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砂田弓弦の風を追うファインダー<16>ラジオと自転車 イタリアのスポーツ放送史上もっとも有名なフレーズとは?

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制限された方が自由になれる

 僕は大学生の時に自転車にのめりこんでしまい、まじめに勉強しなかった。高校を卒業してすぐにイタリアに行けばよかった、なぜ大学に行ってしまったのかと、後悔したこともあった。

 ただ、大学で心理学の乾孝先生と出会えたことだけは、本当に良かった。就職活動もせずにイタリアに渡ったとき、「枠にはまらない生き方をするのが良い」と手紙をもらい、大変うれしかったことを覚えている。

 先生は「旅行に行って、自由にしてもいいぞと言われても、なにをやっていいかわからないものだ。それよりも、ある程度制限された方が自由になれる」と言っていた。

 これは素晴らしい言葉だと思っている。自分の仕事に当てはめて考えると、何本もレンズを用意するよりも、今、手元にあるレンズだけで工夫して撮った方がいいのではないか、と思うのだ。

 だから、「今日はこのレンズ1本で撮ってやる」というようなことをときどきやっている。いい写真が撮れるかどうかは別として、実に楽しいものだ。

ロマンチックな時代

 昨年、86歳で亡くなったジョルジョ・アルバーニはジロやミラノ~サンレモなどのレースディレクターだった。僕らオートバイに乗って写真を撮る人間に直接指示を出していたこともあって、もっとも身近な人だった。

 彼はジロを選手として9回走っているが、7区間で優勝し、マリアローザも1日着ている。そのあとメルクスなどが所属したモルテーニチームの監督としてジロを17回、さらにその後はレースディレクターとなってジロ27回、合計53回ものジロを経験している。まさに生き字引みたいな人だった。人間的にも素晴らしい人で、みんなから尊敬されていた。

世界チャンピオン、パオロ・ベッティーニがコース設定のことで抗議している相手がジョルジョ・アルバーニ Photo: Yuzuru SUNADA世界チャンピオン、パオロ・ベッティーニがコース設定のことで抗議している相手がジョルジョ・アルバーニ Photo: Yuzuru SUNADA

 アルバーニの自宅に伺った時、ポツリとこういったのを覚えている。

 「昔はテレビがなくてラジオ放送だったけど、音声を聞きながらシーンを想像していたので、あの時代の方がロマンチックだった」

 映像がなく、音声だけでのレース観戦は、まさに乾先生が言っていたことに当てはまる。制限されているからこそ、想像する楽しさがあるのだ。

 第二次世界大戦前後に活躍したジーノ・バルタリのテレビドラマを見ている時に、フィアンセがラジオを聴きながらバルタリのことを想うシーンがあった。アルバーニも若い時はこんなふうにロードレースを楽しんでいたのだと想像した。

「その名はファウスト・コッピ」

 1949年6月10日、ジロ第17ステージ、クネオ~ピネローロで、ファウスト・コッピが192kmにも及ぶ独走を完遂し、ジロ史上で最も偉大な勝利を飾った。このとき、ラジオの実況はこの一声から始まった。

« Un uomo solo è al comando, la sua maglia è bianco-celeste, il suo nome è Fausto Coppi »

 これがイタリアのスポーツ史上、もっとも有名なラジオ放送のフレーズであり、これを言ったのがマリオ・フェッレッティだ。

 日本では、1936年のベルリン五輪女子水泳で、NHKの河西アナウンサーが叫んだ「前畑がんばれ、前畑がんばれ」が有名だが、イタリアではこの「一人の男がレースを支配しています。シャツは白とチェレステ。その名はファウスト・コッピ」なのである。

 ちょっと話が外れるが、1970年代のことである。カリスマ・レースディレクターのヴィンチェンツォ・トッリアーニが、随行するオートバイに対し、自分のクルマを追い越さずに後ろで待てという指示を出した。こうしたことはよくあることなのだが、これにマリオ・フェッレッティの息子クラウディオが怒った。親の七光りでアナウンサーとなり、しばらくオートバイの上からジロの中継をやっていたのだ。

 トッリアーニから後方待機の命令を受けたクラウディオは、父親譲りの伝家の宝刀を抜いた。「一人の男がレースを支配しています。その名はヴィンチェンツォ・トッリアーニ」と、ラジオの生放送でぶちまけたのだ。

 僕の最初のオートバイの運転手でジロを30回もやったベテランのセルジョはこれを目の当たりにしたため、よくこの話を聞かせてくれたものだ。

僕のラジオの思い出

 ラジオ放送に感動して、プロになった選手だっている。ベネズエラのレオナルド・シエッラである。まだ若いころ、ラジオの周波数をコロンビアの放送に合わせたとき、偶然ツール・ド・フランスの実況が流れてきて、コロンビアの英雄ルイス・エレラの活躍を伝えていた。

 シエッラの家は決して裕福ではなかったが、エレラのようになりたいという衝動を押さえきれず、やがて念願の自転車を手に入れたのだった。

 だが自転車の代金を払うために、以前にも増して働かなければならず、学校に行く前と放課後の2回に渡って野良に出て、コーヒーや豆作りを手伝った。

 トレーニングは朝4時半に起き、ハンドルにライトをつけて走った。だがこのライトは乾電池式ですぐに切れ、暗い中を走ったため何度も転んで怪我をした。

ラジオで聞いたツール・ド・フランスの中継がきっかけとなり、プロ選手となったレオナルド・シエッラ Photo: Yuzuru SUNADAラジオで聞いたツール・ド・フランスの中継がきっかけとなり、プロ選手となったレオナルド・シエッラ Photo: Yuzuru SUNADA

 こうした厳しい生活を2年間続けた結果、ついにイタリアのプロチームから誘いの声がかかったのだった。そして1990年のジロでは区間優勝して総合10位、翌年は総合7位に入っている。そこで得た金で、両親に家とクルマをプレゼントしている。

 僕自身もラジオで思い出がある。3年ほど前、イタリアでクルマを運転しながらラジオを聞いていた。司会者とリスナーが電話で話をする、どこにでもあるような普通の番組だった。

 司会者はリスナーの男性に仕事のことを尋ねた。すると「ええ、最近までプロの自転車選手でした」と答えたものだから、僕は眠さが一気に吹っ飛び、真剣に聞き出した。

 司会者が彼にどの程度の力だったのかと尋ねると、「ええ、まあ、ジロの総合で表彰台に立ったこともあります」と答えたものだから、ハンドルを切り損ねて田んぼに落ちそうになった。

 すると司会者は冗談交じりにこう尋ねた。

 「それって、ドーピングしての結果ですか? それともなしで?」

 僕は(おいおい、普通そんなこと聞くか?)と思ったが、彼は、「そんなこと、ラジオでは言えませんよ」と、軽くかわした。

再会した彼との握手

 そのとき、僕にはこの元選手が誰かよくわからなかったが、あとから思い出した。

 それから数カ月後、彼とドバイのレースで会った。フレームメーカーに勤めていて、その自転車を使っているチームの様子を見に来たのだった。「あのラジオ番組を聞いていたよ」と言うと、びっくりしていた。

 実はこの選手、バイオロジカルパスポートが怪しいとUCI(国際自転車競技連合)に判断され、レースを追われたのだった。だから、あの司会者の質問は、けっこうこたえたはずなのだ。

 2015年にアメリカのリッチモンドで行われた世界選手権に、彼は観客の一人として来ていた。家族とともに、アメリカに移住したのだという。

近年、もっとも変化を遂げたスポーツが自転車だ Photo: Yuzuru SUNADA近年、もっとも変化を遂げたスポーツが自転車だ Photo: Yuzuru SUNADA

 これまでドーピングで自転車界を追われた選手とその後に出会ったことは何度もあるが、無視したり、軽蔑したりしたことは一度もない。それは、もし自分が昔の自転車界でプロ選手をやっていたならば、薬物には絶対に手を出さなかったと言い切れないからだ。

 数々のスキャンダルを経て自転車レースは近年、もっとも中身が変化を遂げたスポーツだと思う。だが変化する前の昔、そうしたところに身を置いたならば、周りに流されないでやっていけたという自信が自分にないのだ。

 僕は彼にこれからも幸せな暮らしを続けてほしいと言い、お互いに手を握り合って別れた。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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