東京人は冷たいと内心憤慨しつつ、京助は女の子に声を掛けた。それが有季だった。そして彼女の背の高さに驚くと同時に美人だと感心した。ナチュラルさが前面に押し出されていて、スポーツマンらしいところが好印象だった。

 少し胸を高鳴らせつつ事情を聞くと、予備チューブを1本しか持ってきていないところに、運悪く前後輪がパンクしたとのことだった。京助は手早くチューブを交換してあげたが、気恥ずかしさもあって、即座にその場から退散した。

「チューブのお返しをしようと思って、次の日、河川敷で京助を待ち構えてたんだよね。いや、今にして思うとかなり乙女チックだったかな」

 有季は舌を出して笑い、京助は照れ隠しにそっぽを向いた。

 実は京助も、また彼女に会えないかと淡い期待をして、荒川河川敷に乗り出したのだが、そのことは言えなかった。

「おかげで悠宇とも会えた」

「兄貴と一緒にレースで戦ったからこそ昇格できたんだから、京助はもっとアタシに感謝しても良いと思う」

「……してるさ」

「信じらんない」

 唇を尖らせ、有季は拗ねる。

 そんな彼女は、可愛い。たかだが予備チューブ1本のお礼をするために、北風吹く河川敷で、来るかどうかも分からない京助を待っていた女の子だ。ちょっとワガママなところに目を瞑れば、性格も良い。

 有季はまた缶の紅茶に口をつけた。

「京助は三重から出てきたんだよね」

 有季はちらりと面を上げて、脇に立つ京助を上目遣いで見た。

「三重は良いところだぞ。走るところには困らないし。東京と違って、人とモノは溢れてはいないけど、俺は好きだよ」

「京助が自分の故郷を悪く言う人間じゃないとは思っていたけど、なんか良いね」

「東京も、東京の人も、悪くない。お前の兄貴とオヤジさんには、本当に世話になってる。恩返ししたいとも思っている」

 京助は自然と頷いていた。

「兄貴と一緒で京助も、今歩いている道の先に夢が見えているんだよね……」

「漫然と日常を過ごしていたら時間がもったいない」

 それを聞いたからか、彼女は自信なさげに俯いた。

「なんか、京助は大人だと思う」

「そうでもない」

 自分の人生に責任をもてる大人だったのなら、想いを隠さないできちんと彼女にアプローチするだろう。だからそう答え、真面目に続ける。

「将来を悩んでいるのなら、自分が何を持っているのかを考えてみると良い。有季は背が高くて顔も良い。レースで成績を残せば自転車雑誌から取材が来るかもしれない。現役女子高生レーサーなんだから、格好の取材対象だ。そうなれば、スポンサーがついて女子プロレーサーも夢じゃない。可愛いし、宣伝塔にもってこいだ。そうすれば自転車雑誌のモデルになって本とか出したりして…」

「きょ、京助ってば、今日は熱でもあるんじゃないの?」

 有季は明らかな挙動不審に陥り、椅子から立って、空き缶をゴミ箱に入れた。

「要は個人の資質を有効活用すれば良い、ってことだ。自分のできることをする。それは自分に向き合うことだと思う。有季が美人なのは立派な資質だ」

「そうかな…」

 有季は、はにかむ。

「あれ、有季じゃないか」

 1台のロードバイクが自販機の前で停まった。

「兄貴、お帰り!」

 有季は元気な声で兄を出迎え、悠宇は妹を見て、少し困ったような顔をした。

 京助は悠宇に手を上げた。

「有季の相手をしてくれていたのか」

 悠宇は京助を見て安心したように表情を緩めた。

「もうひとっ走り行こうか。走り足りない」

 京助は小さく頷き、バースタンドから愛車を下ろす。

「え、もう行っちゃうの?」

 有季が声を上げたが、京助はバイクのフレームをまたいだ。

「俺の方もリカバリーライドに少し足りないみたいだ」

「嘘だ! 単に走りたいだけだ!」

 悠宇は妹のツッコミに苦笑した。

「お前も来るか?」

「うー、これから予備校だよ…」

 有季は高校2年生に上がったばかりだが、家庭の方針で勉強にも力を入れさせられている。京助は片手を上げ、有季に別れを告げた。

「ごちそうさま」

 有季は小さく手を振って、京助を見送った。

 京助と悠宇は手を上げて応え、ビンディングを填めた。

 しばらく悠宇の後ろを走り、今度は一之江から江戸川サイクリングロードへ至る。

 彼と雑談しながらゆっくり流すこの時間が、京助は好きだった。

 彼とは有季の紹介で知り合った。この1年、一緒に練習し、レースに出て、背中を見て、引っ張って、過ごしてきた。ただそれだけで京助は悠宇のことを親友だと思うし、今も自分を引く背中を見るだけで、彼が何をしようとしているのか分かる。実際、レースでも、自分たちはテレパシーが使えるのかと思うくらい馬が合い、大きな力になった。

 江戸川を北上し、柴又までの10kmほどの道のりを走る。ようやく日が長くなったとはいえ、寅さん記念館に着いた頃には薄暗くなっていた。2人してベンチに腰掛け、コウモリが飛び交う江戸川河川敷を眺める。

「次こそは勝ちたいなあ」

 悠宇はボトルのドリンクを飲んだ後、しみじみ言った。

「本当に仲間捜ししないとな」

「有季が男だったら、チームメンバーに困らなかったのに」

「妹をそんな風に言うものじゃない」

「そうだな。それに有季が男だったら、京助が困るか」

 悠宇は悪戯っぽく笑い、京助は平静を装った。

 有季のことは、好きだ。自分より背が高くても気にならない。恋愛感情かどうかは別にして、彼女からの好意を感じてもいる。しかし今、恋愛に振り向けるだけの気持ちと時間の余裕がない。だから、これから彼女とどう接していくのが最善なのか、未だ分からなかった。やっぱり、自分は大人ではないと京助は思う。

「反応がないな」

 悠宇は詰まらないと言いたげだった。

「俺にどうしろと」

「京助の好きにしてよ」

「次に向けて頑張る」

「そういうことにしておくか」

 悠宇はロードバイクにまたがり、京助も続いた。

 今は自転車に賭けるだけだ。

 京助は何度もそう自分に言い聞かせ、柴又を後にした。

《つづく》

※本作品は株式会社KADOKAWA刊・メディアワークス文庫「アウター×トップ」を改稿したものです。
※この物語はフィクションであり、実在の人物や団体、地域などとは関係ありません

監修:岡 泰誠(日本スポーツ協会公認自転車競技コーチ)コスモス パフォーマンス コンサルティング

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