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つれづれイタリア~ノ<118>面白くおかしく、変わってゆくツール・ド・フランスの“奇怪”なルール

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 105年の歴史を超えるツール・ド・フランスですが、我々が気づかない間に多くのルールが変わっています。例えばヘルメットですが、着用義務は2006年からです。ゴールから3km以内に集団落車が発生した場合、タイムがニュートラルになることなども、割と記憶に新しいものです。UCI(国際自転車競技連合)が全レースに適用されるルールを作る前に、主催者自身がルールを作っていました。特にツール・ド・フランスは厳しいことで有名です。今回は歴史を遡って、今で見るととんでもないユニークなルールを紹介したいと思います。「今に生きてよかった」と思いますよ。それでは、歴史への旅に出ましょう。

自転車のパンチングの一例。1948年に個人総合優勝を果たしたイタリア人のスーパー・チャンピオン、ファウスト・コッピの自転車 ©Museo del Ghisallo

ツール・ド・フランスの奇怪なルールの起源

 ジロ・ディタリアと比べて、ツール・ド・フランスは厳格なルールを設定することで有名です。チャンピオンであれ、有名な選手であれ、違反をした場合、容赦なく制裁を受けます。昨年の大会、第4ステージでペテル・サガン(スロバキア、ボーラ・ハンスグロエ)がマーク・カヴェンディッシュ(イギリス、ディメンションデータ)とゴールの手前に接触したことで、追放されたことが記憶に新しいです。

第1回ツール・ド・フランス個人総合優勝、モリス・ガラン(1871-1957)。立派に口にタバコを加えています ©Museo del Ghisallo

 その背景にはツールの生みの親、アンリ・デグランジュ(1865−1940)の強い影響があると考えられます。彼自身がロードレーサーの第一人者で、自転車に対する独特な「美学」を持っていました。ロードレーサーを人々に感動を与える「英雄」と見なし、超人のような忍耐力を欲求します。そのために、一般の人が絶対に真似できないような過酷で長いコースを設定していました。でも優勝者に高い賞金が待っていましたので、過酷な条件をつけられても参加したい選手は少なかったのです。ステージ優勝をしない選手にも完走するだけで日当のようなものが与えられたぐらい気前がよかったです。

自転車交換禁止!

 1903年にツールがスタートすると、参加費さえ払えば誰でも参加することができたのです。しかし、マッサーやメカニック、監督など、外部からのあらゆるサポートが禁止されていました。ライダー自身は、パンク修理や補給食の確保、寝どころを確保しなければなりませんでした。農家から卵や野菜を盗みながら、飢えをしのぐ人も少なくなかったそうです。外部からのサポートが見つかると、選手自身が即失格となります。

ツールで初めて認められた変速ディレーラー、スペル・シャンピオン(スーパー・チャンピオン)。スイスの元選手、オスカル・エッグが提案したものです ©Museo del Ghisallo

 自転車の交換も基本的に禁止でした。レースの前に選手登録とともに車検も行われ、自転車のフレームにナンバープレートをがっちり取り付けるパンチングが行われていました。ナンバープレートの移動は不可能で、トラブル発生やフォークやフレームの破損で自転車が使用不能になると、レースが終了します。この制度は1950年代まで続きました。

 デグランジュ氏はレーサーの「英雄的な苦労」を緩和されることにつながるので、変速ディレーラーを敵視しその使用を禁止しました。「変速ディレーラーは女々しい男が45歳になってから使うべし!」ということばを残したぐらいです。1907年にフリーホイールが登場すると、あらゆる手段を使って、使用していた選手にペナリティーを課そうとしました。そして変速ディレーラー使用禁止令は1936年まで続きました。自転車やパーツメーカーの圧力に負けた時、平等な戦いを保証するため、全員同じ自転車と同じ変速ディレーラー「Super-Champion」(スーパー・シャンピオン)の使用を命じました。

タイムではなく、ポイント制で戦え!

 ツール・ド・フランスでは、6年間(1906〜1912年)タイムによる測定を廃止し、個人総合優勝をポイントで争う時期もありました。ステージ優勝をする選手は1点とし、後からやってくる選手に5分ごとに新たなポイントが加算する仕組みを採用しました。ポイントの少ない選手は個人総合優勝を果たします。今と逆の制度です。

国同士で戦え!

 1930年から1961年までクラブチームの参加が禁止されました。デグランジュ氏にとってツールは強大な個人戦として考え、チームによるサポートが嫌いでした。公式スポンサー以外の企業参入は禁止とし、1930年から参加選手全員をナショナルチームに入るように命じました。自転車メーカーの一部が反発しスポンサーを止めると、キャラバン隊を誕生させ、足りない運営資金を補う自転車メーカー以外のスポンサーをレースに迎えました。でも1963年に自転車販売が低迷すると、メーカーの圧力とレースの知名度の低下を懸念した新しい運営員会はクラブチームを復活させました。

パンチングのディテール(ファウスト・コッピの自転車) ©Museo del Ghisallo

全員同じメーカーのジャージ着用と同じサポートカー

 1980年代までは各チームは、ツールが提供するジャージを着用しなければなりませんでした。枚数も少なく、落車による破損は自分たちで直さなければなりません。サポートカーも同様でした。ツールに車を提供する自動車メーカー(今年はチェコの自動車メーカーSKODA)は、全チームにサポートカーを与える仕組みでした。与えられたホテルも変更できず、フランスのチームには優先的に条件のいいホテルを与え、他の国のチームにはエアコンがない、またはシャワーからお湯が出ないという、レベルの低いホテルが割り当てられることが多かったと、イタリア人レーサーが覚えています。

アルコールは飲むべし!

 1960年代までレース中にアルコールの摂取が勧められていました。ツールの母体だった大手新聞、ロト紙でも「25kmごとにワイン2杯を飲むべし」と専門医による記事が掲載されていたほどです。タバコも肺活量を良くするために山岳レースの前で吸うべしとされていました。時代ですね。

 まだまだたくさんの変わったルールがありますが、今回はここまでにします。毎年変わってゆくレースの世界を意識しながら、レースを観戦してください。きっと楽しいはずです。

マルコ・ファヴァロMarco FAVARO(マルコ・ファヴァロ)

東京都在住のサイクリスト。イタリア外務省のサポートの下、イタリアの言語や文化を世界に普及するダンテ・アリギエーリ協会や一般社団法人国際自転車交流協会の理事を務め、サイクルウエアブランド「カペルミュール」のモデルや、欧州プロチームの来日時は通訳も行う。日本国内でのサイクリングイベントも企画している。ウェブサイト「チクリスタインジャッポーネ

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