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砂田弓弦の風を追うファインダー<11>ジロの事故で身にしみたレースドクターのありがたさ 白バイ隊員とも“友達”に

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 僕が初めてイタリアに行ったのは1985年。卒業式にも出ず、卒業証書を友人に頼んで宅配便で家に送ってもらったから、正しく言うと、大学を出る前にイタリアに渡った。

 ある日、歯が痛くなり、当時住んでいた村の歯医者に行った。その医者は自転車が好きだった。当時は競輪の中野浩一の全盛期で、僕もその年にイタリアで行われたトラック世界選手権を見に行った。歯医者は中野の話になると手を止め、ベラベラと話し始めた。

 イタリア人は、同時に2つのことができない。たとえばバールでコーヒーを入れる人は、マシンからコーヒーが落ちてくる間、なにもしないでじっと待つ。日本人だったら、きっとそこでなにかできることを探すと思うし、僕だったら間違いなくそうする。

 だから、自転車の話で手が止まるのいいんだけど、このときは、ひととおり喋ったあとに痛くもない反対の歯を治療し始めたのだ。もちろん、「ノー」と言ってストップしてもらったけど、ありえないような実話である。

あてにならないレースドクターの診察

 2001年にアントワープで行われたトラック世界選手権では歯茎が炎症を起こし、強烈な痛みに襲われた。友人に薬を買ってきてもらったが、まったく効かなかった。だけど、仕事は完遂した。

 これとは反対に、本当に仕事を投げてしまったレースがこれまで一回だけある。1995年のジロ・デル・トレンティーノである。すごい熱が出たけれど、風邪ではなかった。ちょうどマペイチームと同じ宿だったので、チームドクターに診てもらった(彼は今はBMCのドクターをやっている)。大したことはないと言われたけど、もう熱でどうしようもなく、予約してあったオートバイもキャンセルしてミラノの家に戻った。病院に行ってわかったのは、子供からもらったウイルス性の口内炎だった。それから1週間、寝たきり状態となった。

2008年のツール・ド・フランス。雨の中を走るリッカルド・リッコ。僕の目に植物性の何かが刺さっていて右目が開けられず、反対の目でファインダーを覗きながら撮った Photo: Yuzuru SUNADA2008年のツール・ド・フランス。雨の中を走るリッカルド・リッコ。僕の目に植物性の何かが刺さっていて右目が開けられず、反対の目でファインダーを覗きながら撮った Photo: Yuzuru SUNADA

 2008年のツール・ド・フランスでは、写真を撮るのに大事な右目が痛くなり、ちゃんと開けられなくなってしまった。スタートでレースドクターに診てもらった。オープンカーから走っている選手の止血をしたり、腫れ止めのスプレーをしたりする、テレビにも良く映し出される人だ。

 僕に目薬をくれたけど、痛みはまったく引かなかった。レース終了後、もう耐えられなくなって、仕事仲間のクルマで病院に連れて行ってもらった。そうしたら、葉っぱか花粉か分からないが、植物性の鋭いなにかが目に刺さっていた。慎重にそれを取り除いてもらったら、痛みがウソのように取れた。

 チームドクターやレースドクターは、ちゃんとした医学の知識を持っているとはいえ、あくまでも応急処置しか施してくれないことを身をもって知った。

ジロでクラッシュ 壊れた右膝

 ご存知の方も多いと思うけど、僕は昨年のジロ・デ・イタリアでオートバイもろともガードレールに突っ込んだ。オートバイは廃車となり、僕の持っていた機材のほぼ全てが壊れたけど、いちばん壊れたのは僕の右膝だった。ガードレールにぶつかる前に、右足で衝突の衝撃を和らげるようにガードレールを蹴ったからだ。そのダメージは強烈で、僕がちゃんと正座できるようになったのは事故から半年以上経ってからだ。

 事故の時、救急車に乗って病院に行くように強く言われたが、僕はやせ我慢をし、その場で屈伸運動をして見せた。仕事のことを考えるとリタイアはできず、入院するわけにはいかなかった。僕は救急車とオーガナイザーのクルマを乗り継ぎ、プレスルームで数枚の写真を送ってホテルに向かった。

 ところがホテルに着くと、膝の痛みが増して、もう歩くことができなかった。服を脱いで初めて分かったのは、下着は血だらけで、縫わなくてはいけないような傷もあった。

 僕は救急車で病院に運ばれた。いっしょに乗り込んでくれた女性の救急隊員がすばらしい美人だったのだけど、病院の処理が遅く、何時間も待たされた。

 処置が終わったのは深夜。そして次に運ばれたのは、仮眠室だった。今晩はここに泊まれということだった。僕はこのときばかりは「ジロの写真を撮っているから、ここにいることはできない。帰してくれ」と懇願し、このわがままが認められた。医者や看護婦さんも、この近くにジロが来てることくらいは知っていて、それが幸いした。

 だけど、ジロでの事故だから優先して先に診てもらえるなんてことはまったくなく、一般の患者と同じ扱いだ。2012年にテイラー・フィニーがマリア・ローザを着ていながら病院に運ばれたときも、普通の患者と同じく、何時間も待たされたという。このことが、レントゲン設備を持つ救急車がジロに随行するきっかけともなった。

2015年のジロでの事故。これまで何度かレース中に転倒しているが、最悪の事故だった2015年のジロでの事故。これまで何度かレース中に転倒しているが、最悪の事故だった

ドクターの許可でモトカメラに復帰

 歩くこともままならないけど、仕事を放り投げることは絶対にできない。僕の写真を待っているところが、いくつもの国で何社もあるのだ。だから、翌日も足を引きずりながら現場に行った。

 事故のことはテレビでご丁寧にも僕の名前が言われ、さらに翌日のガゼッタ紙にも載ったし、イタリア国営通信ANSAの配信記事にもなったために、もう知らない人はいなかった。オーストラリアやアメリカの雑誌からもすぐに連絡が来たことからも分かる通り、世界中に知れ渡ってしまったのだ。観客でさえ、僕がどこの誰かを知っていた。

 レースは毎日ある。だから、病院に通うことはできない。その日から、僕の主治医はレースに随行しているレースドクターとなった。

 恐ろしいことに、ドクターは足を引きずって亀のようなスピードで歩く僕に、「もう、オートバイに乗って撮影を始められるよ」と言った。事故からわずか1週間のときである。

 フランスにいた新城幸也から「レースドクターは選手を走らせるのが仕事だから、ちゃんとした病院で診察を受けなければならない」、現場にいたマッサージ師の中野喜文からは「まずは安静と固定」と言われ、日本にいる医者からは「後遺症が残るから、ちゃんと病院に行くように」と強いアドバイスをもらっているときにだ。

 だけど、僕はレースドクターの声を天からの声と解釈し、本当にオートバイに乗って取材を開始した。

ドクターや白バイ隊員から友達リクエスト

ジロに随行しているレースドクターたち。自分をレースに復帰させてくれた恩人たちだジロに随行しているレースドクターたち。自分をレースに復帰させてくれた恩人たちだ

 今の僕は、ある一定の方向に足をひねるとまだちょっとした痛みがあるけれど、とりあえずちゃんと正座できるし、自転車にも乗れる。幸いにも完治したと言ってもいいだろう。

 今回、あらためてレースドクターのことがよく分かったけれど、非難するつもりはまったくない。彼らは選手を走らせることも大事な仕事だし、その延長線上に僕がいたわけである。僕を診てくれたことに対しては本当に感謝の気持ちでいっぱいで、彼らには心からお礼を言った。

 そのせいか、後日、ドクターや救急隊員たちといっそう仲が良くなり、フェイスブックで友達リクエストが来た。さらに、まっさきにかけつけた警察の白バイ隊員からもリクエストが来たことには笑ってしまった。

 だけど、あの救急車にいっしょに乗ってくれた美人救急隊員からリクエストがなかったのはチョー残念だった。(続く)

砂田弓弦
砂田弓弦(すなだ・ゆづる)

1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わる。世界のメジャーレースで、オートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人。多くの国のメディアに写真を提供しており、ヨーロッパの2大スポーツ新聞であるフランスのレキップ紙やイタリアのガゼッタ・デッロ・スポルト紙にも写真が掲載されている。

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