安井行生さん選出・サイクリストへお勧め図書⑥自転車の感動を文字で味わいたい人におすすめ『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』

by 安井行生 / Yukio YASUI
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安井行生さんおすすめ『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』(講談社)著者:ランス・アームストロング 訳者:安次嶺佳子 Photo: Yukio YASUI

 自転車のインプレッションライダー、安井行生さんが「この冬おすすめしたい一冊」は、世界最大の自転車レース「ツール・ド・フランス」で7年連続総合優勝に輝きながら、ドーピングスキャンダルで永久追放された元プロロードレーサー、ランス・アームストロングの著書『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』(講談社)。ドーピング疑惑とともに世間の評価が下がってしまった本作ですが、自転車の美しさを表現する描写は秀逸で、自身が“自転車を書く”仕事に進んだきっかけにもなったそうです。この他に、直接的ではないけれど「自転車との関わり合いを考えさせられる本」3冊も紹介してくれています。

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 この本のタイトルを見て眉をひそめている読者の方々の顔が目に浮かびます。中には、けしからん、と怒りだす方もいるかもしれません。先に謝っておきましょう。すみません。

 これは、ランス・アームストロングが生存率数%と言われた癌との闘いからツール・ド・フランス制覇までの半生を記した自叙伝です。「奇跡と感動の復活劇」として話題となり、各国でベストセラーとなりました。

「ツール・ド・フランス2005」で7連覇を達成したランス・アームストロング Photo: Yuzuru SUNADA

 しかしこの本が出版された十数年後、ランスはドーピングによってツール・ド・フランス7連覇を含むほぼ全てのタイトルをはく奪され、自転車競技から永久追放されます。その後、ランス本人もドーピングの事実を認めました。だからこの本には嘘がたくさん書かれていることになります。それは事実です。

 では、なぜそんな本を紹介するのか。この本と出合ったのは、もちろんライターになるずっと前のこと。2000年の夏。僕は帰省した折に本屋でこの本が平積みされているのを目にします。それはちょうど自転車にハマりかけていたころ。4畳一間のボロアパートに愛車パナチタンと同居する貧乏大学生、毎月『サイクルスポーツ』を買ってロードレース中継を欠かさず見て、スポンジのように自転車の知識を吸収しつつあるときでした。

 「え、マイヨジョーヌ?って、あのマイヨジョーヌのこと?」

 驚きながらこの黄色い本を手に取ったことをよく覚えています。ページを数枚めくって本文の書き出しを目にしたそのとき、思いがけず全身が固まってしまいました。本章冒頭の4行が、あまりに美しかったからです。少しだけ引用します。

 「僕は100歳で死にたい。背中にアメリカ国旗、ヘルメットにテキサスの一つ星を抱いて、アルプスの山々を自転車で時速120kmのスピードで駆け下りた後に。僕はもう一度、フィニッシュラインを越えたい。妻と大勢の子供たちが狂気喝采する中を。それからフランスのどこまでも続くヒマワリ畑の中に身を横たえ、静かに息を引き取りたい」

 文字で自転車の感動を伝えることはできる。自転車で走ることの美しさ、自転車と共に生きることの素晴らしさを伝えることはできるんだ。この文章を読んで本当にそう思いました。

 原文を書いた(であろう)サリー・ジェンキンス氏の文才か、それとも安次嶺佳子氏の翻訳が素晴らしかったのか。おそらくその両方だと思いますが、僕はそれまで、自転車に関してこれほど美しい文章に出会ったことはありませんでした。今思えば、このときに“自転車ライター”という職業が頭の片隅に貼りついたのかもしれません。

 このようなレベルの高い文章が、この本の中には散りばめられています。ランス・アームストロングのドーピング確定によってこの本の評価は地に落ちてしまいました。でも僕は、それによってこの文章がこの世から忘れ去られてしまうのはあまりに惜しいと思うんです。それがこの本を紹介する理由です。ランスがなにをしようと、どんな人物だろうと、文章のパワーは変わりません。

 そういえば邦題もいい。原題は『It’s not about the bike』(自転車についての話じゃない)という(少なくとも直訳する限りでは)ちょっと冴えないものですが、日本では『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』という、なんとも言えない余韻が残るタイトルになりました。

 出版当時の日本では、今よりもっともっと“マイヨ・ジョーヌ”という単語の認知度は低いものでした。ロードレースのファンじゃないと知らなかった、と言ってもいいでしょう。そんな言葉をタイトルに採用した編集者の判断には頭が下がる思いです。

 本のすすめ方としてはかなり変ですが、ストーリーを真面目に追ってもしょうがありません。ランスが数々の困難を乗り越えたのは事実ですが、書中にたくさん出てくるドーピングに関する記述はほとんど嘘なんですから。だからドキュメンタリーとして読むロードレースファンにはお勧めできません。ストーリーは半分フィクションとして流しながら、所々に散りばめられている美しい文章そのものを味わう。それが今のこの本の楽しみ方です。

自転車との関わり合いを考える

 さて。“嘘にまみれた本”を紹介して終わり、ではちょっと無責任かもしれません。ここは「自転車に関する本で影響を受けた、あるいは人にお勧めしたい1冊を紹介してください」という編集部からの原稿依頼を完全に無視して、自転車とは直接的には関係ない本を3冊挙げて終わりにしたいと思います。

 自転車にどっぷりはまると、他の趣味にはエネルギーを大きく割けなくなるものです。自転車を本気で楽しむには体力と時間とお金が必要ですが、ヒトが使える体力や時間やお金には制限がありますから。そもそも趣味とはそのくらい夢中で没頭しないと面白くないですし。

 でも、思考には限界がありません。思考を喚起するのは文字です。文章です。いい文章があれば僕らはどこへでも行けるんです。ここに挙げた3冊、『人間の土地』(サン=テグジュペリ、堀口大学訳 新潮文庫)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹/平尾剛、朝日新書)、『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹、文藝春秋)は、一見自転車とは関係なさそうですが、いずれも自転車との関わり合い方を深く考えさせられる本です。

左から『人間の土地』(サン=テグジュペリ、堀口大学訳 新潮文庫)、『合気道とラグビーを貫くもの』(内田樹/平尾剛、朝日新書)、『走ることについて語るときに僕の語ること』(村上春樹、文藝春秋) Photo: Yukio YASUI

 自転車が大好きなら、自転車のことだけを考えるなんてもったいない、と僕は思います。こんな本をきっかけにして、思考だけでも外海へと漕ぎ出してみませんか。外の世界から自転車の世界を見たときには、視野がグッと広がっているはずです。外の世界から自転車の世界に戻ってきたときには、自転車をもっと深く理解できるように、もっと深く楽しめるようになっているはずです。

 雨がしとしと降っている日。脳が知的な刺激を求めている日。そんな日には、サドルから降り、本を手にしてお気に入りのカフェにでも行って、思考を自由に飛躍させる。僕は今でもそうやって、自分と自転車との関わり合い方を模索しています。

安井行生
インプレッションライダー・安井行生(やすい・ゆきお)

大学在学中にメッセンジャーになり、都内で4年間の配送生活を送る。ひょんなことから自転車ライターへと転身し、現在は様々な媒体でニューモデルの試乗記事、自転車関連の技術解説、自転車に関するエッセイなどを執筆する。今まで稼いだ原稿料の大半をロードバイクにつぎ込んできた自転車大好き人間。

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