連載「Cyclistが駆け抜けた平成」<3>平成を駆け抜けたプロロード選手 本場欧州で活躍した市川雅敏

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 ジロ・デ・イタリア総合50位、ティレーノ~アドリアティコで山岳リーダーを数日間保持、シュレーンベルグ・ランドファルト優勝、ツール・ド・アルプス(当時ジロ・デル・トレンティーノ)総合15位、ツール・ド・ロマンディ総合27位…。

 1987〜1993年(平成5年)にかけて欧州ワールド・ツアーで活躍した日本人がいることをご存知だろうか? 彼の名は市川雅敏。平成という時代が終わるこの時期に改めて彼の経歴を紹介してみたい。

→第2回・「黄金時代からドーピング問題など、平成のレースシーンを振り返る」

平成を駆け抜けたプロロードレーサー、市川雅敏 Photo: Haruo ISSI

本場で認められなければ本物じゃない

 市川が初めて欧州でプロ選手として活動することを夢見たのは少年時代に遡る。父親と親交の深かったカーレーサー生沢徹とたびたび会う機会があり、最高峰であるF1を目指す生沢と父親が「国内でいくら勝ってもしょうがない。本場で認められなけりゃ本物じゃない」と話していたのをよく覚えているという。

 プライベート参加の一匹狼で欧州挑戦をしていた生沢は、いわゆるサイクリング少年だった市川に「雅敏くんは自転車レースが好きなんでしょ? だったら欧州に行かないとダメだよ」と話した。

 高校時代の部活はコーラス部。週末は長距離サイクリングや少しのレース。市川はいわゆる競技部でインターハイや国体に出ている選手ではなかった。その後、本格的に自転車競技に取り組むために一般入試で日本大学に進学。一年目からインカレ(全日本大学対抗選手権)2位になるなど才能の片鱗を見せており、卒業後は実業団に入る選択肢もあったが、卒業式を待たずして鉄沢孝一(現アラヤ工業)と渡欧。プロを目指した。

偶然のチャンスが到来

 希望を胸に渡欧したものの1983年イタリア、スイスを中心とした選手活動の中でプロ選手との実力の壁はいかんともしがたく、プロへの夢は儚くも消えかけたという。翌1984年は再度スイスに渡り少し走れる手応えを掴んで帰国するも、翌年1985年は受け入れクラブとの交渉がまとまらなかったことや、資金不足が原因で渡欧できず日本の実業団チーム・スギノで活動していた。

マヴィックからのアプローチで再びスイスへと渡る (写真提供:市川雅敏)

 スギノに出社したある日、女性社員が一枚の伝票を市川のもとに持ってきた。「伝票の横に何やら外国語でイチカワって書いているんですけど」。よく見るとスイスの代理店からの発注伝票(テレックス)に前年加入が叶わなかったスイスのエリート・アマチュア・チーム、マビックから「日本に居るマサトシ・イチカワに伝えてほしい。来年興味があったらウチに来ないか、と」との伝言であった。

プロへの登竜門でリーダージャージを獲得 (写真提供:市川雅敏)

 結婚を考えていたこともあり、実業団での安定した収入と生活を捨てることに周囲の反対もあったが、プロへの夢、自身の可能性を見てみたい欲求はいかんともしがたく、翌1986年はみたびスイスの土を踏むことになる。

 既に25才となり年齢的にも最後のチャンスと感じていた。ここで監督のアルフレッド・デュポルポン、オーナーのジョン・ジャック・ループ、長きに渡りプロ生活を共にするスティーブ・ホッジなど多くの人の導きで爆発的な伸びを見せる。

 アマチュア版ツール・ド・スイスで総合3位、スペイン・バスク地方で行われるプロへの登竜門ビスカイヤでステージ優勝、黄色いジャージ、マイヨー・ジョーヌを着用するなど日本人離れした活躍を見せた。これらの成績が認められ遂にプロチームからの誘いを受け市川はスペインのKAS(カス)と契約を決めた。

地元の新聞でも市川の活躍ぶりが大きく取り上げられた (写真提供:市川雅敏)

一転して契約破棄 ベルギー・ヒタチへ

 プロ契約を勝ち取ったのも束の間、市川は失職の危機に瀕する。デビュー直前の1987年冬に、KAS監督のディグリバルディが事故死。それに伴いフランス国籍のチームがスペイン登録に変更された。登録国の選手が50%を占めなければならないルールがあったため、それまで半数を占めていたフランス人選手は50%以下に抑えられることになり、スポットの争奪戦となる。そのため、契約を結んだ市川の新人契約は破棄となってしまったのだ。

ベルギー・ヒタチへと加入 (写真提供:市川雅敏)

 幸いベルギー・ヒタチ・チームが名乗りを上げ市川のプロデビューが無事に決まった。遂に日本人初のプロ選手が誕生した瞬間であった。

 市川のキャリアを振り返ると常に重要な局面で的確なアドバイスを与えてくれる人物が居ることに気づく。この時もループが「マサ、お前は上りが強いから逆張りで平坦が強い選手の多いチームに行った方が良いんじゃないか? そうしたら上りのレースで起用される可能性が高いだろ?」とのアドバイスもあり心を決めたという。

 このアドバイスは上手くハマり、市川はネオプロながらフレッシュ・ワロンヌ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュのメンバーに選抜される。

 「でも、あれも良くなかったよね。ちょっと目立ちすぎてアイツなんだよ!? ってなっちゃった」当時、市川は自チームの選手から不当な扱いを受けることもあったという。

監督のアドバイスもあり、着実にキャリアを重ねた (写真提供:市川雅敏)

 「自国選手の椅子をひとつ取った者だったからか、人種差別だったのかは今となっては分からない」と市川は話す。バブル経済に後押しされた日本企業が大挙して欧州に進出してきたこと、80年代中盤から急激に進んだプロロード界の国際化などの流れにあって、地元欧州の選手の中には、日本人に対して危機感からくる反感を持っていた者も居たのかもしれない。

 「1989年はジロとツールのメンバーにも入っていた。でも突然外されて…。そういうことかよってね」

シュレーンベルグ・ランドファルトで優勝を飾った (写真提供:市川雅敏)

 しかし、そういった逆境にも負けず市川は順調に実力を伸ばし、ツール後にリヒテンシュタインで行われたシュレーンベルグ・ランドファルトで優勝を飾る。それはツール・ド・フランス5勝を飾ったベルナール・イノー、後に世界選手権に勝つオスカー・カメンツィンも勝つことになる伝統的なレースだった。

1990年にジロ・デ・イタリア出場

 この年、ベルギー・ヒタチからスイスのフランク・トーヨーに移籍した市川は、冬の間から監督のダニエル・ギジガーのトレーニングプログラムを遂行する。現在のパワートレーニングの概念の基礎になったピリオタイゼーション、TSS(トレーニング・ストレス・スコア)、IF(強度係数)の概念を取り入れたトレーニングによりコンディションをかつてないレベルに引き上げることに成功する。

初出場のジロ・デ・イタリアは途中まで総合35位前後を走っていた Photo: Yuzuru SUNADA

 いよいよジロをスタートし、残すところ4日というところまで総合35位前後と好走していた市川だが「3週間のグランツールの中で1日だけバッド・デー(コンディションが悪い日)が来る」という言い伝えどおり、どうにも力が入らない日が来てしまう。それもよりによってドロミテ山脈の中でも最も厳しいポルドイ峠を2度越える日に。

コンディションのピークを把握するピリオタイゼーションのグラフ (写真提供:市川雅敏)

 「スタートして直ぐに、『あ~今日ダメだ~!』っと思ったね。どうにも脚に力が入らないの」

 チームカーの隊列に戻りその旨を伝えると監督のギジガーは「マサ! 何もかも捨てろ! ポケットの中身を全部出すんだ!」と指示。ボトルの余剰分、補給食の合計で1kgはある。その重量を捨てることで軽量化を図り少しでも上りをこなせるようにする作戦だ。

バッド・デー経験も、日本人で初めてジロ完走を果たした Photo: 市川雅敏

 「峠を越えたらまた補給してくれて。あの時、ギジガーの指示がなかったら終わってた(リタイヤしてた)かもね」。それまで総合で45分遅れだったのだが、このステージだけでさらに45分遅れてしまい総合順位を一気に50位に落とすも、市川は初のグランツールを完走する。

 「本物の監督ってのはさ。そうやって選手を走らせるの。ミラノにゴールした時、本当にこのチームに入ってよかったなと思ったよね」

1993年に2度目のジロへ

 市川は1993年ナビガーレに移籍。2回目のジロ出場の機会を得る。

 1992年の春先に落車し入院生活を余儀なくされた市川は、翌1993年の春にも大怪我に見舞われる。強風で飛んできた木の枝が前輪に入り落車。顔面を骨折してしまったのだ。3年ぶりにジロ出場のチャンスが巡ってくるも顔にはチタンプレートが入っている状態。全くコンディションが上がらないまま出場する事になってしまう。

1993年、2度目のジロをナビガーレで走る Photo: Yuzuru SUNADA

 「プロロードって興行だからさ、春先のイタリアのレースでその年のジロに使うルートを組み入れて盛り上げるわけ。“5月にはここにジロが来ますよ~”ってね。オーガナイザーも選手もコースを予習しておける良いシステムだよね。でも93年はそれが走れなかった。ジロには何だか宿題をやらずに学校に来たような気持ちで入った」

 「しっかり準備したら総合で20~30位前後には行けると思っていた。最初より2回目の方が心身ともに余裕あるでしょ。でも春先病院で寝てたんだからそりゃキツいよね」

 走り込み不足は距離への耐性を落としていた。迎えた土砂降りの第13ステージ。ドロミテ山塊を覆う低気圧がヒョウを降らせる中、チームカーが上手くジャケットを渡せず体を冷やしてしまった市川は、体調を崩し翌日には肺炎を起こしてしまう。ドクターストップがかかり2回目のジロはここで終わりを迎えた。奇しくもそれは90年ジロで大ブレーキに見舞われたポルドイ峠を登るステージだった。

 「準備不足でジロに入っちゃったし何だかジロに失礼なことをしたような気がしてた」

 こうして終えたジロは、プロ生活の終わりも意味していた。

 「83年初めてスイスに行った時はプロにはなれないと思っていた。でもエリートで勝ててプロでも勝てた。ジロも走ったし叶えたい夢はだいたい叶えた。ツールを一回ぐらい走りたいとは思っていたけど、叶わない夢がひとつぐらいあってもいいのかなって」

 「嫁さんと一緒に監督の家に行って辞めることを伝えた。そしたら『マサ、他のことやるのも良いんじゃないか?』って」

 「監督が門まで送るよ。って言ってくれたのを断ってクルマに乗り込んだ。バックミラー越しに門が閉まるのを見て『あ〜俺のプロ生活も終わるんだ』って思ったよ」

 「『ちょっと寂しいね』って嫁さんがつぶやいたのを覚えてる」

 こうして平成を駆け抜けた市川雅敏の7年に及ぶプロ生活は終わりを告げた。

(文中敬称略)

市川(右)は現在、東京・葛飾区にある自身のショップ「Vitesse」(ヴィテス)を構える。左は師と仰ぐサイクルランドの根本喜正 Photo: Takashi NAKATA
中田尚志中田尚志(なかた・たかし)

Peaks Coaching Group – Japan」代表。渡米し約2年ハンター・アレンの元でトレーニングを学び、パワートレーニングを専門にしたコーチングを行っている。日本・アメリカで30年のレース経験があり、両国の自転車文化に詳しい。現在は京都在住。

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