ボイコットで五輪が目標に【二十歳のころ 坂本勉氏<1>】伸び盛り高校生…あっという間にモスクワ代表に

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 SANSPO.COMの連載「二十歳のころ」より、ロサンゼルス五輪の自転車競技(スプリント)銅メダリストで、元競輪選手の坂本勉氏の回を掲載します。

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 大型連載の第24回は、ロサンゼルス五輪(1984年)の自転車競技で日本初どころか、東洋で初めてとなる銅メダルを獲得した坂本勉氏(55)が登場。“ロスの超特急”と呼ばれ、柔道や体操などに比べて、知名度が低かった自転車競技の魅力を日本中に伝えた功労者であり、プロ転向後も競輪のトップレーサーとして活躍。圧倒的な先行力を武器にした強気なレース運びで、中野浩一氏や滝沢正光氏らと名勝負を演じた。自転車にすべてを捧げた青春時代を振り返る。

気楽な立場で出た大会で好成績

ロス五輪の自転車スプリントで銅メダルを獲得。快挙を成し遂げた坂本勉の名前は日本中に知れ渡った(本人提供)

 もう37年も前の話になりますが、モスクワ五輪(1980年)の年は目まぐるしい一年でしたね。私が高校3年の時です。

 兄(坂本典男氏、当時日本大学3年=のちに競輪に転向)は自転車競技の指定強化選手でした。5月に五輪に派遣する選手たちの大会が伊豆の競輪学校で開催され、高校2年の時に全国大会で優勝していた私も出場できたんですね。

 高校は青森の三戸ですから、私たちは10月の国体が終わると、寒いし雪も降りますから、屋内練習に切りかえます。屋外で自転車に乗り出すのは3月下旬からでした。大会まで本格的な練習ができるのが1カ月ちょっとでしたが、兄たちのレースを見たり、一緒に走るのも勉強になるので、気楽な立場で出場しました。そうしたら、1000メートルのタイムトライアルは高校新の記録で全体の2位になって、スプリントは5位。伸び盛りの時期で調子も良かったんでしょうね。強化選手を負かしたこともあって、候補選手に選ばれ、そのあとすぐに強化合宿に呼ばれました。そこでもいい成績だったので、代表に選ばれてしまった。あっという間でしたね。

▼メモ 坂本則男(さかもと・のりお)
1959年生まれの元競輪選手。競輪学校51期生。1983年デビュー。2014年引退。弟・勉氏の師匠も務めた。

兄弟代表も日本がボイコット

 兄も選ばれたので自転車初の“兄弟代表”などと、少しは騒がれたものですが、米国はもう五輪の不参加(ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議)を表明していたと思うし、日本政府もボイコットをするという話でした。報道や世の中のムードからも、モスクワには行けそうにないなとは感じていました。正式な知らせは高校の先生から教えてもらったんじゃないかな。

 私はタナボタみたいな感じで代表になったので、選ばれただけで満足でしたけど、兄たちは悔しかったと思いますよ。当時は今と違って、五輪はアマチュアしか出られませんし、チャンスはそうそうありません。年齢や経済的なこともあって、入念に準備をして一発勝負に懸ける選手が多かった時代ですからね。

 高校を卒業したら、競輪学校へ行ってプロになるつもりでしたが、五輪という目標もできました。4年後は進学していれば、大学4年生。年齢的にも挑戦するにはいい時期じゃないですか。先生や先輩の勧めもあって、結局は進学することに。自転車の大学日本一で、筋トレや水泳など、当時としては最新のトレーニング法を積極的に取り入れていることでも知られていた日本大学にお世話になることになりました。

<2>に続く

坂本 勉(さかもと・つとむ)

 1962年8月3日生まれ、55歳。青森県三戸郡出身。日本大学在学時の84年にロサンゼルス五輪に出場。スプリントで3位になり、自転車競技では日本初のメダル(銅)を獲得した。競輪に転向後は89、91年オールスター競輪、90年KEIRINグランプリなどの大レースを制し、賞金王にも2度輝いた(89、90年)。2011年6月に引退。現在、サンケイスポーツで特別競輪の決勝当日に予想コラム「みちのくひとり言」を連載中。現役時代のサイズは1メートル68、73キロ、太ももは64センチ。

SANSPO.COMより)

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