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砂田弓弦の風を追うファインダー<15>レースのボス、ディレクターについて ツールに大きく水をあけられたジロ

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観客からは見えないレースの一面

 以前に一度、自転車を作っている人、いわゆるフレームビルダーといっしょにショー会場を訪れたことがある。目の付け所が僕とぜんぜん違っていることに驚かされた。「フレームをこういうふうに作ると、新デザインと見せかけながらコストダウンできる」「箱詰めの段ボール、最高品質のものだ」といった言葉はカルチャーショックだった。

 僕の仕事だって、まったく同じことだ。レースを内部から見ているので、そこで交わされる話題は外からはまったく見えことについてのことも少なくない。インターネットに書かれているようなものではなく、業界内部の人間から聞かされる話で、視点が一般の人と違うから、どうしても専門的になってしまう。

 こうした仲間内での話題にたびたび上るのが、レースディレクターについてである。レースの運営やチームの招致、コース設定、スポンサー集めなど、レースディレクターの手腕に関わっていることは少なくないのだ。一般の人たちにとって、この役職は馴染みが薄いだろうが、レースを大きく左右する。

右から現在のツール・ド・フランスのレースディレクターであるプリュドム、そして今のジロのレースディレクターのヴェーニ、左はツールの前世代のカリスマ・ディレクター、ルブラン Photo: Yuzuru SUNADA右から現在のツール・ド・フランスのレースディレクターであるプリュドム、そして今のジロのレースディレクターのヴェーニ、左はツールの前世代のカリスマ・ディレクター、ルブラン Photo: Yuzuru SUNADA

 会社に社長がいるように、ロードレースにはレースディレクターというボスがいる。

 1988年、ツール・ド・フランスはジャック・ゴテからジャンマリー・ルブランに“政権交代”が行われた。ルブランは元プロ選手で、そのあとレキップ紙の記者となった経験を持つ。ちょうど自転車界が古き良き時代からドーピング事件多発の激動の時代に変わったが、ルブランはそれを乗り切った。

 日本でも『ジャン=マリー・ルブラン 総合ディレクター ツールを語る』という素晴らしい本が未知谷から出されているので、ぜひ読んでみてほしい。今、彼の地元では、名を冠した体育館まであるほどだから、ツール・ド・フランスのレースディレクターのポジションの重要さがうかがい知れるだろう。

 ルブランの引退後、ツールのボスはテレビの実況中継をやっていたクリスティアン・プリュドムとなって今に至っている。

古き良きジロのカリスマ

 もちろん、ジロ・デ・イタリアにもレースディレクターがいる。僕がこの仕事を始めたのは1989年だけど、当時のジロはヴィンチェンツォ・トッリアーニから、弁護士のカルミネ・カステッラーノにトップの座が移行しはじめている時だった。

ジロ・デ・イタリアを40年近く率いたヴィンチェンツォ・トッリアーニ。威圧感を持つカリスマだった Photo: Yuzuru SUNADAジロ・デ・イタリアを40年近く率いたヴィンチェンツォ・トッリアーニ。威圧感を持つカリスマだった Photo: Yuzuru SUNADA

 トッリアーニは1949年からその座に就き、なんと40年近くもジロを統率してきた。このレースを主催しているのはご存知ミラノにあるピンク色のスポーツ紙、ラ・ガゼッタ・デッロ・スポルトで、ツール、ブエルタ・ア・エスパーニャ、そしてこのジロのいわゆるグランツールの中で、レース創設時から唯一オーガナイザーが変わっていないという伝統を持つ。現在はRCSスポルトが運営しているが、ガゼッタ紙も同じ系列にあり、ガゼッタのレースと考えるのが普通だろう。

 1980年代後半、ジロの運営部門はミラノの中央駅の近くにあった。中では年老いたトッリアーニがまだ威厳を持って歩き回っており、僕が行くと顔を撫でられた。まさに子供と同じ扱いだった。20代の日本人がカメラを持ってレースを取材したところで、国際的にはなんの影響力もないわけで、そのへんのガキがカメラを持って遊びに来ているのと同じようなものだった。

 トッリアーニはファウスト・コッピやジーノ・バルタリといった歴史上の偉人を走らせてきたカリスマだ。ハスキーボイスで、たばこをくゆらせている姿は、映画の中のマフィアそのものだった。

 僕がジロでオートバイに乗る許可が得られたのは1993年からで、そのときのレースディレクターはすでにカステッラーノだったから、直接トッリアーニが指揮するレースをオートバイから撮ったことはない。

 しかし、古参連中に聞くと、トッリアーニは警察官が持っているあの柄のついた丸い板の指示棒をクルマの上から振り回し、遠慮なくヘルメットの上から叩いたそうだ。

暗黒の2トップ体制

 カステッラーノはたしか2000年代前半までレースディレクターを務めたが、最後のレースとなったジロ・ディ・ロンバルディアで、副レースディレクターのジョルジョ・アルバーニがレース無線で涙を流しながら別れの挨拶をしたのを覚えている。カステッラーノは、それほど人から慕われていた。

 僕にとっての良きジロの時代は、トッリアーニ、そしてカステッラーノまでだった。カステッラーノが引退すると、レース現場でのディレクターと、事務を含めた全体を統括するディレクターの2トップ体制になった。

トッリアーニの後を継いだのは、弁護士のカステッラーノだった。僕らは親しみを込めて「弁護士さん」と呼んだ Photo: Yuzuru SUNADAトッリアーニの後を継いだのは、弁護士のカステッラーノだった。僕らは親しみを込めて「弁護士さん」と呼んだ Photo: Yuzuru SUNADA

 レース現場は、ティレーノ~アドリアティコを長年運営してきたマウロ・ヴェーニが継ぎ、そして事務仕事を含めた全体の方は元ガゼッタの記者アンジェロ・ゾメニャーンに委ねられた。

 僕がジロの写真集を出した時、ゾメニャーンにイントロの執筆を頼んだ。しかし彼はこっちの趣旨を理解せず、的外れなものを書いてきた。仕方がないので再度お願いすると、次は金をとると言った。

 ため息が出た。ちなみにその前に出したツールの写真集は、こちらが頼みもしないのにプリュドムが、「もし君が写真集を出すなら、イントロは僕が書くよ」と向こうから言ってくれたのだ。ツールとジロはこんなところでも違っていた。

 ジロの写真集のイントロは省略したが、出来上がった本をゾメニャーンにプレゼントすると、彼は開きもしないでそれをクルマのトランクに入れた。

 これまで何冊も本を出しているが、それらをオーガナイザーに寄贈すると、多くの場合、先方での扱われ方が違ってくることを実感している。早い話が、フォトグラファーとしてリスペクトされるのだ。雑誌ではそうはいかない。雑誌と写真集ではキャリアとして格段の違いがあるのが実際だ。

 ジロの写真集はこれまで2冊出したが、オーガナイザーからリスペクトされるという感触はまったくない。まさに組織としてのもろさが露呈していると思う。

 ゾメニャーンはいつの間にか現場を追われた。そのあと、会場に姿を見せなくなったから、いい辞め方はしていないはずだ。真偽のほどは分からないが、ジロ最終日のゴールがミラノになったときに政治的な圧力がかかったが、大会を強行したことで政治家の怒りを買ったと聞かされている。

良いレースには良いディレクター

 後継者はミケーレ・アックアローネだった。彼は数年前に僕を呼び出し、日本でプレ五輪大会を開きたいと切り出してきた。ツール・ド・フランスの主催者A.S.O.がカタールとオマーンで大会を成功させていることが、なによりも彼の興味をひいていた。

 それからわずか数日後、会社の金の使い込みが発覚し、クビになった。裁判に出たが敗訴して、どこかに消え去った。サンレモがスタートとなったジロにも顔を出さなかった。彼の地元にもかかわらず…。

 こうした経緯を経て、今は以前のように単独レースディレクター制度になり、ヴェーニがその役に就いているが、カリスマという感じではない。

 ジロはツールに次ぐレースと言われるが、トップであるディレクターの観点から見ると、ツールに大きく水をあけられており、僕にはそれがすべての面での象徴にも思える。

 日本にはレースディレクターと呼ばれる人がいるのかどうか、僕は知らないが、選手を育成すると同時に、レースディレクターも育っていかなくては、良いレースが開催できないことは間違いないだろう。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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