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砂田弓弦の風を追うファインダー<20>ロードレース界の巨匠チネッリの思い出 力道山のフレームも作った男

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プロレースの世界は虚像

 自転車のプロの選手寿命はよくて10~15年、短ければそれこそ2、3年で終わる。普通の力だったらサラリーマン並みの年収だが、世界のトップクラスだと数億円になる。周りからはスター扱いされ、いろんなスポンサーや取り巻きが寄ってくる。

 だけど、引退すれば並の力の選手もチャンピオンも、ただの人に戻る。日本からこれまでプロ選手は数えるほどしか出ていないから分からないかもしれないが、ヨーロッパには星の数ほどの選手と元選手がいる。僕の周りはそういう自転車人であふれているから、結局のところ、自分にとってプロレースの世界は虚像のようなものであり、引退後に彼らが働く世の中が実像というような感覚だ。

 もちろん、この「虚像」の世界に生きている選手、あるいは元選手にも尊敬すべき人物は少なからずいて、例えばブーニョは僕が若いときにいっしょに自転車に乗っていた友人であると同時に、人間的にもすばらしい存在だ。インドゥラインもしかり。勝っても負けても表情に感情を出さなかったから、時代劇に登場するサムライを思い浮かべた。

1992年、トスカーナでひっそりと暮らすチーノ・チネッリの自宅を訪問したとき ©Yuzuru SUNADA1992年、トスカーナでひっそりと暮らすチーノ・チネッリの自宅を訪問したとき ©Yuzuru SUNADA

 フレーム職人の世界は、そうした選手たちと接しながらも、朝から夜までパイプに火を入れたり、ラグを削ったり、部品を組み付けたりするところで生きている。実社会での一つの労働の場だった。少なくとも僕が取材した頃は。

 だから自分が写真で生きていくにあたり、あとあとまで影響を受けたり、言動を座右の銘にしたりするのは、選手ではなく、実現場で働くフレーム職人の方が多かった。

 それはやはり自分のやっている仕事と共通しているからだろう。プロレースという虚像と、写真を撮って売るという実像が交わる点で働くからだ。

 ここで、これまで出会った思い出のフレーム職人を紹介していきたい。

トップレーサーからフレーム職人へ

 僕が自転車に興味を持った頃、すでにチーノ・チネッリは自ら起こした会社をパイプメーカーのコロンブスに渡していた。1977年のことである。

 今のチネッリはコロンブスの2代目アントニオ・コロンボが経営するグルッポ社のブランドの1つである。アントニオはミラノの目抜き通りにギャラリーを持つほどアートが好きで、レーシングテイストのないアーティスティックな自転車作りを目指している

 しかし、チーノ・チネッリが作っていた時代の自転車は、日本でも憧れのレーシングブランドだった。実際、1964年の東京五輪の頃に活動していた日本の人たちに聞くと、東京の片倉工業など、当時の日本のトップメーカーが目標にしたのはやはりイタリアのチネッリだったというし、五輪を走る日本選手のために輸入もされた。

 驚くことに、プロレスラーとして国民のヒーローだった力道山も自転車をチネッリにオーダーしている。僕は実際に力道山が工房を訪れた時の写真をもらった。チーノ・チネッリ本人からである。

 僕はチーノ・チネッリのお宅にこれまで2回お邪魔している。最初は1992年で、2度目が2000年だった。とっくの昔に隠居しており、どうやって連絡をとっていいかわからなかったが、息子のアンドレーアがミラノにいてチネティカという最先端のモノコック自転車を手掛けており、彼から連絡先を聞き出した。

 初めての訪問時はすごく緊張し、世界の巨匠に対して失礼があってはならないと思って早くから自宅前にクルマを停めて待機。約束の時間が来ると同時に呼び鈴を鳴らしたことを今でも覚えている。

自転車作りで世界にその名を轟かせたチーノ・チネッリは、コッピとバルタリの時代に活躍した優秀な選手だった ©Yuzuru SUNADA(写真はチネッリ本人からの提供)自転車作りで世界にその名を轟かせたチーノ・チネッリは、コッピとバルタリの時代に活躍した優秀な選手だった ©Yuzuru SUNADA(写真はチネッリ本人からの提供)

 お宅に入るとすぐに自転車の話題になったが、「バルタリがアマチュア時代、僕に勝ったなんて言っているけどあれは嘘だよ。だって確かにゴールスプリントで僕より先にゴールしたけど、彼はゼッケンをつけていなかった。なぜだか分かるかい? 彼は最初からそのレースには出てなくて、途中から飛び込みで入ってきたのさ!」と言った。

 バルタリというのはイタリアの国民的英雄ジーノ・バルタリのことで、ファウスト・コッピのライバルだった。僕がこの仕事を始めた頃は、まだフォルクスワーゲン・ゴルフを自分で運転しながらレース会場を回っていた。行くところ、いつも人だかりができ、自転車界の神的な存在だった。実際に2000年5月5日に亡くなった時は国民葬となり、全国のスポーツ施設でいっせいに黙祷が捧げられた。

 自転車界最高峰のジャーナリストと言われるフランスのピエール・シャニーは著書の中で「バルタリはレストランに入ってもお金を払おうともしない」と書いている。神様に金を請求するレストランなど、この世の中になかったのだと僕は推測する。

 チネッリはバルタリと同じトスカーナの出身で歳も2つしか離れておらず、幼い頃からレースで戦った仲だった。

 チネッリもやがてプロ選手となり、ミラノ~サンレモとジロ・ディ・ロンバルディアでも勝っている。いわば、当時のスターの一人だった。

 しかし、第二次世界大戦が起きて選手生活を断念した。戦後、コッピもバルタリも再びプロ選手に戻ったが、チネッリはミラノで自転車作りの道に入ったのだ。

 そして、作り出す自転車の完成度の高さは世界的に評価された。前述の通り東京五輪で日本選手にまで用意されたし、力道山も工房に訪れたというわけだ。

フレーム、パーツともに超一流

 チネッリは、バルタリと並ぶ自転車界の神様ファウスト・コッピとも実は親交が深かった。コッピがマラリアにかかって亡くなった時、葬儀で数kmの行列が出たとシャニーは本で書いていたが、後年フランスの本で当時の写真を見た時に事実だったことを知り、驚愕した。

 チネッリとコッピは共に名門プロチーム・ビアンキで走っただけではなく、1956年にコッピがビアンキからカルパノに移籍したとき、自転車はビアンキからフィオレッリに変わったが、塗装に隠された中身は実はチネッリが手がけたものだったという。

 「そのときコッピはずいぶんとホイールベースの長いものに乗っていたんだ。そこで僕がホイールベースの短いものを勧めたんだけど彼はこれまで通りでいいって言った。だけどとりあえず1台僕の考えで作り、そしてそれを試しに乗せたんだ。そうしたら気に入ってくれて、それをクリテリウム用に使い出したんだ。そして直ぐにもう1台、ジロ・ディ・ロンバルディア用に作った」と語った。

 バルタリやコッピのことをまるで近所の将棋仲間みたいに話すチネッリが実にまぶしかった。

 パーツ製作でもチネッリは超一流だった。1951年からイタリアの名選手アルフレード・ビンダの名をあしらったペダルのストラップ・バンドを作ったほか、1962年には世界で初めてプラスチックをベースにしたサドルを完成している。その代表作であとチネッリ No.3はエディ・メルクスにも愛用され、長らくサドルの代名詞的存在となった。

 さらに1963年にアルミのハンドルとステムを世に送り出している。ステムの名前は1/A。アルミステムの最高傑作の一つだろう。

 それからおよそ10年後には“1/R”を出した。これはハンドルをくわえるクランプ部に特徴をもつもので、やはり多くのサイクリストに用いられた。

 ハンドルではジロ・ディ・イタリア(=No.64)、シャンピオン・デュ・モンド(=No.63、66)、クリテリウム(=No.65)などは、世界のハンドルの定番となり、やはりメルクスも愛用していた。

 また1971年には、M-71というビンディング式ペダルの元祖も生み出している。ビンディング式がレース界に登場したのはルック社が製品化した1985年前後なので、その先見の明は驚異的である。

いつかカメラマンを辞めたら…

工房を訪れた力道山。真ん中がチーノ・チネッリ。右はローマ五輪ロードで優勝したヴィクトル・カピトノフ。おそらく1960年に撮影されたものと思われる ©Yuzuru SUNADA(写真はチネッリ本人からの提供)工房を訪れた力道山。真ん中がチーノ・チネッリ。右はローマ五輪ロードで優勝したヴィクトル・カピトノフ。おそらく1960年に撮影されたものと思われる ©Yuzuru SUNADA(写真はチネッリ本人からの提供)

 2000年、キャンチャーノ・テルメの自宅に伺ったときは2度目の訪問ということもあり、例の力道山の写真や自身がプロ選手をやっていた時の写真を気前よくプレゼントしてくれた。

 そして今でもよく覚えているのは80歳を超えた同氏が日本のスバル・レオーネを購入して、「エンジンが水平対向じゃないか!」と感激していたことだ。

 1回目の取材の時は妻も同行していたのだが、そのときは帰り際に「その美しさをいつまでも保ってね」と声をかけてくれた。

 2度目の時は僕一人だったのだが、女性に対するイタリア式挨拶がない代わりに、自作のオリーブオイルを持たせてくれた。「世界一のオリーブオイルだよ」と手渡された時、「この人はオリーブオイル作りでもきっと天才なんだ」と思った。

 僕はこの“自転車界のレオナルド・ダヴィンチ”の生き方に憧れを抱いた。それは会社をパイプメーカー・コロンブス社に売却したあと(亡くなったジャンニ・カザーティに生前聞いたのだが、当時の天文学的金額だったという)、ひっそりとトスカーナの丘の上で暮らし始めたことだ。

 また、前出のブーニョは、ジロで1回、世界選で2回勝った大選手なのだけど、家に自転車のものは何一つ残っていないという。マリア・ローザやマイヨ・アルカンシェルすらないのだ。僕ですら彼からもらった1枚を持っているのに、本人が持っていないとは…。

 僕がこの仕事を辞めたら日本の故郷で農業をしながら暮らすと決心しているのは、多分にブーニョと、このチーノ・チネッリの生き方が影響しているのだと思う。

 チネッリは僕の2度目の訪問の1年後に他界した。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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