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砂田弓弦の風を追うファインダー<14>ガゼッタとの長いつながり ヨーロッパの自転車文化の歴史の重さ

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自転車レース関係者の宿命

 自転車レースの報道を仕事とするには、ヨーロッパを拠点にするしかない。僕は1992年に結婚し、すぐに1人目の子供も生まれていたが、日本にいる妻は好きなようにさせてくれたし、今もそうだ。普通の家庭だったら、離婚話の一つくらい出ると思う。

 自転車の仕事に従事するあまり離婚した選手やチームスタッフ、報道関係者を僕は数え切れないほど知っている。年間200日を超えて外泊しなくてはならない仕事が真っ当とは、そもそも僕自身が思わない。だから、よほど家族の理解がない限り、この仕事はできないのだ。

 元有名選手で、今は某チームの監督をやっている男がいる。ある日、彼が家に戻ったら、鍵が全部付け替えられていて、中に入ることができなかった。どういう顛末か、聡明な読者なら想像がつくだろう。

 離婚どころか、結婚すらできないものだって少なくない。そんな環境の中で、僕は家庭を持ちながらこの仕事を続けてこられたのは、もうラッキーというしかない。

 もし家庭がなかったら、僕は今よりもさらにレースに行き、プロチームと契約して仕事も積極的に取っていたと思う。そうしたら、収入はもっと増えたはずだ。

 だけど、家庭と自転車の仕事が両立できる幸せを超えるものはない。これまで28年間このプロレースの世界に身を置いてきた自分が、このことをいちばんよく知っている。

東京を訪れたクネゴ。2004年のジャパンカップにて Photo: Yuzuru SUNADA東京を訪れたクネゴ。2004年のジャパンカップにて Photo: Yuzuru SUNADA

若き王者クネゴの来日

 こうして家族の理解のもと、ヨーロッパでの活動は順調にいっていたが、2009年のブエルタ・ア・エスパーニャ取材中に、ミラノの写真エージェントで僕の写真を売ってくれていたグラツィア・ネーリが突然解散した。倒産ではなく廃業だったので、未払いだったギャラはすべてもらえたものの、将来に対してすごく不安になった。それまで太いパイプでつながっていたイタリアのスポーツ紙「ラ・ガゼッタ・デッロ・スポルト」とのパイプが絶たれてしまう可能性があった。

ガゼッタの雑誌部門からジロのときに大金が振り込まれたことは前に書いたけど、新聞部門でも仕事はしていた。日々の売り上げこそ大したことはなかったが、何度か大きな仕事もしている。

 2004年にダミアーノ・クネゴがジロで優勝した。4区間もとり、しかも22歳9カ月という若さでの勝利はジロ史上6番目の若さだった。さらにこの年のジロ・ディ・ロンバルディアでも優勝したが、ジロとこのレースの同年制覇はコッピ、バルタリ、メルクスという歴史上の偉人だけしか成し遂げていない。

 そんな彼がその年にジャパンカップで来日し、ガゼッタ紙の自転車部門チーフ、ジャラネッラも同行してきた。僕らはクネゴを連れ出して秋葉原の電気街、それから汐留の高層ビルにあるイタリアン・レストランに行った。そのお店のマネジャーはイタリア人で、アマ選手としての経験があった。

 そしてそこで撮った写真がガゼッタの新聞や雑誌で掲載されたのはもちろん、それを見た各国のメディアにも使われた。イギリスの雑誌に至ってはそれでグラビア数ページを組んだ。その結果、たった1日の撮影だけで100万円以上が入ってきた。後日、クネゴにこのことを言うと、「オレには1円も入っていないから少しよこせ」と言われたが。

チポッリーニをロスで張り込み

 また、2005年、僕がロサンゼルスでトラック世界選手権を取材しているところに、突然ジャラネッラがやってきた。それで僕の腕をひっぱってこう言った。

 「引退したチポッリーニなんだけど、明日ロックレーシングと契約するかもしれない。サンタモニカで張り込んでくれ」

 そしてタクシー代としてドル札を握らされた。

 僕は翌日の朝のトラックレースの撮影をキャンセルし、サンタモニカにタクシーを飛ばして、ロックレーシングのオーナーのオフィスの前に1時間立ち続けた。

 出てきたチポッリーニはあまり喋らず、明らかに不機嫌だった。僕は彼の家に2度も行っていて仲が良かったが、立ち止まって写真を撮らせてくれなかった。赤信号になりかけの横断歩道を走るように渡ったところを何枚か撮ったのだが、翌日のガゼッタ紙にそれが「マリオ、アメリカでダッシュ!」という見出しで掲載された。

 案の定、選手契約は成立しなかった。後日談だが、チポッリーニが引退した後、アメリカの自転車メーカーとイメージキャラクターの契約がまとまりそうなとき、彼の要求の中で飛行機の移動はすべてファーストクラスというのがあり、それでメーカー側が引いてしまったことを会社側から聞かされた。この要求を見ても、いかに大物かがわかるだろう。

 チポッリーニは自他ともに認めるスターであり、再復帰を企てたのは、ガゼッタにとっても大きなニュースだったのだ。

現役復帰を企てたチポッリーニ。サンタモニカでロックレーシングとの契約が実現できなかった直後 Photo: Yuzuru SUNADA現役復帰を企てたチポッリーニ。サンタモニカでロックレーシングとの契約が実現できなかった直後 Photo: Yuzuru SUNADA

本場の自転車文化とつながる誇り

 グラツィア・ネーリの解散に伴い、ガゼッタとの仕事がなくなってしまう不安は強かった。なぜかというと、大きな新聞社では個人フォトグラファーの出入りが認められず、通信社や写真エージェントとしか契約できないのである。

 だけどそれまでの仕事が評価され、僕個人が写真を直接送ることが例外的に認められたのだ。ガゼッタは今、新聞不況と経済不況のダブルパンチで大変な時期にある。僕の写真の掲載もめっきり減ってしまった。

 だけど、なにも知らない日本人が自転車の中心地ミラノに一人でやってきて、ジロやミラノ~サンレモなどを開催する新聞社に直接写真を送ることができるまでになったことは、自分にとってちょっとした誇りである。

 僕が始めてヨーロッパのレースを取材したのが1989年で、写真を撮っていると、「あいつは人の真似ばかりする。日本の工業製品と同じだな」と言われた。まるで今の中国状態だった。イタリアの英雄フェリーチェ・ジモンディからも「日本人はコピーばかりする」とからかわれた。

 仕事を始めた最初の数年、世界選手権やツール・ド・フランスに行っても、まともにゴールエリアに入ることすらできなかった。自分など、数に入ってなかった。

 冷静に考えてみると、それはごく当たり前のことだった。なにしろ、日本に真っ当な自転車競技がなければ、文化も伝統もなかった。そんなところからやってきて、いきなり対等に扱ってもらえるわけがないのだ。

ニバリやアールでなく、コッピとバルタリ

1992年、チーノ・チネッリ宅の庭にて。ミラノ~サンレモやジロ・ディ・ロンバルディア優勝の経歴を持つ同氏は引退後、自転車作りで一世を風靡した。こうした自転車界の偉人と会うために、書籍とビデオを繰り返し見続けた Photo: Yuzuru SUNADA1992年、チーノ・チネッリ宅の庭にて。ミラノ~サンレモやジロ・ディ・ロンバルディア優勝の経歴を持つ同氏は引退後、自転車作りで一世を風靡した。こうした自転車界の偉人と会うために、書籍とビデオを繰り返し見続けた Photo: Yuzuru SUNADA

 こうした厳しい現実を変える機会となったのは、イタリアの自転車工房の本を2冊出したことである。取材の労力を考えると、もらった金額はまったく割に合わないものだったけど、取材先と対等に話ができる必要があったので、昔のレースの歴史を猛烈に勉強した。本とビデオを大量に買い込んで何度も見直した。蔵を改装して写真保管庫にしたけど、あの中には当時イタリアで集めた本もかなりあって、個人の蔵書としては相当なものだと思っている。

 そうした歴史観が身についたおかげで、自転車界の人たちと対等に話ができるようになったのだ。

 インターネットを活躍して、今走っている選手の情報を集めることに必死になったとしても、そんなものは薄っぺらな知識にすぎない。本場の人と対等に話をするには、歴史を認識しておかないと始まらないのである。極端な話、現役のニバリやアールのことを知っていても相手にされない。第二次世界大戦前後に活躍したコッピやバルタリを知っていなければならないのだ。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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