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つれづれイタリア~ノ<113>300kmマラソンから生まれた最長クラシックレース「ミラノ~サンレモ」の歴史

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 最近はセミナーや講演会などを各地で行っていて、その内容は、自転車の歴史からイタリアの街並みが美しい要因とその法的整備まで、内容は多岐に渡ります。人の前でセミナーを行う上で必要なものは、膨大な知識と精密な下準備です。大変だろうと思う人がいるかもしれませんが、実にその過程が面白く、久しぶりに「勉強する」楽しさを味わっています。過去を知ることで現在の理解につながるからです。今回の話は、きょう3月17日に開催される春のクラシックレース「ミラノ~サンレモ」の誕生についてです。レースの前にぜひ読んでください。

1920年代インブレア峠に挑むアルフレード・ビンダ選手 ©Fondazione Eroica

市民ラン大会のコースを自転車で

 ミラノ~サンレモはもっとも有名なワンデーレースの一つです。イタリア北部にあるファッションと金融の街、ミラノからスタートし、アペニーニ山脈を越え、カンツォーネと花の街、サンレモをゴールとする大会です。距離は約300km。ジロ・ディタリアより歴史が古く、1907年に始まり今年で109回目の開催を迎えます。現在、UCIワールドツアーに登録されています。

 私も知りませんでしたが、もともとミラノ~サンレモは自転車レースではなく、とてつもなく長い市民ラン大会として誕生しました。コースは現在とほぼ変わりません。ミラノからサンレモまで300kmの長距離マラソン。2ステージでした。しかし、あまりにも距離が長く過酷だったため、数少ない参加者のほとんどが1日目でリタイヤし、かなり不評だったようです。確かに2日間で300kmを走破することはほぼ不可能に近い。

 しかし、自転車なら話が別。現在、自転車で300kmを超えるレースはほとんど存在しませんが、当時は400kmを超えるレースが多く「300kmは大した距離ではない」という20世紀初頭の思想を反映していました。電気の普及やラジオの発明、薬の開発、X線の実用化など、科学の著しい進歩に対し人間も進歩しなくてはいけないという考え方が浸透し、スポーツ界にも超人的な活躍が求められる時代に変わっていました。

 そこで、イタリア大手スポーツ新聞、ガゼッタ・デッロ・スポルトのスタッフがミラノ~サンレモの可能性に目をつけ、同じコースを自転車で走らせる試みにでました。

1920年のミラノ~サンレモ ©Fondazione Pirelli

ミラノ~サンレモ初期の競技ルール

 今では考えられないですが、自転車競技のパイオニアたちはチームやクルマによるサポートは受けずに走らなければなりませんでした。トラブルの時はライダー自身がメカニックになり、他人の手助けを受けたとわかると、即失格となります。

 もちろん、GPSのない時代です。コースを事前に把握しないと、迷子になりかねません。スタート時に地図とスタンプカードが渡され、決まった地点を通過し押印をしてもらわないと、失格となります。その上、替え玉を避けるため、各選手の証明写真が撮られ、レースの途中でしばしば身分が確かめられることがありました。さらにミラノからサンレモに向かう列車に審査員が入り、鉄道で移動しているライダーがいないかどうかのチェックに回りました。

 当時の道路は舗装されていないため、でこぼこ道に耐える自転車はそれなりの重さでした。フレームとホイールの重さはおよそ14kg、タイヤも500gずつ。標準装備は泥除け、ライト類とベル。全部合わせると、20kgに達したでしょう。変速機もありません。変速ギアが発明されてからも「男らしくない!」という理由で禁止されていた時期もあります。

持ち物もユニーク

 修理に必要なドライバーとレンチ類、針金とポンプ。水分補給用に水、ワインとグラッパ(アルコール度数40を超える蒸留酒)、さらに苦しい時にはタバコで一服。補給食は途中にある食堂や農家に入り自ら手配する。有名なライダーは、ホテルや富豪たちの家で暖かいシャワーも浴びることができました、そして必ずワインで乾いた喉を潤す。

1920年代のスタイル(再現) ©Eroica.cc

 今では考えられないことですが、当時アルコール類は水のようなものだと考えられ、エネルギー源にもなっていました。そして3月には必需品だったのです。3月のイタリアはまだ寒く、寒さを凌ぐためアルコール度数の高い飲み物を口にしないとレースが続けられないほどでした。

 こうして第1回ミラノ~サンレモが1907年4月14日に幕を開けました。しかし天気が非常に悪くみぞれも降っていました。参加予定の62人のうち、33人しか現れませんでした。5時17分レース開始。約11時間後にゴール。平均時速約26kmという当時として驚異的なスピードでした。

 寒さのほか、ライダーは踏切という敵とも戦わざるを得ませんでした。踏切が降りると、20分間脚が止められることがしばしばで、ペナルティを食らってでも踏切に侵入する人が多くいました。

 さて、賞金はどうなっていたでしょうか。初優勝を飾ったフランス人選手、世界アワード保持者のルシアン・プティブレトン(1882-1917)が手にしたのが、300リラ(換算しますと100万円以上)。当時の物価を考えたら、かなり高額な賞金でした。

悪天候との戦い

1910年、伝説のミラノ~サンレモ (コリエーレ・イルストラートの表紙より)

 やはり春のクラシックといえども、雨が多い季節です。そして雪もしばしば降ります。2013年のトゥルキーノ峠で、雪の影響でレースが中断されたことが記憶に新しいです。ライダーたちがバスに載せられ、山越えが行われました。一方、当時はサポートがゼロ! 第4回1910年ミラノ~サンレモは“ミラノ~シベリア”と呼ばれるぐらい、大雪に見舞われました。ミラノを後にした60人の選手たちのうち、たどり着いたのは7人だけでした(そのうち3人はクルマを使ったとして失格)。

1910年の伝説のミラノ・サンレモ ©Fondazione Eroica

やはりイタリア人に厳しいコース?

 近年イタリア人選手はなかなか勝てないでいます。その原因はおそらくコースにあります。厳しい起伏がないため、スプリンターに有利だと言われています。歴代優勝者を見てみると、エディ・メルクス(ベルギー)、エリック・ツァベル(ドイツ)、ファビアン・カンチェッラーラ(スイス)、マーク・カヴェンディッシュ(イギリス)といった顔ぶれ。ベルギー人やスイス人、オランダ人など筋肉質な選手が多い国が圧倒的に強い傾向があります。

2006年に制したフィリッポ・ポッツァート以来、イタリア人のミラノ~サンレモ優勝者は現れていない ©Yuzuru SUNADA

 1953年まではイタリア人が勝利することが多かったのですが、翌年から勝てないレースが続きました。そこでイタリア人を勝たせるために、1960年にポッジョ峠、1965年メルロ峠、1982年にチプレッサ峠が導入されました。それも虚しく、イタリア人が勝ったり負けたりが続き、最後に勝ったのは2006年のフィリッポ・ポッツァート(現ウィリエール・トリエスティーナ=セッレイタリア)。もう12年前です。

 さて、今年は誰が勝つのでしょう。今夜いよいよ2018年ミラノ~サンレモが開かれます。私はリグリア地方のおいしい白ワイン、アンチョビとフォカッチャを口にしながら見ます。

マルコ・ファヴァロMarco FAVARO(マルコ・ファヴァロ)

東京都在住のサイクリスト。イタリア外務省のサポートの下、イタリアの言語や文化を世界に普及するダンテ・アリギエーリ協会や一般社団法人国際自転車交流協会の理事を務め、サイクルウエアブランド「カペルミュール」のモデルや、欧州プロチームの来日時は通訳も行う。日本国内でのサイクリングイベントも企画している。ウェブサイト「チクリスタインジャッポーネ

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