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砂田弓弦の風を追うファインダー<19>イタリアの自転車工房を巡った日々 “古き良き時代”の自転車競技をたずねて

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工房を一軒一軒取材

 僕は自転車レースの写真を撮ることが主な仕事で、国内外の新聞や雑誌が主な仕事先なのだけど、これまでに何冊かの本も出している。

 そのなかで、レース以外の本もこれまで2冊出している。ひとつは1994年に出版された「イタリアの自転車工房 栄光のストーリー」だ。表題の通り、イタリアでフレームを作っているところを取材し、それをまとめたものだ。

 自分自身、フレーム職人に興味を持っていたのはもちろんだけど、この頃はレースの撮影を始めたばかりであり、それだけで食っていくという夢を実現するまでにはほど遠かったのも、これを手がける動機となった。

 もうひとつの本は2006年に出版された「イタリアの自転車工房物語」だ。これは雑誌での連載を1冊にまとめた本だ。

数年前に死去したPINARELLOの創業者、ジョヴァンニ・ピナレッロ。かつてはプロ選手だった Photo: Yuzuru SUNADA数年前に死去したPINARELLOの創業者、ジョヴァンニ・ピナレッロ。かつてはプロ選手だった Photo: Yuzuru SUNADA

 これらの2冊には、日本に輸入されているメーカーが少なからず入っているけれど、国内の代理店の世話になったことは一度もない。代理店から広告がらみの取材費が出るような位置にはいなかったし、アポ取りだけなら電話で直接やったほうが百倍早かった。

 だから、代理店に遠慮する必要はまったくなかったわけで、取材は自分の好きなようにやった。当時はイタリアに数多くの自転車工房が存在していて、それを一軒一軒自分の足で回って取材した。アポ取りからフレーム職人へのインタビュー、撮影まですべて一人で行った。

ネクタイで武装して

 先方にはきちんとネクタイを締めて伺った。なぜかというと、イタリアでは「見た目=人格」だからだ。ボロは着てても心は錦…はありえないのである。その頃、レース会場のプレスルームでもネクタイを締めているジャーナリストが非常に多かった。それは、社会的にそれなりの立場にある職業として見られているからだ。

 世間での待遇も優遇されていて、たとえばイタリアの高速道路では特別年間パスを購入することができ、それがあれば無料だった。銀行の利子の優遇や、クルマ購入時の割引もあった。

 ネクタイを締めて工房に伺った理由はまだある。それは、日本がイタリアをはじめとする自転車先進国を真似てきたという先入観を持たれがちだったことだ。

 当時はすでにシマノやマエダ、スギノなどが世界の先端を行く自転車部品を造っていた。だけど、戦後の日本が全部独自の発想で経済成長を遂げたとは言えなかったわけで、そうした過去をまだひきずっていた。

 早い話が、「この日本人、うちの技術を盗みに来たのか」と思われたくなかったのだ。

 今、東京で爆買いする中国人のマナーがいろいろと言われているが、イタリアのレストランでスパゲッティをまるで蕎麦のようにズルズルとすすっている日本人は今でもいっぱいいる。音を立てて食べるというのは、もっとも恥ずべき行為なのに。

 とにかく、若い人には想像ができないかもしれないが、30年前までの日本は、今の中国のような感じだったのだ。

 だから、外見だけでもしっかりとしていると見られたかったのだ。

ウーゴ・デローザに反論

有名ブランドの一角を築いたウーゴ・デローザ Photo: Yuzuru SUNADA有名ブランドの一角を築いたウーゴ・デローザ Photo: Yuzuru SUNADA

 自転車工房の本だが、仕事の労力を考えると、もらったギャラはぜんぜん割に合わないものだった。とくに初めて出した本などは、2年間かけて取材したけど、ギャラは30万円ほどだったような記憶がある。

 だけど、メリットも少なからずあった。それはなにより、自分自身に自転車の歴史観が身についたことだ。

 工房の取材は実際のところ、自転車のハード面よりも、フレーム職人やそのブランドの歴史などにフォーカスしていたし、向こうもそうしたことについて力を入れて話をしてくれることの方が多かった。

 だから、話をするにあたり、自分自身が自転車レースの歴史を知っていなければならなかった。本を読み、ビデオを見まくって猛烈に勉強した。記憶したレースの歴史を忘れないように、食事時に妻を相手に自転車競技の歴史をひもといた。

 こうして、自転車作りに生きてきた人たちと対等に話ができるようになった。

 ある日、デローザに行ったときのことだ。ウーゴ・デローザが、「パンターニが勝ちを他に譲らないから、血液検査で捕まるんだよ(1999年ジロ)」と言ったので、僕はすかさず「あんたの自転車に乗っていたエディ・メルクスだって、勝ちを譲らなかったじゃないか」と反論したら、とたんに顔を赤くして怒った。

 その次に僕がデローザに行ったとき、ウーゴは自分の3人の息子の前で、「おい、その日本人には気をつけろよ」と言ってニヤリとした。

 巨匠に認められた瞬間だった。

今はなき1980年代のイタリア

 今の自転車の世界はグローバル化し、古き良き時代のイタリアの自転車で生き残っているところは少なくなってきた。かつて、イタリアの自転車は地域性の強い産物で、その土地の名物みたいなものだった。

 『イタリアワイン㊙︎ファイル 日本人が飲むべき100本』(文藝春秋、ファブリツィオ・グラッセッリ著)という本が日本で出されている。僕は日本の自宅で飲むワインの多くをイタリアで買ってきているが、購入の際の参考になるかなあと思って、なんとなく購入してみた。

 しかし読んでみると、すごく興味深い内容だった。なぜか? まるでイタリアの自転車と同じだったのである。つまり、ワインは非常に地域性の強いもので、イタリア人は自分が普段飲んでいるもの以外はほとんど知らなかったというのだ。

イタリアンバイクの代名詞、エルネスト・コルナーゴ Photo: Yuzuru SUNADAイタリアンバイクの代名詞、エルネスト・コルナーゴ Photo: Yuzuru SUNADA

 僕はこの仕事を始めたのは1989年だが、最初にイタリアに行ったのは大学を卒業した直後の1985年で、毎日自転車に乗っていた。このとき、ミラノ近郊に住まいを見つけたのだが、それが今に至っている。

 いわゆる自転車小僧だった僕がそこで見たものは、多くはコルナーゴ(COLNAGO)、ロッシン(ROSSIN)、カザーティ(CASATI)、さらにそのあたりの小さな工房で作られているハンドメイドのフレームだった。当時から日本にも輸入されていたジョス(GIOS)やヴィリエール(WILIER)といった有名自転車は滅多に見ることはなかった。

 なぜなら、僕の住まいはコルナーゴ、ロッシン、カザーティから近く、逆にジョスのあるトリノやヴィリエールのあるヴィチェンツァからは数百キロ離れていたからである。

 つまり、自転車は、地域性の高い生産物そのものだったのだ。

 コルナーゴでこう言われたことがある。「お前の住んでいるあたりじゃ、カザーティに乗っているのがいっぱいいるだろう」と。僕の家からコルナーゴまでは約10km、カザーティまでは約5kmだ。このわずかな距離の違いが、それぞれの「縄張り」なのである。

 あれから30年以上たった今、街中の小さなフレーム工房はあとかたもなく消滅した。残ったのは、当時からの有名ブランドだけである。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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