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砂田弓弦の風を追うファインダー<13>自転車の本場で認められるフォトグラファーに 写真クレジットへのこだわり

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 さて、1990年代の中頃、イタリアは自転車熱がすごく盛り上がった。原因はいくつかあるが、まずはパンターニの出現である。それまでの数年間はインドゥラインに見られるように、チームでレースをコントロールし、山は無難に走りきってタイムトライアルで勝負することが主流だった。

 パンターニはこのやり方を根底から覆し、昔のレースのように山場を勝負どころにした。その結果、自転車の人気が一気に盛り返したのだ。僕の知る限り、イタリアでこの30年間、テレビのコマーシャルに出た自転車選手はブーニョとパンターニだけだ。

恥ずかしかった「日本の自転車雑誌」

パンターニの出現で、イタリアの自転車熱はそれまで以上に高まり、レース会場には多くの人が詰めかけた Photo: Yuzuru SUNADAパンターニの出現で、イタリアの自転車熱はそれまで以上に高まり、レース会場には多くの人が詰めかけた Photo: Yuzuru SUNADA

 それから世界的なマウンテンバイクのブームも追い風となり、イタリア国内の雑誌はロードとMTBを合わせると20を超えた。これは驚異的な数字であり、今後も破られないであろう。

 その頃、フランス人女性の編集長がやっている月刊誌があった。写真の使い方も、デザインもなかなか凝ったものだった。波長が合ってすぐに採用されたが、編集長が写真にこだわるあまり、1日に2回も編集部に呼び出されることもあったが、みんなで良い雑誌を作ろうとする熱意があったので、僕もできる限り応えた。

 ちなみに、お昼にサンドイッチを食べるときですら赤ワインを飲む女性を僕はこのとき初めて見た。自分で「フランス人過ぎる」と笑っていたが、イタリア女性とはやっぱり違っていると感心して見ていた。

 そうした意外性も魅力だったのだけど、結局は経営に行き詰まって廃刊となった。僕への未払いが数十万円分あって、もらい損ねた。

 その雑誌に関連して、もう一つショックだった思い出がある。それはその雑誌の編集者が日本に旅行したときに、自転車月刊誌を買ってその編集部に持ってきてしまったことだ。

 そこにはお買い物自転車まで入っていて、イタリアで20以上ある雑誌とは似ても似つかないものだった。扱われているのはスポーツとしての自転車ではなく、移動手段としての自転車なわけで、それまで僕は恥ずかしくて本場の人に日本での仕事先の雑誌を見せることができなかったのだが、バレてしまったというわけだ。顔から火が出るほど恥ずかしかった。

自転車の中心はヨーロッパ

 これらの事件で、僕は2つのことを固く心に誓った。

 まず、自転車の本場ヨーロッパの媒体で仕事を増やすことだ。自転車の世界はあくまでもヨーロッパが中心であり、日本でどれだけ写真が露出しても、評価が得られないのだ。それは今でも世界選手権やツール・ド・フランスに行けばはっきりしている。どんなに日本で仕事をやったとしても下のランクのビブしかもらえないことが多いからだ。

 それから、海外のクライアントから金を取りっぱぐれないためのやり方を身につけることも必須だった。請求書を出せば1、2カ月後に振り込まれる日本とは大違いで、有名な会社でも半年待ち、1年待ちなどはざらにあった。ちなみにこの状況は今もまったく変わっていない。

 ちょうどこの頃、新聞や雑誌でグラツィア・ネーリというミラノにある写真エージェントの名前を見かけるようになった。写真の世界では有名なエージェントで、それなりに格式もあったが、スポーツの分野では新参だった。

 気になった僕はロレート広場の現像屋のオヤジに相談すると、「よく知っているから紹介してやるよ」と言ってくれた。

ゴールエリアでの立ち位置は非常に重要だが、大きな大会では、フォトグラファーが分けられ、ビブの色でカテゴリー分けされる Photo: Yuzuru SUNADAゴールエリアでの立ち位置は非常に重要だが、大きな大会では、フォトグラファーが分けられ、ビブの色でカテゴリー分けされる Photo: Yuzuru SUNADA

名門エージェントからガゼッタへ

 ミラノのチャイナタウンの横にあった名門エージェント、グラツィア・ネーリを尋ねると、そこは大きな数階建ての建物で、写真が山のようにストックされていた。

 そして、その場で僕の採用が決まり、実質、自転車部門を任されることになった。基本的に売り上げの何割かを手数料として取られてしまうが、金を取りっぱぐれる心配はないし、僕のことを売り込んでくれる。事務や営業の連中と食事もよくいっしょにしたので、業界の動向をはじめ、写真の売り方、イタリア人との付き合い方など、多くのことを学んだ。自分が満足するだけでなく、クライアントが満足する、つまり売れる写真を撮ることも覚えた。

 グラツィア・ネーリはいくつかのクライアントもつけてくれた。ミラノのラ・ガゼッタ・デッロ・スポルト紙とコリエーレ・デッラ・セーラ紙、トリノのラ・スタンパ紙、パリのレキップ紙にも頻繁に写真が掲載されるようになった。

 またジロの大きなスポンサーであるエスタテやマツダなどの仕事を取ってきてくれたが、とりわけガゼッタ・デッロ・スポルトの雑誌部門はジロの季節になると、契約金の半額を前払いで振り込んでくれた。もうそれだけで3週間のジロを取材するには十分だった。編集長はレキップ紙の雑誌の編集長と共に、世界スポーツフォトコンテストの審査員を務めている人で、僕のことを可愛がってくれた。

 たとえば、ある年のツール・ド・フランスが終わって僕はパリからクルマを徹夜で走らせてミラノまで帰ってきたのだが、自宅に着いたときには心身ともに限界に達していた。締め切りを過ぎたのを知っていながら寝ていたら、電話で叩き起こされた。普通だったらそこで仕事が干されるものだが、編集長は特別扱いをしてくれて、僕を待っていてくれた。

写真は自分の名前で出す

写真が掲載されたガゼッタ紙。いくら写真が出版物に掲載されても、撮影者のクレジットが入るか入らないかが大きな問題になる。フォトグラファーにとって非常に重要なことだ写真が掲載されたガゼッタ紙。いくら写真が出版物に掲載されても、撮影者のクレジットが入るか入らないかが大きな問題になる。フォトグラファーにとって非常に重要なことだ

 それまで日本の月刊誌からページ単位のギャラをもらっていた。仕事こそ続けたものの、興味はまったくなくなってしまい、本場での仕事を貪欲にこなした。そして取材可能なレースはすべて行った。1995年には、当時あったロードレースのワールドカップ全戦に足を運んだが、そこまでやったのは世界で自分一人だった。

 それから、エージェントを通して仕事をするにしても、僕は写真が自分の名前で出ることにこだわり、SUNADAというクレジットを必ずつけてもらった。これはフォトグラファーとして非常に大事なことである。

 この仕事をやっている者のなかには、金になるだけでいい、あるいは自分の名前では掲載してもらえないからと下請けをやっているフォトグラファーもいるが、将来は暗い。自分が撮ったという証拠は、そのクレジット以外にないのだ。出版物の提出を求められたとき、どんなに口で言ったとしても、負け犬の遠吠えとしか思ってもらえない。

 グラツィア・ネーリで仕事するようになった結果、ヨーロッパでの写真の露出が増え、収入も安定してきた。自分にとって、大きな転換期となった。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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