連載「Cyclistが駆け抜けた平成」<1>平成元年渡仏から始まった「栗村修の自転車遍歴」 『漢ギヤ』の世界から産業革命級の進化

  • 一覧

 あと1週間で「平成」の時代が終わり、「令和」が始まろうとしています。Cyclistでは『Cyclistが駆け抜けた平成』と題し、平成に起こった様々な自転車関連の話題、流行などを、おなじみの連載陣、自転車界の著名人に振り返ってもらいます。第1回はサイクルロードレース中継の解説・実況、ツアー・オブ・ジャパン(TOJ)ディレクターも努める栗村修さんが、ツール・ド・フランスに憧れて渡仏した平成元年から今まで、そしてこれから目指す自転車文化の定着について、たっぷり語ってくれました。

1999年のジャパンカップにEZAKから出場した栗村修さん Photo: Yuzuru SUNADA

◇         ◇

栗村修、17歳の平成元年

 平成という時代は、思えば僕にとって、自転車人生がぎゅっと凝縮した時間でした。

 平成元年、1989年は、僕が17歳でフランスに初めて渡った年です。ツール・ド・フランスに憧れて高校2年生の夏に高校を辞め、数カ月アルバイトをしてお金を貯めて、平成になった2カ月後、3月にフランスの地を踏みました。

フランスのアマチュアカテゴリーで走った10代(1990年=栗村修さん提供)

 僕のヨーロッパ歴の始まりと平成の始まりがほぼ同じだった訳ですが、実はそのころに平成に切り替わったということが記憶にないんです。世間のことに良くも悪くもまったく興味がなかった。それだけ当時の僕は、自転車にのめり込んでいました。

 当時、自転車競技でヨーロッパに行くというのは、今で言えば南極に行くような冒険でした。フランスのジュニアカテゴリーで走った日本人は、多分僕が最初だったと思います。

ポーランドのムロズチームで、憧れたヨーロッパでのプロ選手として活動(1998年=栗村修さん提供)

 その後フランスで2年ほど走った後、ヨーロッパでの活動は一時挫折して帰国しました。国内の実業団で切磋琢磨した後、1996年に24歳でシマノレーシングの契約選手となり、それが選手としてお給料を頂いた最初の年でした。その後1998年にポーランドのムロズでプロデビューし、2001年に選手を引退。そこから12年、ミヤタ、シマノ、宇都宮ブリッツェンで監督やコーチとして過ごし、2014年から今のツアー・オブ・ジャパン(TOJ)の仕事に就いています。

 まったく意識していなかったのですが、こうして振り返ってみると「平成」とはまさに「栗村修の自転車遍歴」と同期していたんですね。

“個”のぶつかり合いだった実業団レース

 現在、国内レースというと大きく分けて、UCIレースとJBCF(JPT)に分けられていますが、昔、平成の初めごろはUCIレースという呼び名はありませんでした。TOJができたのが1996年ですが、それまでは国際レースの基準が曖昧で、実業団レースの価値が今よりずっと高かったんです。

 今は才能のある選手はすぐに海外に行って、日本の頂点もTOJやジャパンカップなどのUCIレースになりますが、当時はどんなに強い選手でも国内で実業団のレースを走るのが普通でした。プロチームも無く、実業団チームは自転車メーカーやパーツメーカーのお抱え社員選手で、午後3時までは仕事をしてその後練習、あるいはクラブチームという環境。いずれにせよ、今のようにフルタイムでレースを転戦する選手は少なかったです。

 レース数も今よりずっと少なくて、実業団のロードレースは東西の実業団と全日本実業団、あと1、2レースくらい。カテゴリー分けもなく、実業団登録をしたらいきなりトップ選手と走る。いきなり今でいうJPTの東日本実業団ロードで、1周目で千切れて…という世界。だから登録自体に覚悟がいりましたし、練習がとても大事でしたね。

 無線機もなく、チームプレーはほとんど皆無。むしろチームメートの動きをマークするような、“チーム内選手権”というのが主体だったように思います。レースも白兵戦で、よく言えば予測不可能。チームメートの動きを同じチームの選手がつぶしたり、突然狂ったように集団を引く選手が現れたり…。監督からの指示も「死ぬ気で踏め」とか、あと監督のカバンを選手が持つような時代でしたね。

 あとは「漢(おとこ)ギヤ」と呼ばれる、フロント52-42T、リア13-19Tストレートみたいなのが正義とされていて、無駄にアウタートップを踏んでいる選手が集団にいたりとか、自転車の専門誌を読んでも、「俺はあの坂をアウターで上ったんや!」みたいなトップ選手のコメントが並んでいたりとか、とにかく今とはだいぶ風景が違う感じでしたね。

30年間で大きく進歩

 平成の30年間で、日本の自転車界にとって大きな転機となったのが、平成2年(1990年)の世界選手権だったと思います。アジアで最初の世界選が、トラックが前橋、ロードは宇都宮で開催されました。

1990年に宇都宮森林公園で、世界選手権ロードレースが開催された Photo: Yuzuru SUNADA

 それまで「スーパークリテリウム」といったイベントはありましたが、本物のヨーロッパプロが本気で走る本物のレースが、日本で開催されたのは初めてだと思います。この世界選手権が契機となり、そのメモリアル大会として1992年にジャパンカップが始まり、そこから宇都宮ブリッツェンが誕生し、また現在のさいたまクリテリウムの開催や、J SPORTSなどでのサイクルロードレース中継につながっていきました。

 今現在、国内では見切れないほどのロードレースの中継が見られて、ジャパンカップやさいたまクリテではツール・ド・フランスで活躍するような選手が日本に来たり、日本に来るのを楽しみにしてくれたり、欧州のトップレースで走る新城幸也選手や別府史之選手のような存在も生まれたりしています。フランスに初めて渡った平成元年の自分からすると、夢のような環境ですよね。

 平成元年当時は、自転車ロードレースなんて誰にも理解してもらえませんでした。ツール・ド・フランスすらほとんど知られていない。練習をしていると「競輪ですか?」と聞かれるんです。それが今はツール・ド・フランスの名前はほぼ皆が知っていますよね。

昨年10月のツール・ド・フランスさいたまクリテリウム。世界チャンピオンのバルベルデ(左)と、同年ツール・ド・フランス総合優勝のトーマス、2大チャンピオンが日本で肩を並べた Photo: Yuzuru SUNADA

 今、新城選手はフランスでナントの郊外に自宅を持っているんですが、僕が最初にフランスの地を踏んだ場所がナントなんです。彼は現地に家があって車があって、プロとしてワールドツアーのレースを走っている。僕自身は選手としてはあまり達成感がなく終わったんですけど、僕がかなえられなかった夢をほぼかなえた新城選手という存在が生まれてくれたんですね。

 今も目の前の課題や問題はたくさんありますが、平成の30年を改めて俯瞰して見ると、日本の自転車界を取り巻く環境は、“産業革命”と言ってもいいくらい素晴らしい進歩と進化を遂げたんだなと実感しています。

ブームから文化へ

 この30年間で日本のロードレース環境は、世界が変わる位の変化があった訳ですが、ただこれも、あるひとつの完成形に達したのかなというのがあります。令和時代を迎えて今後、どうやってこれを進化させていくのか。平成の30年で進化・進歩した幅で、この先30年進歩するというのは、なかなか難しいなというのが実感です。

自転車新リーグの2021年スタートが今年3月に発表。栗村修さん(左)は連盟理事として改革に携わる Photo: Masahiro OSAWA

 そんな中で今年、JBCFの新リーグ構想が発表されました。ものすごく難しく、大きな発表です。概要を言えば、フランスのレース環境・世界を日本に作りましょうというものです。僕が平成元年にフランスで見て感じたような世界、日本にサッカーのJリーグのような、文化を作るような取り組みです。

サイクルロードレース中継の解説・実況でもおなじみの栗村修さん。ツアー・オブ・ジャパンで現在大会ディレクターを務める(2018年=栗村修さん提供)

 この30年、日本にはロードレースのブームを作れたと思うんです。ただ、ブームはいずれ衰退します。今後30年は文化作りだと思っています。それはとても大変なチャレンジですが、平成元年、17歳の時に今のような世界は、夢には見ていましたが全く現実的ではありませんでした。それが今、現実化している。だから諦めずにやっていけば、何か形になるんじゃないでしょうか。

→第2回連載・「黄金時代からドーピング問題など、平成のレースシーンを振り返る」

この記事のコメント

利用規約順守の上ご投稿ください。

関連記事

この記事のタグ

Cyclistが駆け抜けた平成

  • 一覧

新着ニュース

もっと見る

ピックアップ

e-BIKE最新特集

スペシャル

自転車協会バナー

ソーシャルランキング

インプレッション

インプレッション一覧へ

連載