自転車競技名門・日本大学へ進学【二十歳のころ 坂本勉氏<2>】“絶対に五輪へ”全力でつかんだ世界6位

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 SANSPO.COMの連載「二十歳のころ」より、ロサンゼルス五輪の自転車競技(スプリント)銅メダリストで、元競輪選手の坂本勉氏の回を掲載します。

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◇         ◇

合宿所が嫌で嫌で…

競輪学校での練習風景。20代はアマ、プロを通じてひたすら練習に励み、トップを目指した (本人提供)

 日大自転車部の合宿所は世田谷の八幡山にありました。上下関係が厳しい時代でしたからね。1年生は40~50人分の食事を作って、掃除、洗濯をしなければならない。2、3時間しか寝ていられないし、先輩はアラを探して言いがかりをつけてくる。風呂も作法や順番があるから面倒くさかった。夏場は風呂には入らず、屋上にある洗濯機のホースで体を洗っていたほどです。今では笑い話で、先輩たちとも仲がいいけど、下級生の時は合宿所や大学にいるのが嫌で嫌でしようがなかった。

 冬場のオフシーズンになると、1カ月に1日だったかな。サービスデーみたいなものがありました。その日は門限(通常は午後9時)なしで、翌朝の午前6時半の朝食までに戻っていればいい。夕食を食べ終わると、すぐに合宿所を飛び出しました。お金がないから、同期の連中と新宿や近くの公園をブラブラするだけでしたけどね。それでも気分転換になったし、十分楽しかった。かわいいものです。

▼メモ 日大自転車部
1951年創部。83年から2012年までインカレ総合30連覇。通算50度優勝。バルセロナ五輪代表の小嶋敬二らを輩出。

プロよりアマが強かった時代

 五輪に絶対出るという強い気持ちを持って入部したので、自転車の練習はもちろん全力で励みました。2年の時にはアジア大会やインカレにも勝つことができましたし、ロス五輪の1年前(1983年)の世界自転車選手権(スイスのチューリヒで開催)は気合が入りましたね。ここでいい勝負ができないようなら、五輪でも期待できませんから。スプリントで6位。日本人の世界選手権での入賞は、たぶん私が初めてでした。

 そのころの世界選手権はアマチュアとプロの二本立て(現在はプロ、アマを問わない)。競技は別々に行われていました。プロのほうがレベルが高いと思われがちですが、自転車競技の短距離は、アマが強かった時代です。欧米ではロード(長距離)の選手の場合、プロになれば、賞金の高いレース(ツール・ド・フランスなどが有名)で稼げますが、トラックが主戦場の短距離の選手はプロになっても、日本の競輪のような活躍できる場がなく、食べていくのが大変なんです。

ロサンゼルスへ手ごたえ

 だからアマの身分のまま、五輪や世界選手権を目標に頑張る選手が多かった。賞金はもらえませんが、メダルを取れば、国から報奨金や年金などが支給されるし、共産圏の選手は引退後の生活が保証されます。トップクラスがアマに居続けているから、ヨーロッパ勢は層が厚く、強い選手がたくさんいました。200メートルのタイムトライアルもプロよりもアマのほうが速かった。

 中野浩一さん(世界選手権でプロ・スプリントで1977年から10連覇を達成)なら、アマの部に出てもメダルは取れたと思いますが、何連覇もできたかどうか。そのぐらい、アマのレベルが高かった。

 世界選手権で入賞できたので、ロサンゼルスでも何とか戦えそうな手応えはつかみました。あとはもう、がむしゃらに練習するだけでした。

<3>に続く

坂本 勉(さかもと・つとむ)

 1962年8月3日生まれ、55歳。青森県三戸郡出身。日本大学在学時の84年にロサンゼルス五輪に出場。スプリントで3位になり、自転車競技では日本初のメダル(銅)を獲得した。競輪に転向後は89、91年オールスター競輪、90年KEIRINグランプリなどの大レースを制し、賞金王にも2度輝いた(89、90年)。2011年6月に引退。現在、サンケイスポーツで特別競輪の決勝当日に予想コラム「みちのくひとり言」を連載中。現役時代のサイズは1メートル68、73キロ、太ももは64センチ。

SANSPO.COMより)

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インタビュー 二十歳のころ・坂本勉氏

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