世界選手権85~89歳のカテゴリーで優勝85歳のアイアンマン稲田弘さん、自身の最高齢完走記録を更新 「一人だったらDNFだった」

by 後藤恭子 / Kyoko GOTO
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 以前『Cyclist』で紹介した世界最高齢の“鉄人”、稲田弘(ひろむ)さん(85)が10月13日、ハワイ島のコナで開催された「アイアンマン世界選手権大会」を16時間53分49秒で走り切り、自身がもつ大会最高齢完走者の記録を更新した。バイクセクションで無念のタイムアウトとなった前大会を踏まえ、絶対完走を目標に臨んだ今大会だったが、今度は原因不明の胃痛に悩まされ、補給が困難になるなどのアクシデントに見舞われた。何度も折れそうになる心を支えたのは、大会現地や日本で応援してくれる仲間の存在。「皆の期待に応えられないと、俺は絶対日本に帰れないと思った」という稲田さんの、帰国後間もない凱旋インタビューです。

スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195kmの3種目を走破するアイアンマン世界選手権。バイクセクションで沿道の応援に笑顔を返す稲田弘さん ©京葉インターナショナルスポーツ倶楽部

補給できず「何度もダメだと思った」

Q,大会を終えて帰国した今の気持ちは?

稲田 とにかくホッとしました。今回は体調が思わしくなくて、何度もだめかと思っていたんで。スイムも過去ワースト記録で、バイクセクションに入ってからは胃の調子がおかしくなり、食べても吐いたりして。でも周囲からの声援でなんとか持ちこたえて、後半は調子を取り戻すことができました。

Q,レース前、体調はあまり良くなかったんですか?

苦戦を強いられたスイムセクション Photo: Junichi YAMAMOTO

稲田 いや、万全でした。海は少し波立っていたけど、スイムで酔ったわけでもないし。前日まで体調管理も気をつけていたんですけどね。とにかく例年になく胃の調子が悪かった。スイムから上がった時点でおにぎりを食べたら気持ち悪くなって。でも食べなきゃならないので、ジェルで補給しながら行きました。それでもあまり摂れなくて、なんとなくエネルギー不足のような状態で走り続けました。ただ水分を摂れたことは救いでしたね。本当に微妙なところで、やっと完走できたというのが実感です。

Q,むしろ、それでよく完走されましたね…

稲田 ランも後半は大雨に見舞われて、水浸しになった道路をザバザバと進みました。夜で真っ暗だったんで、ヘッドランプをつけていても足元が見えにくい。そこで何度も気持ちが折れて、歩きました。走れるような状況ではなかった。それでずいぶん遅れをとり、その時点で制限時間内の完走は厳しいと思いながら走っていました。

 その後30km地点あたりで雨が止んだので、そこからは絶対歩かないと決めて走り続けました。とにかく行けるところまで行こうと。時間内に完走するために必要な速度を計算して、そのペースを維持して走りました。コナは平地がほとんどないんですけど、上りのところではペースダウンしても下り基調になったところでペースアップしたり。これでくたばったら仕方ない、でもこのペースでいかないと間に合わない。そういうギリギリのラインでした。

 それで走り続けたのがよかったのか、後半リズムが出てペースを取り戻しました。沿道の人たちも「間に合う!」といってくれて、それで勇気をもらって「行ける」と確信しました。そういう心持ちになると同じように走っていても苦しさが半減するというか、力が湧いてくるんです。それで花道もスピードを落とさず、むしろ上げてフィニッシュしました。

ランセクションを走る稲田さん ©京葉インターナショナルスポーツ倶楽部

 結果的に制限時間を6分残して16時間53分49秒でフィニッシュしました。まあギリギリだったんですけど、今回はだめかと思って走っていたので、とにかくラッキーという気持ち。花道に入ったとき、とにかく1秒を争う感じだったんで必死で走った。観衆がハイタッチを求めて手を出してくれるんですけど、それに応える余裕なんてまったくなくて(笑)、とにかくひたすらゴールを目指して走りました。

 本当に何度もダメだと思いましたね。前後に走っている人はいないし、しかも真っ暗闇。ああなると完全に自分との戦い。時間との戦い。孤独な戦い。あのときの心境というのが…なんていうか、アイアンマンレースなんでしょうね(笑)。

計測ポイントを通過するたび仲間の顔が浮かぶ

Q,応援が力に変わったと─

稲田 皆が見ていると思うと、それがモチベーションになるんです。どうしてもその期待に応えなくちゃならないと思う。選手通過タイムを計測するポイントがいくつかあって、通ると「ピッ」と音が鳴るんですよ。あれを聞くと本当にほっとするんだよね(笑)。電波を通じて応援してくれている人がいて、走っている間ずっと見られているという気持ちがあるんです。だから音が鳴ると応援してくれている人たちの顔が浮かんで、「あいつ通過した!」って言ってくれているような気がするんです。

稲田さんのリザルト。85~89歳のカテゴリーで優勝。全参加者2472人中2307位(男性では1666位)。DNSやDNFの選手も多い中での完走 ©2001-2018 World Triathlon Corporation

 ランセクションを豪雨で歩いちゃったときは、「ピッ」て音がしたときに予想より遅いタイムに「なんだあいつ!」って思われてるんじゃないかって(笑)。「まだ来ない、まだ来ない」と見ている皆の顔が浮かんでくるんですよ。だからとにかく、何が何でも次の「ピッ」を目指して頑張ろうと思えるんです。

 他の選手も皆そうだと思いますが、くたばっていても、なんとかもうちょっと早く次に辿り着きたいという気持ちがずっとあります。もう生存確認みたいなものですよね(笑)。その思いだけで走っていた感じ。そのためには補給もちゃんとしなくちゃいけないし、苦しいけど何か食べなきゃいけないって。それが心の支えになり、ものすごい大きなモチベーションになるんです。

Q,トライアスロンを始めた頃と今では、走る心持ちがだいぶ違うのでは?

稲田 だいぶ違います。一人で勝手に走ってるだけだったら、途中で走るのをやめていたと思います。応援してくれている人たちの期待に応えたいという思いが、「なんとかして完走したい」という気持ちになる。結局、モチベーションというのは自分以外の存在、応援してくれる人たちの存在だと思うんです。「期待に応えられないと俺は絶対日本に帰れないんだ」って思ったし、だから死んでもやり遂げないといけないって思うんですよね。それが力になって、僕をゴールまで連れて行ってくれたんだと思います。

沿道からの応援に応える稲田弘さん 提供: 稲田 弘

 沿道からの声援もありがたい。知らない人も自分の名前を呼んでくれるんです。「イナダー!」って。「INAGE」と書かれたジャージを見て、外人が「イナーゲ!」って叫んでくれたりね。最初、俺の名前かと思ってなんか変だなと思ったけど、「あ、そうかジャージの文字か」って(笑)。外人の声援て日本人と違ってものすごくオーバーなんです。それがたまらなくって、つい手を振り返したりして。辛いんだけど、しんどいんだけど、声をかけてくれる人に「サンキュー!」っていったりね。

 自分だけで走っていたら、きっとダメだった。体調が悪かったから余計そう思います。フィニッシュしたときは、やっぱり嬉しかったですね。楽にゴールしていたら、こんな気持ちにならなかったと思います。

進化を続けるバイク、タイムも短縮

Q,フィニッシュ後、「もう無理」と思うことはないですか?

制限時間内に走り切り、大歓声の中フィニッシュゲートをくぐった稲田さん Photo: Junichi YAMAMOTO

稲田 それはないですね。ゴールしたその日はヨレヨレで、体がいうことを聞かなくなるけど、大体翌日になるとケロッとしてます。どういうわけか、昔からあまり疲れが残らないんだよね。例年そうなんですけど、筋肉痛もない。周囲の人たちはレース後1週間くらいは何もしないそうですけど。

 大会の翌々日はオアフ島のホノルルに移動してゴルフに行きました。現地のトライアスロンチームと一緒にダイアモンドヘッドまで走って頂上まで登ったし、泳いだしね。周りからも不思議がられます。翌日の表彰式のときも、他の選手は脚を引きずりながら歩いていたりするけど、僕はポンポンと表彰台に上がっていくので変な感じではありました(笑)。

Q,前回のインタビューで「バイクはまだ成長している」とおっしゃっていましたが、その手応えは感じましたか?

稲田 力が入らなかったので、満足のいく走りができたかというとそうではないけれど、この一年の間に人から教えてもらった走り方を自分なりに実践して、去年より進化した形で今年臨めたと思います。練習で手応えを感じていたことも自信につながっていたように思いますね。不調ながらも最後までもって、かつ少しだけど去年よりタイムが良かったのは進化した結果だと思います。

世界選手権で稲田さんが乗った米国のバイクブランド「Ventum」(ヴェンタム)の「VENTUM Z」 Photo: Kyoko GOTO

 さらにいえばバイクのタイムはその前の年よりも良かった。風がなかったり、気象条件に恵まれたこともあるけれど。練習のときに感じたフィーリングというのかな。それがあったからわりと自転車は自信がありました。そういう意味ではバイクは楽しかったです。結果的に脚もつらなかったしね。

バイクのタイムは前回、前々回より更新 Photo: Junichi YAMAMOTO

 無駄なところに力が入らないというか、うまく脱力できたんだと思います。以前より効率的なペダリングができるようになったんでしょうね。僕が練習が楽しいと思えるのはそこにあるんですよ。練習のときに色々なことを試すわけです。それがうまくできたとき、「これいいな」と感じるフィーリングがある。それを積み重ねていくのが練習なんです。

「来年も自分の記録を塗り替えたい」

Q,ギネス記録を更新した気持ちと、来年の大会に向けての思いを聞かせてください

稲田 ギネスの更新は僕が頼んでいるわけでもないし、勝手に更新されるんで。いずれにしても来年の世界大会に向けてシード権を得て、予選に出なくても世界大会に出られることになったので、来年に向けてまた調整して、完走して、記録を塗り替えたいと重います。

85~89歳カテゴリーでのチャンピオンメダルを手にし、「来年もまた完走して、自身のもつ世界最高齢記録を更新したい」と意欲を見せる稲田弘さん Photo: Kyoko GOTO

 さらにいえばもうちょっと進化して、今年よりはもう少しマシなタイムを出したいなぁ。今回の反省点は、体調が悪くなった原因も含め、思い出すといっぱいあります。バイクでももうちょっとマシな走り方できたかなという思いもある。

 でも、坂はちょっとマシになったんですよ。ヒルクライムも一生懸命練習したし、“坂バカ”俳優の猪野学さんにもコツを教わったしね(笑)。去年より良い状態だと思っていたから「今年はイケる!」と思っていたんですけど…。だからこそ次回に向けてもうちょっとうまく調整して、バイクもさらに進化させたい。そして完走して、自分の手で記録を塗り替えたいですね。

Q,稲田さんが年齢のカテゴリーを切り拓いていくんですね。そのうち「100歳以上」のカテゴリーができたりして─

稲田 それはちょっと無理でしょうけどね~(笑)。まあでも、いまの体調からいって、死なない限りはもうあと何年かはできるかなと思っています。

 でも、事故には気をつけないとね。実は今年の7月中旬、合宿中に落車して鎖骨骨折したんです(笑)。ダウンヒル中にスリップして吹っ飛んじゃったんです。事故の瞬間はさすがにもうダメかなと思ったけど、結果的には鎖骨骨折だけで済みました。

Q,パフォーマンスに支障はなかったんですか?

稲田 しばらくスイムもランもできなくて、1カ月半後くらいに練習を再開できました。痛みは少し響くかなっていう程度で、バイクに乗るのは全然問題なかった。スイムがしばらく少しきつかったかな。いまはもう完全に回復しています。

Q,鉄人というか、もはや「超人」ですね…。

稲田 (笑)

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