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砂田弓弦の風を追うファインダー<12>写真をうまく撮るだけじゃない プロのフォトグラファーに求められる仕事の“根底”

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 今回はちょっと堅苦しくなるけど、僕の仕事のことについて触れてみたい。その前に、昔の日本の自転車事情も知っていただきたいと思う。

 スポーツフォトグラファーの場合、大別すると2通りのパターンがある。一つはそのスポーツを実際にやっていたとか、あるいはやったことがなくても以前から大好きで、写真を通して伝えたいという人。それからもう一つは写真が好きでこの道に入り、そのあとにスポーツに興味を持ったという人だ。僕は小学生の頃から父親の一眼レフを借りて写真を撮っていたものの、最初に自転車ありきだったので、完全に前者の方だ。

“鎖国”の日本を飛び出して

 いちばん自転車にのめりこんだのは1980年代、東京の大学に通っていた時だ。その頃、日本国内のロードレースといえば大半は競輪ヘルメット着用が義務付けられ、サポートカーもないから、パンクしたら終わり。国体に至っては、出走前に荷札を渡され、通過地点でそれを落としていかなければならなかったこともあった。近道しないようにだ。

 まあ、はっきり言って、ロードレースではなかった。

 自転車のテレビ放送はツール・ド・フランスが民放で少しあったけど、89年にNHK・BSがパリにスタジオを置き、生で放送を始めたのが最初だった。ただ、その他のレースの放送はいっさいなかった。

80年代の日本の自転車といえば、中野浩一(左)しかなかった。フランスのスーパースター、ベルナール・イノー(右)を見たければ、洋書店でミロワール・デュ・シクリズムを取り寄せるしかなかった(ちなみにこの二人、誕生日が同じ) Photo: Yuzuru SUNADA80年代の日本の自転車といえば、中野浩一(左)しかなかった。フランスのスーパースター、ベルナール・イノー(右)を見たければ、洋書店でミロワール・デュ・シクリズムを取り寄せるしかなかった(ちなみにこの二人、誕生日が同じ) Photo: Yuzuru SUNADA

 自転車雑誌としてはベースボールマガジンから自転車競技マガジンが出版されていた。初期の頃、宮田工業におられた沼さんがヨーロッパのロードレースを解説されていたが、時代を超越したレベルの高いもので、今も通用する内容だった。しかし、この雑誌も次第に内容がないものとなり、廃刊に追い込まれた。

 ニューサイクリングという老舗雑誌もあった。自転車ジャーナリズムとしては世界最高峰に立つフランスのピエール・シャニーが寄稿し、ジャパンカップを運営されたこともある柴野さんの手によって翻訳されるという偉業もあったが、基本的にはサイクルツーリングの雑誌だった。

 だから、ヨーロッパのレースに興味がある人たちは、当時発刊されていたフランスのミロワール・デュ・シクリズムを洋書店で取り寄せていた。

 80年代の日本の自転車競技の状況を一言でいうと、自転車=競輪、競輪=中野浩一、中野浩一=世界選10連覇。以上が日本の自転車競技のすべてだった。だけど、中野浩一・世界選スプリント10連覇と報道しなければならないところを、長らく中野浩一・世界選スクラッチ10連覇と書いていた。

 これからも分かる通り、日本に海外からの情報がほとんどなく、まさに鎖国状態だった。そんな中で、1989年に僕は今のこの仕事をやろうとしたのだから、周囲の反対もあったし、やっていけるはずがないという声も耳にした。こうした反応は当然といえば当然だった。

現像所を探し回ったアナログ時代

 当時、デジタルカメラは出ていなかった。新聞で仕事をするフォトグラファーはレース会場でモノクロフィルムやネガフィルムを現像し、それを電送機で送っていた。その頃の僕は新聞の仕事がなかったので写真をすぐに送る必要はなく、使っていたのは雑誌の世界で主流だったリバーサルフィルム、別名スライドフィルムだった。

 ジロやツールでは大会期間中に何度かプロラボに行って現像してもらい、レースの合間を見て整理を進めていき、必要があれば国際宅配便などで送るというやり方だった。

 プロラボというのは現像所のことで、日本国内のちょっとした都市ならば探すのにたいした苦労はなかったが、ヨーロッパでは数が限られていた。イタリアはまだ良い方で、フランスはあんな大きな国なのに現像できるところが少なく、料金もイタリアの倍だった。

 とにかく日頃から周りのフォトグラファーと情報を交換し合い、どこで現像できるかを教えあっていた。そして誰かが現像に行くとついでにお願いしたり、あるいは逆に自分が行くときには他のフォトグラファーのものを預かった。

 リバーサルフィルムの現像は1時間半くらいで仕上がるものの、プロラボを探し出すのと、レースとレースの合間を見て行くまでのもろもろの過程を含めると、時間とエネルギーを使う大変な仕事だった。

ヨーロッパ流で写真を管理

リバーサルフィルムをマウント仕上げをした写真。それぞれの枠に選手名などを書き込んでいく Photo: Yuzuru SUNADAリバーサルフィルムをマウント仕上げをした写真。それぞれの枠に選手名などを書き込んでいく Photo: Yuzuru SUNADA

 ミラノの住まいにいるときは、ピアッツァ・ロレートにあったプロラボに通い詰めた。ロレートは中央駅の近くで、殺されたムッソリーニが逆さ吊りにされて見世物になった広場だ。

 ご存知ミラノはファッションの中心地。そのプロラボには世界中からモデルの卵が集まって、コンポジットといわれるブロマイドのための写真も持ち込まれた。オーナー夫婦は英語ができなかったので、中学生よりも下手な英語しか喋れない自分がよく通訳に駆り出された。身長172cmの僕がさらに見上げなくてはならない美女たちを相手にだ。

 リバーサルフィルムの現像のあとの仕上げには2種類ある。日本のフォトグラファーの間ではスリーブ仕上げが主流で、5、6コマつながった状態のものをシートに入れ、その中から良いものを選んでハサミで切り取るやり方だ。

 一方、ヨーロッパのフォトグラファーはマウント仕上げと言って、1コマ1コマ、スライド用のマウントに入れる仕上げをやっていた。そしてそれに細ガキのマジックで大会や選手名などを書き込むのだ。

 僕も最初はスリーブ仕上げにしていたが、すぐにヨーロッパのフォトグラファーを見習ってマウント仕上げに切り替えた。

 スリーブ仕上げは写真を素早く一覧できるのがメリットだけど、選手名などを書き込めないために細かくは管理できない。仕事先が雑誌一社だけだったらそれでもいいけど、将来再利用することは難しい。

 僕はマウント仕上げにしてもらい、面倒だけどその一つ一つに大会や選手名を書き込んでいった。そして、これがのちに生かされることになった。膨大な数の写真をうまく管理することを覚えたおかげで複数のクライアントを持つことができ、今に至っている。もしあのときに日本流のスリーブ仕上げを続けていたならば、その先はなかったと思う。

過去のフィルムは“蔵”に保管

 マウント仕上げはスライドの型枠に入れるので厚みが増し、その分、場所をとる。やがて日本の書斎に入りきらなくなったため、自宅の敷地に残っていた蔵を改装して保管できるようにした。家を建てるときにその蔵を壊す話が持ち上がったが、僕は天然のクーラーでもあるその建物にこだわり、曳家(ひきや)と言ってそれを木のレールに乗せて移動させてまで保存にこだわった。曳家、さらに中の改装と地震対策はかなりの出費だった。

大量のリバーサルフィルムを管理するため、自宅にあった蔵を曳家。中を改装して保管庫にした Photo: Yuzuru SUNADA大量のリバーサルフィルムを管理するため、自宅にあった蔵を曳家。中を改装して保管庫にした Photo: Yuzuru SUNADA

 仕事を始めた当初からマウント仕上げをし、保管する場所を確保してきたが、これらを怠っていたならば、自転車の仕事を続けることはできなかったと思っている。

 一般の人にとって、プロのフォトグラファーというのは、写真をうまく撮ることしかイメージできないかもしれないが、それはあくまでも仕事の一部分だけである。実際は撮った写真を整理・保管し、運用していくことで商売につながっていく。

 早い話が、撮ったものを金にするまでがプロということだ。デジタル化になった今もそうした根底部分は変わっていない。(続く)

砂田弓弦砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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