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つれづれイタリア~ノ<115>「悪魔と呼ばれた男」クラウディオ・キャップッチ、インタビュー

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 久しぶりにイタリア人ロードレーサー、クラウディオ・キャップッチ(55歳)に会うことができました。イタリア自転車メーカー、カッレーラの2019年新商品発表会で来日をしたためです。諦めない性格、攻撃的な走りが持ち味でジロ・ディタリアとツール・ド・フランスで山岳賞獲得、いつも総合優勝まであと一歩の男。そして宇都宮で行われるジャパンカップに3年連続優勝(1993〜1995年)という偉業を記録した人として日本国内にも多くのファンがいます。イタリアが誇るヒルクライマーで、引退間際にマルコ・パンターニをチームメイトに迎えました。

90年代にトップヒルクライマーとして活躍したクラウディオ・キャップッチ氏。“ディアブロ”のウェアに身を包み、現在も世界各国のイベントでゲストライダーとして走る © veomag.it提供

 彼の口癖は「Il ciclismo e’ un mondo di sofferenza e di fatica」(自転車競技は苦しみと苦労の世界)で、多くの人に感動を与えました。尊敬を込めて「エル・ディアブロ」(悪魔)と呼ばれています。「悪魔」とは、悪い意味ではなく「賢い、強い」という意味でも使われている言葉で、彼にぴったりです。

 低姿勢で明るい性格でもあるために、とても親しみやすい伊達男です。懐かしい話と今、スポーツとの関わりを聞いてみました。

マイヨジョーヌを着てアタック

クラウディオ・キャップッチの生涯を描いた本「エル・ディアブロ、キャップッチとアタックの人生」

— クラウディオ・キャップッチはどんな選手でしたか。

 ヒルクライマー兼オールラウンダー。今のガリガリヒルクライマーと比べて、筋肉があるのでスプリント力もありました。そのためワンデーレースにも勝ちました。

— 1982年にデビューしました。ピゴーニ・エ・ミエーレカップという大会が輝かしいデビュー戦になったと思いますが。

 確か当時はまだ19歳でアマチュア時代でした。実はアマチュア・イタリア選手権にも優勝しましたし、1982年に13のレースで優勝を飾りました。そのおかげで、プロチームから注目されていましたが、当時のイタリアの規定では3年間アマチュアで経験を積むことが義務でした。1985年にイタリアのプロチーム、カッレーラ・ジーンズの監督として務めていたダヴィデ・ボイファーヴァの目に止まり、ロベルト・ヴィゼンティーニのサポートとして入団しました。

カッレーラバイクのPRで来日中のキャップッチ(中央)。左は元監督、ダヴィデ・ボイファーヴァ Photo: Marco FAVARO

— チームはどうでしたか。

 全てが新しかったです。その時まで自分で自転車の修理までせざるを得なかったですが、プロになってから専門スタッフもマッサーもいて、緊張していました。チームメイトから学ぼうと必死でした。

— 1990年ツール・ド・フランスで総合2位を飾りましたね。18年ぶりにイタリア人として表彰台に立ちました。どんな気持ちでしたか。

 忘れられないことですね。1990年はジロ・ディタリアで山岳チャンピオンに輝きましたし、調子がよかったです。でもツールは全く別世界でした。イタリアではある程度の知名度がありましたが、当時はただの新人でしたので、最初は誰からも相手にされなかったです。私の周りはチャンピオンばかりでしたが、この大会で自分自身を試したかったです。

 最初は山岳ジャージが取れたらと考えていました。なぜかというと、モレノ・アルジェンティン(イタリア)、ジャンニ・ブーニョ(イタリア)、グレグ・レモン(アメリカ)、ミゲル・インデュライン(スペイン)のような経験を持つ人たちと戦わざるをえませんでした。第2ステージで逃げを演出し、マイヨジョーヌ集団から10分以上の差がつき、少し自信がつきました。そしてTTの第12ステージでいきなりマイヨジョーヌを手にしました。周りの驚いた顔を覚えています。とにかく重圧がすごかったです。リーダーになる経験がなかったので焦っていました。チームもそれほど強くなかったですし、チームメイトのサポートは期待できないとも知っていました。でも性格上アタックが好きで、どうしても自分の力が見せたかったです。

明るく気さくな伊達男のキャップッチ氏 Photo: Marco FAVARO

 第16ステージにアタックを仕掛けた時はグループの中が混乱に陥りました。まさか!マイヨジョーヌはアタックすることが今までなかったからです。ステージはインデュラインが優勝しましたが、そのステージから私に対する空気が変わりました。みんなに認められたと分かりました。でも、そこまでたどり着くのが大変な道のりでした。運が必要だと思う人がいるかもしれませんが、ジロやツールのような大会に出るだけで、気が遠くなるつらいトレーニングと多くの犠牲を払う必要があります。1990年は調子が良かったので、チャンピオンたちと対等に戦えると確信していましたが、いざ戦ってみると、相当に厳しいものでした。私がまだ若かったし、ここで私のプロ魂が試され、そのおかげで一気に成長しました。

迷ってもいいが、諦めるな

1992年のツール・ド・フランス第13ステージ、山岳賞ジャージを着て頂上ゴールのステージを独走優勝 Photo: Yuzuru SUNADA

— プロになる若者はどれだけ犠牲を払う必要があるのですか。

 どのスポーツも似ていますが、まずは自分自身を信じることが一番大事です。そして自転車競技の本質を見抜けなければなりません。自転車競技は感動を与えてくれる素晴らしいスポーツですが、トレーニングはつらくて長いので、普通の人と同じ生活ができないことを覚悟しなければなりません。アスリートとして結果がほしいなら、多くのことを我慢しなければなりません。

 私は有名選手になりたかったので、全身全霊をトレーニングに注ぎ、それが結果に結びつきました。途中で何回も迷ったことがあります。やめることも考えていました。しかし、結果が出始めると、続けることができました。身体的なアプローチは重要ですが、メンタル的に強くないと、自転車競技は無理ですね。イタリアでこのことわざがあります。「Barcollare ma mai mollare」(迷ってもいいが、諦めるな!)。私も同じでした。逆に迷いがないと、人は成長しないと思います。自転車だけでなく人生において生かせる教訓だとわかりました。

ダヴィデ・ボイファーヴァ(左)とクラウディオ・キャップッチ Photo: Marco FAVARO

— 長いキャリアの中で多くの素晴らしい選手と走りました。カッレーラ時代はマルコ・パンターニがチームメイトでもありました。印象に残った選手はいますか。

 そうですね。マルコは特別でした。彼がチームに関わった時は、私はすでにキャリアを積んでいましたが、彼は新人でした。すごい人が来たなと実感しました。特にメンタル的に桁外れの強さがありました。でも私と正反対で、無口でした。最初は上りでかなり苦しんでいましたが、途中でペースをつかみみなさんが知っているマルコ・パンターニになりました。彼はトレーニング一筋でした。やはりステージレース向けの選手でした。彼は他の選手のエンジンがストップし始めると、力を発揮し始める人でした。そのために多くの人はパンターニの偉業を思い出します。アシストをしてくれなかった時はメディアから叩かれましたが、同じ部屋にいたので彼の考えはよく知っていましたし、仲が良かったです。

ランの楽しみを発見したキャップッチ © Runnersworld.it提供

— 引退してからどのように過ごしていますか。

 スポーツ関係のことなら基本的になんでもしています(笑)。カッレーラ社との関係もありますし、自転車キャンプの仕事が多いです。ゲストライダーとしてグランフォンドに呼ばれることが多く、今も自転車を存分に楽しんでいます。

 実は自転車だけではなく、スポーツ全般、特にランが好きです。選手だった頃は、けがのリスクを避けるために自転車以外のスポーツはしませんでしたが、スポーツに興味を持ち始めたきかっけは、ランだったかもしれません。13歳でクロスカントリーにはまり、泥まみれになりながらエンデュランス系スポーツの魅力を知りました。クロスカントリーの場合、サポートもありませんし、自分自身に責任が降り注ぐので、興奮します。逆にトラック競技には全く興味がありません。

— 引退後の最初の大会はマラソンでしたか。

 いいえ。トライアスロン大会でした。ハーフアイアンマンのようなもので、ランは20kmもありました。夢はウルトラマラソンに出ることです。準備に時間がかかるので、まだまだ無理です。

— 自転車をやる人にはランはオススメですか。

 昔はランもいいトレーニングでしたが、現在は無理だと思います。自転車競技はだんだん厳しくなってきましたので、脚の筋肉を休ませるために散歩でさえ敬遠されていまします。逆にランをする人の場合、トレーニング後の軽いサイクリングはオススメできます。

嚢胞性線維症の治療の研究費を集めるために、募金募集イベントに出席するキャップッチ(左)。キャップッチは積極的にイベントに参加
直伝の本を紹介するイベント

レースがないと強くなれない

— 宇都宮で行われたジャパンカップに3回連続優勝を飾りました。どんな思い出がありますか。日本人選手はどうでしたか。

 ジャパンカップには多くの思い出があります。まず、日本は遠かったです。確か日本航空を使っていました。私の記念テレフォンカードも作ってくれていましたし、全て新しかったです。コースは想像より厳しかった。そして日本人の戦力は未知数でした。日本人選手は案外と粘りましたが、周回を重ねるたびにみんな消えました。金銭的にも魅力がありました。当時の優勝賞金は6000万リラ(今で換算すると約800万円)。悪くなかったです。

ジャパンカップでは1993〜1995年に3連覇を飾った。1995年はザニーニ(右)、ジャネッティ(後)と終盤3人になり、ザニーニとの競り合いをタイヤ1本差で制した Photo: Yuzuru SUNADA

 1993年と1994年に単独逃げで優勝しましたが、1995年大会は鮮明に覚えています。ステファノ・ザニーニ選手(イタリア、当時ゲヴィス・バラン)とマウロ・ジャネッティ選手(スイス、当時ポルティ)は私を勝たせないために話し合い、罠を仕掛けていました。ジャネッティは私に脚を使わせるためアタックを連続し、ザニーニはずっとは私の後ろにくっついていました。ザニーニはスプリンターですし、私は負けるに決まっています。頭に血が上りました。最後の上りに全てをかけました。力を振り絞り、アタックを先行し、スプリントで勝ちました。ものすごくいい気分でした。その後は日本に行けなかったので、勝つことができなくなりました(笑)。

— 現在の日本のロードレーサーはどう思いますか。

 日本でまだロードレースが少ないことに驚いています。ジャパンカップとツアー・オブ・ジャパンはありますが、いまだに国際レースが少ない。アフリカの方が多いくらいです。かつてはトラック競技において日本人に勝てる人は少なかったのに対し、トラック競技にもレベルが落ちました。やはりレースがないと、強くなれないと思います。

— ありがとうございます。

プロ時代の主な成績

1989 ジロ・デル・ピエモンテ
1990 ジロ・デ・イタリア 山岳賞
  ツール・ド・フランス 総合2位
1991 ミラノ〜サンレモ
  ジロ・デイタリア 総合2位、ポイント賞
  ツール・ド・フランス 第13ステージ優勝、総合3位、山岳賞
1992 ジロ・ディタリア 総合2位、山岳賞
  ツール・ド・フランス 総合2位、山岳賞
1993 ジロ・ディタリア 総合3位、山岳賞
  クラシカ・サンセバスティアン
  ジャパンカップ
1994 カタルーニャ一周総合優勝
  トレ・ヴァッリ・ヴァレズィーネ
  ジャパンカップ
1995 ジロ・デル・ピエモンテ
  ジャパンカップ

マルコ・ファヴァロMarco FAVARO(マルコ・ファヴァロ)

東京都在住のサイクリスト。イタリア外務省のサポートの下、イタリアの言語や文化を世界に普及するダンテ・アリギエーリ協会や一般社団法人国際自転車交流協会の理事を務め、サイクルウエアブランド「カペルミュール」のモデルや、欧州プロチームの来日時は通訳も行う。日本国内でのサイクリングイベントも企画している。ウェブサイト「チクリスタインジャッポーネ

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