ドイツ人サイクリストのMTB旅<2>鎖国時代から日本に足跡 長崎・出島で辿ったドイツ史

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<1>いざ、日本へ! 楽しい旅のはじまり

5月10日、木曜日=長崎

 午前7時半、マウンテンバイクで平和記念公園へ向かった。昨晩の“調整”(疲労をおして居酒屋へ…)が効を奏し、時差ボケはスッキリ解消している。長崎の街の短くて急な上り坂や路面電車は、サンフランシスコを思い起こさせる。公園へ向かう途中には、多くの学校があった。

 平和記念公園は、原子爆弾の被害を記録している。生徒たちが、噴水の前に設けられた石碑に刻まれた被爆者の手記について、片言の英語で説明してくれた。

 港まで自転車で戻り、ここで少し時間調整をした。その間、レンタサイクルを借りたヘッセン放送のフランツィスカと合流。11時頃、出島を訪れた。

 眼前に広がる出島は、江戸時代に、長崎港の中で人工的に作られた扇形の島だ。日本が自らの意思で外国との交流を閉じた時代に、ここだけは外国人居住地として貿易が認められ、世界と結びつく唯一の接点となった。

MTBで歴史をめぐるMTBで歴史をめぐる

 出島はまた、ドイツ人のアンドレアス・クライアー、ルイ・クニッフラー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが数年間、滞在した場所でもあった。彼らのうちの2人は、ヘッセン州の出身者だ。

 1634年6月27日にヘッセン州カッセルで生まれたアンドレアス·クライアーは、日本に足跡を残した最初のヘッセン人の一人である。彼は実業家、植物学者、医師、そして日本の研究者でもあった。

 クライアーはオランダの東インド会社に入ると、優れた能力で頭角を現し、1682年には約一年間、長崎にある出島支店を指揮した。しかし、日本で二度目の任務に就いた85~86年に、違法な私的取引で問題を起こし、以後、日本の当局は彼の上陸を禁止した。97~98年にバタビア(現在のジャカルタ)で死去した。

 クライアーは、東アジアや東南アジアで大規模な植物の標本採取を行い、同時に動物の研究や医療情報の収集にも努めた。1678年からはドイツ・レオポルディナ自然科学アカデミーに所属し、日本の多くの植物学者にも影響を与えた。

 クライアーは、欧州の印刷物のなかで最も早い時期に日本の植物の挿し絵を残している。また、オランダ人牧師のヘルマン・ブショフによってヨーロッパへ伝えられた日本の灸について、クライアーはその様子をイラストとして描写した。

 残念ながら、私たちはクライアーの足跡をどこにも見つけることができず、長崎市出島復元整備室の馬見塚純治室長もその名前を知ってはいなかった。

 クニッフラーは、ドイツと日本の貿易の先駆者であった。1859年、彼が日本で初めて設立したドイツとの貿易会社は、次第にグローバルな事業会社となっていった。1861年には、長崎駐在のプロイセン副領事に任命された。その職責を誠実に実行し、同年のプロイセン・日本貿易協定締結でも重要な役割を果たした。

 今でもドイツのデュッセルドルフ市はクニッフラーの名を顕彰し、彼が同市民だったとしているが、クニッフラーもまたヴェッツラー生まれのヘッセン人であった。

 出島では、日本で幅広く活躍したシーボルトの最初の足跡も見つけることができた。シーボルトは私たちと同じヘッセン州出身者ではなく、ドイツ中南部フランケン地方の出身だが、だからといって彼への関心はいささかも変わらない。医者であり、民族学者、植物学者でもあるシーボルトは、1823~1829年と1859~1862年の二度、出島で過ごした。

 最初はオランダ人を装って、無数の植物種を収集・保存し、植物学や治療法を教え、更には最初の西洋医として活躍した。日本では今なおシーボルトの名声が高く、彼の記念碑は「日本を学術的に発見した」「日本の繁栄を欧州の国々に伝えた」などと偉大な功績を称えている。シーボルトが日本の医学界に大きな足跡を残したおかげで、日本では医学の専門用語が最近までドイツ語で表されていた。

 第一次世界大戦の頃、長崎の北約百キロにあった久留米俘虜収容所に、ドイツ・ヘッセン州出身のルドルフ・シュリーアバッハが滞在していた。日本人が大戦中にドイツへ宣戦布告し、中国におけるドイツ拠点だった青島を攻略した際に捕らえられたシュリーアバッハ。収容所では演劇、歌、それにオーケストラのメンバーとなり、近隣で公演をして名声を得た。特に1918年、ベートーベンの交響曲第9番の日本初演を敢行。これはドイツから日本への文化輸出の歴史で、最も意義ある取り組みだったといえるだろう。

◇      ◇

スイスホテル南海大阪の前でクリスチャン・シャウフェルヴュル総支配人とスイスホテル南海大阪の前でクリスチャン・シャウフェルヴュル総支配人と

 14時、私たちはホテルに戻り、大阪へのフライトのために自転車を梱包した。空港での手続きは、非常に、非常に遅い。荷物は細心の注意を払って点検される。チェーンスプレーの持ち込みはOKだが、チェーンオイルは駄目だった。日本人は、荷物の点検を非常に厳密に行うが、その間、いつも落ち着いていて親切だった。

 私たちはホテルの部屋の鍵を返し忘れていたことに気付き、空港のインフォメーションセンターに預けることでホテルの了解をとった。定刻どおりボーイング機に搭乗。18時45分、大阪に着陸した。

 2台のミニバスでスイスホテル南海大阪へ到着すると、クリスチャン・シャウフェルヴュル総支配人が迎えてくれた。彼は宿泊ばかりでなく、自転車の組み立てや、大阪市内での短い移動までサポートしてくれた。夕食は36階のレストランでとった。価格は、やはり高い。その夜も翌日の詳細な計画を話し合い、コニカミノルタを訪問することにした。

レポート文・写真 ”Hinterländer Mountainbiker”(ヒンターランドのMTB乗り)
<3>地上150m!大阪平野を一望できる“道”

Hinterländer Mountainbiker(ヒンターランドのMTB乗り)
ドイツ・ヘッセン州、ヒンターランド出身のハラルド、ヨルク、マティアス、ウリ、ジギの5人から成る、MTBのグループ。1992年より、世界に散在するドイツ史を求め各地をMTBで訪れている。ヨーロッパのほか、中国、ブラジル、ナミビアを回り、今回は「日本に秘められたドイツ史をMTBで発見する旅」。

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